第3話




「よし、今日の課題終了ー」



 滞りなく授業が進み、窓からは赤い夕陽が差し込む放課後の時間になった。シャーペンを手放し机に転がすと、数学の課題を進めていたノートを広げたまま、腕を上げて身体をぐぐっと伸ばす。


 軽く息を吐いた俺はそのまま自分の席から教室を見渡すが、他の生徒は帰宅したり部活に参加しており既に誰もいない。サッカー部に所属する内田も放課後に突入した途端、じゃあな、と俺に軽く挨拶を済ませた後にそそくさと部活へと向かってしまった。


 ほとんどの生徒は部活をしているのだが、俺は特に何かしたい事がある訳でもないので帰宅部。この高校では生徒の自主性を重んじているため、特に入部を強制していないのは地味にありがたい。



「家だと娯楽の誘惑が多いからなぁ」



 誘惑、というのは、言わずもがなASMRやバイノーラルサウンドなどだ。


 普段ならば家に帰宅してから課題に着手するのだが、こうして教室に残って宿題を終わらせる事はたまにある。特に曜日などは決まっておらず完全に気分になってしまうのだが、教室という場所の力もあって集中出来るのでASMRに嵌った頃から習慣化していた。



「学校では勉学に励み、家では趣味に没頭する。うんうん、充実した高校生活送ってんじゃん俺」



 軽く息を吐いた俺は、腕を組みながら一人満足げに頷く。


 幸いにもこの高校生活で友人に恵まれた俺だったが、趣味として男性向けASMRバイノーラルサウンド動画を聴いていることは誰にも言っていない。悪友である内田は勿論、家族にもである。


 家族はともかく、きっと多方面に理解が深い内田であれば俺の趣味を受け入れつつ話に乗ってくれるのは間違いないだろう。アイツは俺が無趣味で悩んでいた事も知っているし、好きな事は自分で見つけるしかないと、どこか達観した考えを持っている憎めないヤツだから。


 このまま正直に自分の趣味を打ち明けても良いのだが、ようやく見つけた趣味なのだ。おそらく話題を共有するのも楽しみの一つなのだと思う。……が、どうやら俺が意外に器量が狭いらしい。


 ―――俺は、"世間一般に浸透していない文化を俺が知っている"という優越感にどっぷりと浸りたい。


 自分でもこんな欲を持っていることに初めは驚いたものだが、同時に今まで分からなかったオタク心に理解を示せた気がした。自分しか知らない、という優越感は傍から見ればやや傲慢に聞こえるかもしれないのだが、自分の趣味をより魅力的にさせる、謂わばスパイス・・・・なのだ。


 なので内田には申し訳ないが、暫くこのまま秘密にしておこうと思う。



「さて、家に帰って『弧猫こねこ-Koneko-』さんの過去作聴きまくるかー。……その前に」



 帰る準備を行なう為、机に広がる筆記用具やノートを鞄の中に仕舞いながら立ち上がろうとするも、一旦椅子に座り直す。


 制服のポケットに手を突っ込んで取り出したのはスマホだった。



「『弧猫こねこ-Koneko-』さんのバイノーラルサウンドを、いま、ここで、猛烈に聴きたいんじゃ」



 愛用しているワイヤレスイヤホンは、充電をし忘れていたため自宅に置いてきた。そして幸いにも教室には俺一人。他の誰もいないのでこのままスマホから音を出しても多分問題はなく、現在手元にイヤホンが無くとも視聴するには絶好のタイミングである。


 とてもリスキーな行為であることは重々承知だ。他の生徒に聴かれても特にやましくはないのだが、もし万が一聴かれてしまう場合も無きにしも非ずである。


 確かに最近ASMR動画などメディアに露出する機会が僅かに増えたが、正直男性向けASMRバイノーラルサウンド動画は悔しいことにマイナー中のマイナー。教室に俺以外誰もいないとしても、もし廊下を通りがかった多感な年頃である一般生徒に聴かれでもしたらきっと引かれてしまうだろう。

 こんな目立たない俺でも噂になってしまうような事態は極力避けたい。


 ―――なのに、心のどこかで背徳感のドキドキを味わいたいと思う自分がいるのも確かだ。


 本来であればASMRはイヤホンを付けてこそ真価を発揮する。

 だがしかし、俺はどうしてもここで『弧猫こねこ-Koneko-』さんの声が聴きたい……っ!



「ふぅー」



 僅かに乱れた呼吸を静かに整えながら、俺は指でスマホを操作していく。

 慣れた手つきで動画投稿サイトのアプリを開くと、俺はある『弧猫こねこ-Koneko-』さんの男性向けASMRバイノーラルサウンド動画を視聴し始めた。


 早速ボリュームを上げる。



『……あっ、せんぱぁ~いっ! 教室のどこにもいないと思ったらこんな所にいたんですねっ! 探しましたよ~!』



 がちゃりと扉が開いた後、快活さの中に仄かな甘い声が響く。吐息混じりに息を切らしている様子から、探し回ってようやく見つけたのだろう。先輩である聞き手を慕う可愛らしい後輩の姿が簡単に想像出来る。


 俺は瞳を閉じて机に突っ伏すと、感覚を研ぎ澄まし聴覚にのみ意識を集中させていた。そのままスマホのスピーカーから伝わる音声に耳を傾ける。



『何しに来たんだ、って……もうっ、先輩の為に学校中を探し回った後輩に対してそれは酷くないですか!? 落ち込んでいるであろうぼっちで根暗な先輩を~、可愛くてキュートで、幼馴染な後輩ちゃんが慰めに来たに決まってます!』



 どうやら聞き手であるこの作品の先輩は何か落ち込む出来事があったようだ。そこで何やら事情を知っている幼馴染な可愛い後輩が、先輩を慰めるためにわざわざ探しに来てくれたらしい。


 僅かに間を空けた次の瞬間、後輩は息を吸いながら言葉を紡いだ。



『―――告白、失敗しちゃったんですよね』



 右のイヤホンからダイレクトに声が耳朶に伝わる。よいしょ、と呟くと、後輩は先輩の隣に座った。



『もともと無理な告白だったんですよ。先輩と同じ同学年でも相手は生徒会長で、真面目が服を着たような長い黒髪が特徴的な美少女。みんなから慕われてて運動神経も抜群でテストも常に一位、更には家もお金持ちじゃあ、ぼっちで根暗で、ダメダメな先輩では流石に釣り合いませんよ』



 後輩は落ち着いた様子を見せながら状況を先輩に伝える。その言葉の端々にはおちゃらけた部分があったものの、どこか先輩を傷付けないようにする配慮が伺えた。



『だから、一人になりたくて屋上で黄昏たそがれてたんですよね。小さい頃から先輩って、いっつもそう。何か嫌なこととか落ち込んだことがあったら毎回一人で泣いちゃって』



 懐かしいなー、と後輩は過去を噛み締めるように話す。息遣いで表現される、会話の後の空白の余韻が不思議と心地良い。



『どうして知ってるんだって……。そんなの、当然だよ。お兄ちゃん・・・・・のこと、今までずっと見てきたんだから』



(おっ、ついにくるか? くるのか!? 幼馴染・後輩属性ヒロインの必勝パターン、後輩ちゃんのターンが!!)



 うつ伏せになりながら目を閉じていた俺は、これからの展開に胸を膨らませながらそっと口角を上げる。だいぶ前に聴いた作品なので久しぶりの視聴だったが、確かこの後の後輩ちゃんの言葉は……、



『私じゃ、ダメかな……?』



 何が、とは言わないが、その耳元で囁かれた言葉には間違いなく彼女のこれまでの想いが込められていた。そのまま言葉を続ける。



『わ、私ならお兄ちゃんのこと良く知ってるし、落ち込ませたり嫌な気持ちになんて絶対にさせない。お料理は……苦手だけど、こっ、これから頑張るし……。お出掛けだって、私と一緒ならきっと楽しい筈! だから、ね―――私に、しよ?』

「しますッ!!!!!!!!!」



 思わず先に声を上げてしまったが、正直ここで告白に応えなければ男ではないと思う。



『っ! ほ、本当!? いいの!? や、やったぁ……!! ゆ、夢じゃないよね、現実だよね!? ありがとうお兄ちゃん!! …………はっ、こ、こほん。そっ、そんなに私と付き合いたかったんですか~。やっぱり先輩と云えど、私の魅力には勝てないんですね~!』



 どうやら無事告白は上手くいったようだ。喜びの感情を取り繕うとして上手くいっていない所がとても可愛らしい。



『それじゃあ改めて。―――私のこと、ずっと幸せにしてね。お兄ちゃん♡』



 幸せに満ち溢れた声が、俺の耳を浸透していく。

 やがて動画の再生が終わり、心身ともにリラックス出来たと充実感を抱いた俺はそっとアプリを閉じた。


 高鳴る心を抑え付けながら、目元を片手で覆った俺は軽く息を吐く。



「『弧猫こねこ-Koneko-』さん好きぃ……」



 そう言って表情を緩ませながら再び満足気に溜息を吐こうとしたその瞬間、カシャンっ!と廊下辺りから何か硬質な物を落としたような物音が聞こえた。


 俺は勢いよく廊下の方向を見遣りながらも、閉じられた教室の扉をじっと注視する。気のせいだ、と思いたかったが、思いのほか静寂な放課後はよく音が響く。

 そして決定打は「あわ、あわわっ」という慌てたような小さな悲鳴らしき女子生徒の幼い声。


 椅子から立ち上がった俺は、恐る恐る扉へと近付いていく。

 もしかして先程の音声を聴かれたかという不安と、やらかしたという自身への後悔があったものの、とりあえず反省は後回しである。


 ふぅ、と覚悟を決めて扉の取手に手を掛けると、ゆっくりと扉をスライドさせていく。そこに居たのは―――、



「―――藍原、さん……?」

「あ……えと、その、き、奇遇だね……っ」



 視線を彷徨わせながらもしゃがんでこちらを見上げている、か細く震わせた可愛らしい声。

 なんと、廊下に居たのは藍原さんだった。

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