第7話

 涙がハッとなって目を覚ますと、彼は飛んでも無いくらい濡れていた。いつの間にか池に落ちてそのまま仰向けで意識を飛ばしていたらしい。空に浮かぶ月は黄金色の満月、輝いていた。


 池の中に居たはずの鯉たちはそこにはいなかった。むしろあるのは池の底にあるはずのない大量の火山灰のような塵。あとの変化と言えば、涙が左手に何かを握っていることだけだった。


 見覚えも、どこで手に入れたのかも分からない物のハズなのに、涙は一ミリも不思議な顔をしなかった。手を開くとそこにあったのは、元の色は灰色、しかし緑色に煌々と輝く――そう、月の石だった。涙は酷く絶望した。あのユメで、あの堕天使に告げられたことすべてが本当なのであれば、世界の半分は消滅し、涙は贖罪に掛けられるかもしれないし、さらに少年は世界をもとに戻すという重大任務を担うことになる。


「あ、みんなの元に行かなきゃ……っ」


 涙は家の静けさがあまりにも奇妙だと思いすぐさま池から飛び出して広間に戻った。月の石をズボンのポケットに大事にしまって、ぐしょぐしょに濡れていたはずの衣服は一歩踏み出すたびに乾いていった。それはありがたいのだが、その不可思議現象の原因は何なのかを、涙は家族の名前を一人一人叫びながら考えていた。


「るいぃ! どこじゃぁ! るいぃ!」


「……! お爺様!」


 涙は縁側の方に人の影があったのを確認した。年老いて掠れた声の主は間違いなく自分の祖父であると確信していた。遠くも無ければ近くも無い絶妙な距離感で彼と涙は過ごしていた。


「涙……。よかった」


 祖父の三日月幸弘。彼は涙が居てくれたという安堵で泣き崩れだす。その表情を見た涙は他の家族はどうなったのかなんて到底聞けなかった。

世界の半数が突然消え去った。


サタンの言っていたことは紛れもなく現実で、運悪く三日月家は半数以上がその犠牲になってしまった。


「お爺様。僕もお爺様が居てくれてよかったです」


 たった二人。残っただけでもいい方だと捉えるのはずるいだろうか。一人だけだったらどうなるのだろうか。そう考えただけでも心が痛くなる涙。


『どうせ最後には僕が折れて委員長になるわけだ。余程の理由が出来ない限り』


『余程の理由? 例えば?』


『世界の半分の人口が一夜にして消滅、僕または僕以外の家族が消えてしまう。とか』


 この陽との会話が現実になった。それもなんだか不気味に思えた。


 嫌な夢であってくれたらいいのにと何度も願った。


 広間に戻るとそこには家族の身に着けていた、或いは持っていた私物だけが残っていた。イヤリング、ピアス、ネックレス、指輪、ハンカチ、キーホルダー等。落ちていたものの大半は、涙が自分で作って家族に渡したものばかり。本人は捨てられていると諦めていたところがあったのか、散らばったものを見て言葉を失くした。目は水が溜まって、ダム崩壊の寸前だった。


 咲にむけて作ったハンカチ。使い古されて少し縒れているところがあった。


 秋や母さんにむけて作ったアクセサリーは金具が緩くなっていて、装飾も含めて取れやすくなっていた。父さんと祖父母にむけて作ったキーホルダーには今でもこの家族の集合写真と昔の父さんと祖父母の家族写真が入っていて、父雅弘の少年の姿はとても無邪気に見えた。


 家族がいたはずの場所には鯉と同じように火山灰のようにしつこくて黒い塵が落ちていて、やはり成すすべもない。


 涙は膝をつく。そして自分の利き手である左手をグーにして、それを床に強く叩きつけた。かつて感じたことがない怒りが彼を支配する。叫んで感情を爆発させたいが、こんな時でも彼は隣にいる唯一残っていた祖父の顔色を窺っていた。


「涙……。大丈夫だ」


「そうですね……。お爺様が居てくれてよかったです」


 祖父に手を借りて立ち上がろうとした涙だったが身体がすっかり怯えていて、手足の震えがしばらく続いていた。祖父が広間の隅に置いてあるテレビの電源を入れると、緊急報道番組が流れだした。


報道の資料として同局のバラエティー番組の収録中のものが。有名な俳優やタレントたちが灰になって消えていく様をそのカメラが捉えていた。だが全員消えたわけではなく、スタジオに居た約半分はそこに残っていた。また、消えた人間たちは日本だけに留まらず、どこの国でも同じように人々が消えてしまっているようだった。特にイギリスではその少し前に不可思議なボヤ騒ぎが同時に数件起きており、何かしらの関係があるのではないかと政府各位は睨んでいるようだ。


「お爺様、部屋に置いてるスマホを取ってきます。ここに居てください」


「分かった。ワシも青森の娘に電話を掛けてくるわい」


「うん。つながるといいね……」


 この時、涙の頭の中では別の者の声がずっと聞こえていた。


 知らない誰かの声が。


 ソイツは涙の記憶から彼と繋がりのある人間をピックアップし、この世から消えたかどうかを知らせていた。嫌な知らせだ。涙は耳を塞ぎたくなったが、ソイツの声は自分の脳内にしか聞こえていないので塞ぎたくても塞げなかった。


 自室の机に置いていたスマホを手に取って電源ボタンを押す。同じ人から何件も通知が来ていたみたいだ。画面に表示される〈日比谷陽〉の文字。それを見ただけでも涙は安堵の笑みと希望を持った。陽と電話で話がしたい、そう思うよりも先に涙は彼に電話を掛けていた。


「涙! お前は無事か⁉」


「陽……うん。僕はね」


「『僕は』って……。お前だけなのか?」


「僕とお爺様だけいる。両親と姉さんたちが灰になって消えてしまったんだ」


 陽は言葉を失くした。友達のとても大きな悲劇になんて声をかけたらいいのか思い浮かばないみたいだ。むしろここで慰めの言葉を直ぐにかけないのが彼の優しさとも言えようか。


「陽? 僕たちは大丈夫だから。君の方はどうなんだい?」


「すまん涙……。近所の人たちの何人かはお前の家族と同じように消えたんだけど……俺のところは、その――」


「誰も消えてないんでしょ? はっきり言ってもいいんだよ。それはソレでいいことじゃないか」


 スピーカーから陽の謝る声が何度も何度も聞こえてきた。同時に涙には誰かの嘲笑う声が聞こえていた。涙にはどうしようもない。これからさらに待ち受ける試練を乗り越えなければならないということだけ考えていた。


「陽、君は本当にお人好しさんだね。僕の代わりに泣いてくれる。僕は君のそういうところが好きだ。――」


 明日、僕に「おはよう」って、「今日も一緒に頑張ろうぜ」って言ってくれたらそれでええんやで。


 涙の声はとても静かで、水のように透き通っていた。心の奥ではずっと胸騒ぎが起きていて気持ち悪かった。自分の状況が分かっているから、困惑しているから、ホントは誰かに頼って、誰かの手のぬくもりを感じて胸のざわつきを抑えたい。でも友達に心配かけて目の前で沢山泣くわけにもいかない。泣くことが三日月涙らしくないからだ。


 陽の声が止まった。微かに聞こえるすすり泣く音。


「るい。また明日な」


「あぁ、また明日。……陽、ありがとう」


 顔からスマホを離して『通話終了』というボタンを押すと、同時に部屋に静寂が訪れた。


 涙は親友に最も大事なことを言えないまま切ってしまったことを後悔する。


『月は太陽をだます――だな。どうだ気分は』


「太陽が月をだますかもしれないよ。ところで君は誰だい? まぁ僕が陽をだますことはまず無いからね」


『我はサリエル。月の神だ』


「あぁそう。よろしく」


 涙は頭の中でずっと語り掛ける神様に腹を立たせながら祖父の居る部屋に戻っていった。




 広間に戻ると祖父は暗い顔で涙を迎え入れた。そして祖父は自分の二番目の息子しか繋がらなかったと伝えた。その事実には涙も心を痛めた。親族で残っている人間があまりにも少なすぎるという残酷な状況に未だ現実味がもてない。


「涙。お前の友達はどうだったんだ?」


「電話繋がりましたよ。彼の家族のところはみんな無事だったみたいです。無作為で人が襲われたようです。お爺様、しばらくは家にいた方がいいと言いたいところですが、自然災害でない観点から明日も普段通り生活しましょう。直ぐに戻ってくるかもしれませんから、何も変わらない生活を送りましょう」


 涙は表情にこそ出さなかったが、心の中では酷いことを言っていると自負していた。「混乱している世界に、今まで通り変わらず進んでいきましょう」と提案している自分を容赦なくぶん殴りたい気分だった。


 心がモヤモヤする。お爺様にだけは言うべきだろうか――テレビに目線をやって怯えている祖父を見つめる涙。それを見て考えるや否や、口を開いた。


「お爺様、実はさっき僕、月のい――痛い……。池で月のぉぁムム……」


 月の石をしまっていたポケットに手を突っ込んで取り出そうとするとそれは涙の手を攻撃したり手からすり抜けたりして遊ばれていた。祖父はポケットで不思議な遊びを繰り返している孫を見て首を傾げ、少し不満げな顔をした。


「お前は何をしている。何か言いたいならはっきり言いなさい」


「言いたいけど、見せたいけど、……ごめん。やっぱり今度にしようかな。ポケットで物が引っかかって出てこないみたい」


「動物じゃないだろうなぁ」


「うん。違うよ石。綺麗な石。でも今日は止めておくよ」


「好きな時に見せておくれ」


 嗚呼、また隠し事をした。信じていい人に、頼ってもいい人に。

 涙はどうしようもないことで心を痛めて、自分の不甲斐なさを情けなく思った。

 涙はその日、いつもなら家族に言う「おやすみなさい」を言わずに自室に戻った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る