へたれ藤吉郎
海石榴
第1話 長浜城、どんちゃん騒ぎの巻
その長浜城本丸の大広間では、いましもとんでもないバカ騒ぎが起きていた。ただならぬ騒ぎを聞きつけた秀吉の妻ねねは、何事ならんと大広間へと足を向けた。
「ウワワワッ。なんじゃ、こりゃあ!」
広間の
しかも、畳の上には
その汚濁まみれの中、ふんどし姿のむさい男たちが、これまた小袖や
陣太鼓を無茶苦茶に乱打し、奇声を放つ者がいる。千鳥足で
ねねは、口をあんぐり開けて、その場に立ちすくんだ。
「なめてチョー。お女中、なめてチョーよ」
つと
それを見たねねは、驚いて目を白黒させた。
「ヒエーッ、おっきい。うちの亭主の持ち物とは段違いだ」
その段違いの一物を若い下女はニッと笑い、ためらいもなく口の中におさめた。
「チョー気持ちいい!」
小六がいかにもおバカなよがり声を出す。
うっとりと
「アッ、アアーン」
女の唇からなまめかしい声が
すると、それが引き金になったのか、大広間のそこかしこで男女の淫らな行為がはじまり、「アッハーン」「もっとー!」「イク、イク、いくよー」といったあえぎ声、よがり声の大狂乱となった。
「いっ、いかん。こんなはしたないことをボーっと見ている場合じゃない」
ねねはふとわれに返り、藤吉郎秀吉がどこにいるのか、大広間のあちこちに目を走らせた。すぐにも亭主の首根っこをつかまえて、こんな気持ちのいい、否、こんなふしだらな乱痴気騒ぎを即刻やめさせなければならない。
そのとき突然、ねねの背後で人の気配がした。次の瞬間、ねねは逃げる間もなく、酒臭い息をする男に
男が
「ウヒヒッ、この腰の大きな
「いやじゃ。なにをする」
「なにをするって、わかっておろうが……」
ねねは男の腕の中でもがきながら、
「ウッ」
男は短い
目の前でだらしなく
「オミャー様!」
男はなんと亭主の藤吉郎秀吉であった。小六らと同じ
ねねは、昏倒した秀吉を抱き起こし、肩を揺さぶった。頭がグラグラして一切反応がない。窪んだ
「グワハッハッ、あれを見よ。タマキンのちっこい猿がくたばったぞ」
小六が女に巨大な一物をなめさせながら、
女の乳首を吸っていた大炊助が、黄色い
「ヒャハハッ、やっと城持ち大名になったというに、その途端におっ
と、
「二人とも、お黙りなされ!」
ねねは小六と大炊助を
だいたいこの二人は秀吉の家臣でありながら、主君を主君とも大根の切れっ端ほども思っていない。それどころか、自分たちより下の人間、またはせいぜい同輩程度にしか認識していないフシがうかがえる。
というのも、貧農生まれの秀吉は、まだ小僧の頃、尾張
当時、秀吉は小六のことを「
ねねは、こんな二人のことを「バッカじゃなかろうか」と思っている。いつまでも昔のことをネチネチこねくり回すように思い出し、自分たちのミミズのふんほどの気位を保とうとしているのだ。せこい。
それにしてもと、ねねは顔をしかめた。この下女たちのふしだらな酔態はどうだ。男どもと一緒になって浮かれ、遊び女のように男に抱かれて嬉々としている。秀吉が長浜城主となった折、急ぎ城下の女子をかき集めた結果がこれである。城主の秀吉を介抱しているねねのことを、だれも
――役立たずの女どもめ。すれっからしの尻軽女ばかりが集まりおって! アー、ヤダ、ヤダ。
ねねは腹立ちまぎれに、秀吉の猿のように大きな耳を思いきり引っ張り、その耳に大声を吹き込んだ。
「オミャー様、しっかりしてくだされ」
折しもそのとき、廊下にバタバタと大きな足音がして、ねねの兄である
弥兵衛は、ねねと目を合わせるや、息せき切って告げた。
「信長様より急ぎのお召しあり。秀吉殿に安土城へ至急参れとのこと」
それを聞いた途端、秀吉が起き上がり
「ヒエーッ、信長様が怒っておられる。わしは殺される。首をちょん切られる。どうしたらよかんべえ」
ねねには、なにがなんだかわからない。しかし、殺されるというからには、またしても不届きなことを仕出かしたのか。
秀吉は前に、信長のビロード・マント姿をさもおかしそうにゲラゲラ笑って、死ぬほど殴られたことがある。安土城の石垣の上から放尿していたら、たまたま下を通りかかった森蘭丸の顔にかかり、このときも信長に「わがお蘭に
ねねは秀吉に訊いた。
「また、どこぞで無礼なオシッコでもされましたか」
秀吉がハゲかかった頭を抱えて、苦しげに言葉を絞り出した。
「左様なことではニャー。この前、
「ゲッ、織田家筆頭家老の柴田
「あやつが、もとい勝家殿が諸将の居並ぶ軍議の席で、わしのことを猿呼ばわりしたのよ。じゃけん、ついカッとなって、わしが猿ならオミャーはヒヒじゃ。妖怪ヒヒ猿じゃと言うてしもうた。で、つかみ合いの喧嘩になってのう」
ねねが
「それでは、子供の喧嘩ではございまぬか」
秀吉がしょんぼりと身を
ねねの隣で、弥兵衛が追い討ちをかける。
「秀吉殿、それは敵前逃亡にも等しい重大な軍令違反。その罪、
「ヒエーッ、わしは終りじゃ。信長様に
それを聞き、ねねはすべてのことを一瞬でさとった。
――そうか、そうであったか。このどんちゃん騒ぎは、信長様に成敗される恐怖から逃れるためのものであったか。
秀吉がガックリ
「ご注進。加賀の陣にて、織田軍大敗。上杉軍に一千余の兵を討ち取られましてございまする」
秀吉がまたしても悲鳴のような声をあげた。
「なんと、織田四万の軍が、その半数にも満たぬ越後兵に惨敗したと申すか。ウッソー。ウソだろ。嘘だと言え。言ってくれい」
これで、秀吉の死は確定した。主君の信長に「オミャーが戦線離脱したばかりに、不識庵(謙信)にしてやられたのだ。オミャーのせいで負けたのだ」と
胸の中で
「わしは死ぬ。信長様にむごい目にあわされるより、いっそ自害する。そのほうが、なんぼかラクじゃ。ねね、もうお前を抱けぬ。さらばである」
秀吉が腰の脇差を抜いて、絶叫した
「だれじゃ。イタァイー。痛いではないか。というより、城主のわしに対して無礼じゃないか」
「グワッハハッ、藤吉よ。いやさ秀吉殿。死ぬのは、チョイ待て」
痛そうに額をおさえる秀吉の前に、小六が現れた。
「小六殿、なにゆえに待てというんじゃ?」
「フフッ、ワイらは主従の関係を超えた同士ぞ。仲間ぞ。
「おおっ、まことかっ。一緒に死んでくれるか」
「アホか。死なぬわ。これから銭を稼いで、いい女を抱かねばならぬ。死んでたまるものか」
「エッ、小六殿、オミャーはなにを考えておるんじゃ!」
その翌日、秀吉は琵琶湖畔の道を南下し、
安土へ馬を走らせながら、秀吉は隣に馬首を並べる小六に訊いた。
「なんぞ策でもあるのか。策がなけりゃー、わしら全員、すぐさま信長様にメッタ斬りにされるぞ」
「ウヒヒッ、心配するな。青山小助を連れてきたでな。面白いことが起きるぞー」
「エッ、付け火か。安土のお城に放火するのか。そんな大それたこと、できぬ。それだけはやめてくれいっ。バレれば、カカアのねねまでも殺さる。
小六がガハハッとバカ笑いして、
「小助なら仕損じることはない」
と、ノーテンキに断言した。
青山小助は忍び働きが得意で、幾度も敵の城を炎上させてきた。いわば放火のプロである。たしかに小助の手にかかれば、こっそり付け火できぬ城などなかろうが、信長自慢の金ピカ安土城に火をかけるとは、こいつら頭がイカれてる。
ビビって、馬の背にションベンを漏らした秀吉に、小六が言う。
「死ぬよりマシじゃろが。本丸の
大炊助がすぐうしろから言葉をはさむ。
「オミャーの命が助かり、ワイらの手には銭が入るんじゃ。これぞ一石二鳥。さすが小六アニイ。バツグンの策でゲス」
秀吉にしたら、とてもバツグンとは思えない。
「そんなにうまく事が運ぶかのうー。わしゃ、自信がない。ホントに大丈夫か」
「まあ、一人、二人は死んでも仕方がなかろう」
そう言って薄笑いする小六に、秀吉がすがるように泣きつく。
「その一人、二人の
一刻後、秀吉らの一行は、大手門で下馬し、徒歩でゾロゾロと安土城の天守へとつながる石段をのぼった。やせっぽちの小男で、体力のない秀吉はこの石段が途方なく長く感じる。
二の丸の
ここからの二の丸へは、だれも勝手に足を踏み入ることはできない。取次役の蘭丸の指図で動かなければならないのだ。秀吉らは蘭丸が現れるのを待った。
ややあって、米蔵のほうから叫び声があがった。
「
小六がニヤリと笑い、秀吉に言った。
「オミャーの出番じゃ。ゆけいっ」
秀吉は日比野六大夫ら三名の者と用意した水桶を手にして米蔵へと走った。米蔵の中から煙がもうもうと出ている。
米蔵に一目散に駆け寄り、秀吉は芝居じみた声で呼ばわった。
「羽柴藤吉郎秀吉、参上。ただちに消火つかまつる!」
米蔵の中へ入ると、火の手はたいしたことがないのに、煙だけは
秀吉らは燃える米俵に手桶の水をぶっかけ、あっという間に消し止めた。
秀吉が再び大声で叫んだ。
「この羽柴秀吉、安土城の危難を救い申した。一番乗りィ~。イヤァー、あぶないところでござった」
米蔵の隣には、
騒ぎを聞きつけて、案の定、信長が米蔵にやってきた。蘭丸をはじめとする小姓らも引きつれている。
秀吉は信長の前に
「お召し出しにより、長浜から参上いたしましたところ、折しも米蔵から火の手があがり、この猿めが消し止めて
米蔵の火をしずめた直後、秀吉らは猿知恵を働かせ、顔に
信長が平伏する秀吉を見て、唇を歪めて「フン」とせせら嗤い、太刀を抜き放った。そして、秀吉の眼前にブスリと刃を突き立て、背筋も凍るような冷たい
「城に着いた途端、火事が起き、すぐ消し止めたとな。なにもかもがうまくいきすぎておる。おかしいではないか。見えすいた自作自演の猿芝居をするでないっ。オミャーは、この信長をだませると思うてか」
「ヒエーッ。芝居などできる猿ではございませぬ。それほどの頭もありませぬ。平に、平にご
その直後、小六の野太い濁声が響き渡った。
「賊を討ち取ったりい~」
見れば、小六が血のしたたる生首を持って、駆け寄ってくるではないか。
信長が秀吉に下問した。
「あやつはだれじゃ」
「あっ、あれは、わが
「で、あるか」
「ハハアッ、
秀吉は恐怖のあまり、ここでもションベンを漏らし、幾度も幾度も地に頭をこすりつけた。しかも生死ギリギリの
信長が苦笑して、太刀を
そのとき、蘭丸が信長に近寄り、ひそひそと耳打ちした。加賀とか、勝家殿とか、秀吉にとってはよからぬ言葉が断片的に聞こえてくる。マズい。
信長が思い出したような顔つきで、秀吉に向き直った。
「大事なことを忘れておった。過日、オミャーは
「ハハアッ、ありがたきお言葉。薄のろのグズ猿を殺しても、お刀のけがれ。よき
その瞬間、信長の顔色が変わった。
「よき料簡とな。猿のくせに、上から目線で物申すとは生意気にもほどがある。お蘭、こらしめよ」
「ハッ」
言下に、蘭丸が「下郎、思い上がるでないっ」と怒鳴り、秀吉の顔を
「申し訳ございませぬ。この猿めが悪うございました。お許しを!」
秀吉がわめきながら泣き言を入れると、悪ガキ小姓らの動きを信長が制した。
「やめよ。もうよい」
その言葉を聞くや、秀吉は地に座り直し、「ハハッ、お許しを賜り、ありがたく存じまする」と平伏した。
信長が薄い唇を歪めて冷笑する。
「牛裂きの刑をのがれただけでも、ありがたく思え。
「ハハアッ、この猿は幸せ者にございまする」
「ときに筑前(秀吉)、新しい命を下す。
「エッ、あのー、輝元とは、もしや毛利殿のことでございまするか」
「オミャー、わかりきったことをなぜほざく。もしや、できぬとでも申すか」
毛利輝元は亡きき父
――これは、イジメじゃ。信長様はわしをイジメて楽しんでおられる。しかし、断れば、即、首が飛ぶ。ここは、嘘でも受けるしかあるまい。
秀吉は赤くミミズ腫れした顔で、ニッコリ愛想笑いして言上した。
「この猿めにそのような大役を仰せつかり、まことにありがたく存じまする。すぐさま西の毛利領に軍を入れ、ビビる輝元を一刀のもとに討ち取って、その素っ首、ご覧にいれましょうぞ」
「よくぞ申した。すぐさま毛利攻めにかかるのじゃ」
「ハハアッ」
秀吉は地に這いつくばるようにして信長の前を退出した。ともあれ、命は永らえたのだ。
――生きてるだけでも
ホッと胸をなでおろしたた秀吉らが大手門まで戻ると、青山小助、加治田隼人ら五名の者が
小助が無言で馬の背中を指差す。見れば、
小六が歓声をあげた。
「キャッホー。オミャーら、でかした。上首尾じゃ」
秀吉が顔をしかめてつぶやく。
「小六殿、バレたらどうするんじゃ。皆殺しにあうぞ」
「グワッハハッ、猿、オミャーにもお宝をわけてやる。あの顔面が不自由な愚妻に小袖でも買ってやれ。
「だれか顔面が不自由じゃ。だれが愚妻じゃ。だれが馬子にも衣装じゃ。わしの大事なカカアぞ。それより、さっきの気味の悪い生首は、どこから持ってきたんじゃ」
「ああ、アレか。アレは二の丸でワイにガンを飛ばした足軽の首よ。胴体はとりあえず石垣の下に
大炊助が周りにウロキョロ目を走らせながら言う。
「小六アニイ、早くトンズラしないと、ヤバイでっせ」
「おおっ、そうじゃった。みんな馬に乗れ。サッサとずらかろうぞ」
秀吉は浮かぬ顔で
小六が秀吉の顔を見て嗤った。
「猿、オミャーの背中に変なものがついておるぞ」
「エッ、なにがついておるというのじゃ」
「死神じゃ。ヒヒッ、青白い顔の死神がオミャーの背におんぶしておる」
秀吉がガクッと力なく項垂れた。
「そうであろう。信長様はわしに中国攻めを命じられた。が、ムリ、無理。強大な毛利に戦いを挑んでも、勝てるわけがない。今度こそ、わしは死ぬ。ゼッタイ
「ウム。たしかに、毛利は
「よくもそんな
ほとほと困り顔で秀吉がハゲ頭を
「では、今夜、
半兵衛とは、美濃の
信長が西美濃を攻めたとき、幾度も、この半兵衛に
しかも、すんごいことに、半兵衛は女と酒が大好きなアホ主君の斎藤
占領したあと、この男がなにをしたかというと、逃げていた主君の竜興を城に呼び戻し、稲葉山城を丸ごと返却したのだ。要するに欲得ずくで城を奪ったのではない。単に城主の竜興をしっかりせよとこらしめるために、一時的に占領しただけだから、返す、返さなければならぬという論理なのである。カンペキ無欲なのである。
さらに驚くことに、半兵衛は稲葉山城を竜興に返したあと、人里から離れた草深い山中のあばらやに、謹慎と称して、自らひっそりと
これを聞いたとき、秀吉は跳び上がって叫んだ。
「ウッソー。嘘だろー。信じられぬ。わしなら、どうだ、どうだ、すんごいだろと周りの全員に手柄を
その次に、秀吉が考えたことは、この天才を手に入れれば、もしや百戦百勝?エヘッ、やったねということであった。
その半兵衛を秀吉は
こののち、信長は秀吉に稲葉山城攻めを命じ、秀吉はキレッキレの軍師半兵衛の助けをかりて稲葉山城を落城させた。おかげで信長はアホの竜興を追放し、たやすく美濃を手に入れることができたのだ。
信長ですら半兵衛には「天才とナントカは紙一重」と一目置いていた。この半兵衛なら、もしかするとそのキレッキレの頭脳ひとつで毛利をも屈服させることができるかもしれない。馬の背に揺られながら、秀吉の胸にかすかな希望の灯が
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