第3話
「すべては愛だよ。愛にかかっている。われわれのやろうとしていることは、博愛主義的な人類愛とは次元が違うものだ。真実の愛とは見返りなど求めない!」
三年前のあの日、大倉博士の演説を聞いて人生の目的が見つかったと感じたミナモトは、興奮を抑えきれず、隣にいるエルメスにも気持ちを伝えようとした。
だが彼女は言ったのだ。
「最低……」
「えっ……?」
「行きましょうミナモト。興奮した人たちがなにをするかわからないわ」
彼女の言うとおり、カフェフロアは険悪な雰囲気に包まれていた。
「当然だわ」エルメスはいった。「地球脱出の準備が整って、全人類の安全が保証されたというのに、いまさら地球を救う話を持ち出すなんて」
ガシャン、と音が響いた。
ミナモトが何事かと目をやると、大勢の人々が、コーヒーカップやグラスを大型ビジョンに向かって投げつけていた。
エルメスらしくない言葉だった。あれだけ地球の環境保護を訴えていた彼女が、どうしたというのだろう。
気がつくと、混乱するカフェフロアを後にするエルメスの後ろ姿が見えた。その背中が、ミナモトには別人に感じられた。
「エルメス!」
ミナモトは後を追った。
「さっきは、君の言葉とは思えないね。どうかした?」
「いいえ。どうかしているのは大倉博士よ」
冷たい響きだった。ミナモトに動揺が広がる。
「僕は、素晴らしいと感じたけどな」わずかに声が震えているのを感じながらミナモトは言った。
「地球を救えるのが僕たち人類だなんて凄いことだよ。まさしく環境問題に取り組んできた僕らにとって……」
「あなたって」エルメスがミナモトの言葉を遮った。「あなたって本当に純粋」
「それって……馬鹿ってこと?」
エルメスは笑った。
「ちがうわ。あなたらしくてとても素敵よ」
いつもの無邪気な笑顔が戻っていた。ミナモトは安心をしながらも、まだ心のどこかで不安を感じていた。
空に七色の光が走る。磁場の乱れによって本来の空の色は失われていた。大気の変化も激しく、人間は外を歩くことが出来ない。ミナモトとエルメスは遮光断熱の透明チューブを通り地下施設へと向かいながら、しばらく無言だった。
エルメスの気持ちを計りかねずにいながらも、人生の目標を見つけた喜びと、使命感が湧き上がってくるのを押さえられない自分がいた。
エルメスの手がミナモトの手に添えられた。
「わたしのこと、愛している?」
彼女のブルーの瞳が見つめていた。
「ああ、当然だよ」
「そう……それなら、いい」
「なにが、いいのかな?」
「行きたいんでしょう」
エルメスが立ち止まった。
「まるで天の啓示が下されたみたいなその顔。あの時と同じだわ。わたしが環境問題で一席ぶった時」
「居住者フォーラムでの講演会」
「そう! 地球を捨てよと講演していた教授に、わたしが反論した」
「地球を壊し放題で逃げるのは恩知らずだ! 環境を変えるだけのテクノロジーを持ちながら、活路を他に求めるとは腰抜けのやることだ!」
ふたりは大笑いした。
「よく憶えているわね」
「そりゃそうさ。僕はその言葉にメロメロになったからね。環境問題に目覚めた瞬間さ」
「ふーん。わたしにじゃなかったのね」
「い、いや、そうじゃない。君にだよ。ついでに環境問題」
エルメスが笑った。
「ほんとに単純。でも、その後わたしの前に現れたあなたの顔は今と同じだった。なにか大事な宝物でも見つけたような表情」
その瞳がわずかに憂いを帯びたのをミナモトは見た。彼女がなにを思い感じているのか、やっとわかった気がした。
「心配ないよ……僕は、行かない」
チューブの向こう側で火花が散った。落雷が朽ちた大木を断ち割ったのだ。
「……駄目、あなたは行くべきなのよ。気づいてないだろうけど、あなたの自然に対する思いはわたしを追い越しているわ。人生をかけた使命を感じられるまでにね」
落雷が激しさを増した。稲妻が雨のように降り注ぐ。
「大丈夫。私たちはいつも一緒よ。私は自分に出来ることをやる。あなたは、自分の思った通りにやるべきよ」
「ま、待ってくれ。僕は……」
警報が鳴った。空襲のように雷が暴れまわっている。
退避勧告が流れる中、エルメスがミナモトの胸に飛び込んだ。
唇を重ねたふたりは、弾ける光に包まれて抱き合った。
その後、ミナモトの人生は変わった。
地球を救う使命のために、テラズセブンとなったのだ。
エルメスと会うのは、衛星回線を利用したビジョンのみ。しかしそれも、電磁波の嵐が臨海を超える状況になり始めると、使用不可能となった。
エルメスは、貧困層に対する移住の待遇改善を政府に働きかける活動を始めたという。現状は厳しいらしいが、それに賛同してくれる富裕層の人間もいるそうで、ミナモトは、現代のシンドラーだな。と励ました。
完全に会えない状態となっても、貧困層のために奔走を続けているエルメスの存在を糧にして、ミナモトは訓練に耐えた。
そして、あの日がやって来た。
オーストラリアのエアーズロック。施設の中心に設けられたヘリポートに降り立った特殊軍用ヘリ。タラップから現れたエルメスを迎えたのは、ミナモトだった。
「おどろきだよ。こんな形で再開できるなんて」
「わたしもよ。元気だった?」
「ああ。オリンピックに参加できるほどのアスリート気分さ」
「そう。種目はなにかしら」
「さぁね。トライアスロンなんてどうかな。それくらい、力が漲っているよ」
ミナモトがエルメスを抱きしめようと手を伸ばす。
彼女はそれをすっとかわして、ヘリを指差した。
「紹介するわ」タラップを降りてくる男がいた。「彼は、連邦政府移住管理局局長のジミー・ハリソン。彼のおかげで悪天候の中をやって来られたのよ」
細身で長身のハリソンは、ミナモトに微笑んだ。
「ミスター・ミナモトだね。噂はエルメスから聞いているよ」
この状況はミナモトの想像とは違う展開だ。エルメスが直接ここに来ると大倉博士から聞かされた時、てっきり、個人的な目的でエルメスが面会に来るものだと思い込んでいた。大倉博士もそう判断していたが、違うのか。
「ちょっと、待ってくれ。これはどういうことだエルメス。君は個人的に僕に会いたいと大倉博士に連絡をくれたんじゃないのか」
「ええ。そう言わないと、ここへの訪問を許してもらえないと思って」
「……どういうことだ?」
エルメスがハリソンの顔を見る。彼に助けを求める表情だった。
「騙したことは、あやまります」ハリソンが言った。「しかし、我々としても最後の説得にここへ来る必要があったのです」
「いまさら、なんの説得をしょうというのですか。大倉博士の決意は……」
「説得したいのは、大倉博士ではありません」
ミナモトは「えっ?」と呟やいた。
「わたしが説得に来たのは、あなた方、テラズセブンの人たちです」
呆然とするミナモトに、エルメスが寄り添った。
「わたしがハリソンに頼んだの。自分の信念に生きる大倉博士はそれでいい。でも、彼の信念に付き合わされるあなた達は違う。滅びる地球から逃れる権利があるのよ」
「……権利?」
「そう。わたしは黙って死んでいく人を見過ごせない。人間には人生を謳歌する権利がある。大倉博士の誤った信念のために、死ぬことはない」
「そのためにここへ……」
「このハリソンは良識のある人間よ。民衆より先に移住した為政者とは違う、信頼できる政府スタッフだわ。空洞化して政治的指導力を無くした連邦政府に変わって、今では、彼が移住計画の総てを指揮している。この移住計画が完了すれば、先に移住した高官たちの責任が追求されるでしょう。その時、新たな指導者となるのはきっと彼だわ。ねえミナモト。命がけでここへ来たハリソンとわたしの話を聞き入れて」
ミナモトの頭はくらくらした。あらゆる感情と言葉が洪水のように押し寄せる。
「なにを、いまさら」ミナモトは吐き出した。「君はなにをいまさらのようにここへ来たんだ」
エルメスの表情が凍りつく。だがそれにかまうことなく、ミナモトは続けた。
「あの時、君と僕は行く道は違ったが志は同じだと思っていた。君は理解してくれたはずじゃないか。そうだろ?」言いながらミナモトの心には違う思いが湧き上っていた。それはとても単純で子供のような感情だ。「僕に会うために来たんじゃないのか」
だが、ハリソンのいるこの場では言えなかった。ある種の直感に女性が優れているというが、男にもある。その直感が正しければ……。
「いいでしょう」ハリソンがいった。「ミナモト、あなたはそれでいいが、ほかのメンバーはどうでしょう?」
「それは、聞くまでもない」
「あなたは間違っています。それはあなたの答えることではない。悪いが、他のメンバーの所へ案内をお願いします」ハリソンは射るような視線をミナモトに向けた。「これは人命に関わる事だ。混乱しているとはいえ、連邦政府の機能は存在している。本人の意思を確認するまで、民主主義と人命尊重の精神は貫かねばならない」
ミナモトの手がハリソンの腕を掴む。怪訝な表情のエルメスが何かを察してミナモトに取り付いた。
「暴力は駄目!」
ハリソンを守ろうとふたりの間に割って入る彼女の瞳は、敵愾心に燃えていた。ミナモトの心は張り裂けそうだった。
「ミナモト。お願いだから言う事を聞いて」
エルメスのその行動に傷ついたミナモトは、自分でも思いもしなかった言葉を吐いた。
「帰れ……。帰るんだエルメス」
「……ミナモト」
「君には最後までわかってもらえなかった。残念だが、ここでお別れだ」
ミナモトはふたりに背を向ける。後ろ髪を引かれる思いが残る。だが、それを断ち切るように走り出したその背中に、ハリソンの言葉が突き刺さる。
「君たちはクレイジーだ! わたしは大倉という男をよく知っている。三年前、あの馬鹿にキックを見舞ってやったがヘラヘラと笑っていやがった。家族に愛想をつかされても自分の妄想から覚めない狂人なんだよ! せっかくエルメスの頼みで助けに来たのに、人類の恥じっさらしめ。大倉とともに地獄に落ちろ!」
その言葉にミナモトが体を切り返し、全速力で引き返す。
攻撃を意識したハリソンが拳を構えて待ち受けた。
「カモン、ジャップ!」
ミナモトの動きは稲妻のようだった。これまでの二年間で鍛え上げられたその肉体は、どんなアスリートや格闘家よりも強靭だった。唸りをあげるミナモトの拳が、ハリソンの顔面を襲う。格闘術に覚えがあるらしいハリソンの防御は役に立たず、火の玉のような拳が左頬にめり込んだ。鈍い音と共に砕け散る歯が周囲に飛び散った。
エルメスの悲鳴。
立ち尽くすミナモトに向けられたのは彼女からの罵声だった。だが、もう聞く耳を持たなかった。彼女がわめき続ける姿を目の端で捉えながら身を翻したミナモトは、そのまま立ち去った。
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