第2話 

庭の中心にそびえているユグドラシルを思わせる木の枝のところに数羽の雀が座っていた。


「かんぱーい!」


 三日月家の広間で複数のグラスがカランと快音を鳴らした。家族はニコニコしながらグラスの液体を何の躊躇もなく口に入れ「くはぁーッ」と声を漏らす。主役である涙以外は。

 気が乗らない。どうして皆自分のことじゃないのに自分のことのように喜べるのだろう。涙は不満げな気持ちに苛まれるがロングテーブルの向かい側に座る祖父母を見て、自分に口角が上がっている仮面を貼り付けた。


 僕はもう子供じゃない。


彼は葛藤する。変わりたいけど、完成された線路から外れるということはそう簡単なことではない。


自分の周りで自分を褒める家族がよくわからない。彼は頗る居心地が悪そうだった。


「入学式のスピーチ聞いたよ涙。立派になったわね!」


「ありがとう咲姉さん。姉さんも個展が上手くいっているみたいでよかった」


 咲が涙に寄り添って頭を撫でる。米国の有名な芸術大学に現役で合格し、四年間の研究を修了した『超天才肌』と呼び声高い長女。そんな彼女のことを涙は嫌悪することはあまりない。生きている次元が異なるから気にしないだけなのかもしれない。


でも涙は咲の努力を知っている。


彼女が高校三年、涙が小学五年の頃。家の中で制作していた彼女は突然暴れだした。「何をやっても上手くいかない」と作品の紙プロットをビリビリに破いたり、ぐちゃぐちゃにしてかき集め庭の池の近くで盛大に燃やしたことがある。その作品は絵画、写真、小説など固定の物がなく、彼女はとにかく何にでもハマりやすくそつなくこなすため、彼女の著作財産はその当時から計り知れないほど多かった。


そんなスランプの姉を救ったのが涙だった。学校の家庭科の授業でやった刺繍を涙は姉に見せた。男の子らしい歪な針の通りと、「おそらく犬」としか言えない刺繍を見て彼女は笑った。


「涙、なんですかそれは」


「え、ビーグル犬ですよ姉さん。見えませんか?」


「えぇ。『おそらく犬』という認知でしかありませんね。どんな授業を受けたのですか?」


「家庭科の授業です。でも僕、母さんから裁縫を教わっていなくて。先生もあまりお上手ではなくて……。刺繍の下書きはこんな感じです」


 涙はそういって咲にキャラクターっぽく書かれたビーグル犬のイラストを見せた。それなりに描けているイラストを見てまた咲は笑った。


「このイラストを刺繍するのは私でも難しいことです。千年生きることと同じくらい難しいです」


「どうしてですか? 姉さんはとても器用であるのに……」


「私は器用ではないわ。今の私を見たら分かるでしょう。何も出来ない。こうして無機質から熱を貰っている。むい――」


「姉さんは無意味なお方ではありませんよ。僕が保証します」


「え……」


 涙は二人の間で燃え続ける作品に水をかけて火を消した。


「難しいなら練習すればいい。縄跳びの二重跳びが出来なかった僕に姉さんはそう教えてくれました。……難しいことを考えるのをやめて一度基礎に戻りましょう。ついでに僕に刺繍ではなく裁縫を教えてください」


 涙は自分の刺繍をじっと見て段々と「とても下手っぴだ……」と言わんばかりに顔をしかめた。その顔を見て咲は大きな声で笑った。笑い過ぎて涙を流すくらい。


「そうね。壁の乗り越え方は壊すだけじゃない。ありがとう涙」


 そっと抱きしめられる。姉からはバラの香りがした。


 そして三日月咲は成功した。大学在学中に個展を開き注目を集め、卒業する年に出した絵画作品は一億で売れた。執筆した小説は重版に重版がなされている。


 小説の第七作目には暴走し続ける少女と、それを食い止めた少年の話が。まさに咲と涙の物語。


 涙は目指すべき存在として、咲は心の安寧として、お互いを見続けていた。結果、姉を追い続けた涙は早くしてメカニック系に強い存在になり、中学二年の時に提出した学校の自由研究の一環で作ったパワーロボットは日本のIT界を多少震撼させたのだった。


 「渡米して一年目の時に貴方が贈ってくれた刺繍のハンカチ、まだ持ってるのよ。元気がない時にあれを手に出したら、嫌なことが吹き飛ぶの」


「『おそらく犬。』『多分犬(猫)。』『犬だったかもしれない』って刺繍のハンカチまだ持ってるの? 姉さんも変わってるなぁ」


「だってぇ、自分の弟がわざわざ高いお金払って面白いもの送ってくれたらそりゃ嬉しいじゃない! ホームステイ先の家族にもめちゃくちゃウケたのよ」


「ウケなくていいよ……」



 二人で仲睦まじい様子の時、涙の左側にもう一人の姉がくっついてきた。

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