へたれ藤吉郎

海石榴

第1話 長浜城、どんちゃん騒ぎの巻

 琵琶湖畔びわこはん長浜城ながはまじょうという城がある。のちに、朝廷から関白宣下を受け、豊臣姓を賜った秀吉が、天正二年、主君の織田信長から初めてさずかった北近江の領地に築いた城である。

 その長浜城本丸の大広間では、いましもとんでもないバカ騒ぎが起きていた。ただならぬ騒ぎを聞きつけた秀吉の妻ねねは、何事ならんと大広間へと足を向けた。

「ウワワワッ。なんじゃ、こりゃあ!」

 広間のふすまを開けた途端、ねねは驚愕のあまり言葉を失った。五十畳敷きの大広間で、大勢の半裸の男女が入り乱れ、酒池肉林の乱痴気騒ぎが繰り広げられているではないか。

 しかも、畳の上には瓶子へいじなどの酒器や、独特の臭気を放つふなずしなどのさかながところせましと散乱し、足の踏み場もない。汚いことに、嘔吐物ゲロの臭いすら漂う。

 その汚濁まみれの中、ふんどし姿のむさい男たちが、これまた小袖や襦袢じゅばん衿元えりもとから乳房をあらわにした下女どもと酒を酌み交わし、臆面おくめんもなく乳繰ちちくりり合っているのだ。

 陣太鼓を無茶苦茶に乱打し、奇声を放つ者がいる。千鳥足で流行はやりの風流踊りを舞う女がいる。さらには「人間じんかん五十年、下天げてんのうちを比ぶれば……」と、信長十八番おはこ幸若舞こうわかまいを真似る者がいる。いやはや、もう大変。

 ねねは、口をあんぐり開けて、その場に立ちすくんだ。

「なめてチョー。お女中、なめてチョーよ」

 つと濁声だみごえをあげて、赤ふんどしからはみ出した一物いちもつを若い下女の前に突き出した大男がいる。野武士あがりの蜂須賀小六はちすかころくだ。

 それを見たねねは、驚いて目を白黒させた。

「ヒエーッ、おっきい。うちの亭主の持ち物とは段違いだ」

 その段違いの一物を若い下女はニッと笑い、ためらいもなく口の中におさめた。

「チョー気持ちいい!」

 小六がいかにもおバカなよがり声を出す。

 うっとりと羽化登仙うかとうせんした小六アニキの姿を目にして、弟分の稲田大炊助いなだおおいのすけが、「もうたまらん」とばかりに、膝の上に抱きかかえていた女を畳の上に押し倒した。

「アッ、アアーン」

 女の唇からなまめかしい声がれ出た。

 すると、それが引き金になったのか、大広間のそこかしこで男女の淫らな行為がはじまり、「アッハーン」「もっとー!」「イク、イク、いくよー」といったあえぎ声、よがり声の大狂乱となった。

 「いっ、いかん。こんなはしたないことをボーっと見ている場合じゃない」

 ねねはふとわれに返り、藤吉郎秀吉がどこにいるのか、大広間のあちこちに目を走らせた。すぐにも亭主の首根っこをつかまえて、こんな気持ちのいい、否、こんなふしだらな乱痴気騒ぎを即刻やめさせなければならない。

 そのとき突然、ねねの背後で人の気配がした。次の瞬間、ねねは逃げる間もなく、酒臭い息をする男に羽交はがいい絞めにされていた。

 男が下卑げびた笑い声を出す。

「ウヒヒッ、この腰の大きな女子おなごはわしの戦利品じゃ。わしのものぞ。たっぷりかわいがってやる。たわわな乳房をべろべろなめてやる」

「いやじゃ。なにをする」

「なにをするって、わかっておろうが……」

 ねねは男の腕の中でもがきながら、咄嗟とっさ肘打ひじうちをくらわせた。

「ウッ」

 男は短いうめき声をあげて、床に膝から崩れ落ちた。しかも、倒れる寸前、ゲボッと口から大量の嘔吐物を畳の上にき散らした。

 目の前でだらしなく悶絶もんぜつした男の顔を見て、ねねは口に手を当てて、驚声きょうせいを発した。

「オミャー様!」

 男はなんと亭主の藤吉郎秀吉であった。小六らと同じ下帯したおびひとつのあられもない姿である。しかも、アレが横っちょからはみ出している。

 ねねは、昏倒した秀吉を抱き起こし、肩を揺さぶった。頭がグラグラして一切反応がない。窪んだ猿眼さるまなこの奥をのぞき込むと、神気朦朧しんきもうろう状態の白目になっている。まずい。肘打ちの当たりどころが悪かったのか、それとも酔いつぶれているのか。まさかとは思うが、三途さんずの川辺りを彷徨さまよっているのか?

 狼狽ろうばいしたねねは、ええいっ、これでも正気に戻らぬかとばかりに、秀吉の頬をピシッと平手打ちしてみた。が、ダメである。ビクとも反応しない。

「グワハッハッ、あれを見よ。タマキンのちっこい猿がくたばったぞ」

 小六が女に巨大な一物をなめさせながら、わらい声を立てた。

 女の乳首を吸っていた大炊助が、黄色い乱杭歯らんくいばを見せて、

「ヒャハハッ、やっと城持ち大名になったというに、その途端におっぬとは不運なやつよ」

 と、嘲笑あざわらった。

「二人とも、お黙りなされ!」

 ねねは小六と大炊助をきっにらみ、金切り声を浴びせた。

 だいたいこの二人は秀吉の家臣でありながら、主君を主君とも大根の切れっ端ほども思っていない。それどころか、自分たちより下の人間、またはせいぜい同輩程度にしか認識していないがうかがえる。

 というのも、貧農生まれの秀吉は、まだ小僧の頃、尾張中村なかむらの家を飛び出し、木綿針を商いながら、尾張、三河みかわ美濃みのの周辺を腹をすかせた小鼠こねずみさながらにうろついていた。この放浪時代に、秀吉は小六と知り合い、尾張海東かいとう郡蜂須賀村の小六の屋敷で下働きの下人げにんとして働いていたことがあるのだ。

 当時、秀吉は小六のことを「旦那様だんなさま」と呼んでいた。大炊助は小六の一の子分であるからして、下人時代の秀吉のことはこと細かく知悉ちしつしている。たとえ、秀吉が自分たちより出世しようと、猿よ、藤吉よとこき使ったあの頃のことを忘れられようか。

 ねねは、こんな二人のことを「バッカじゃなかろうか」と思っている。いつまでも昔のことをネチネチこねくり回すように思い出し、自分たちのミミズのほどの気位を保とうとしているのだ。せこい。片腹かたはら痛い。へそがぶんぶく茶釜ちゃがまをわかす。

 それにしてもと、ねねは顔をしかめた。この下女たちのふしだらな酔態はどうだ。男どもと一緒になって浮かれ、遊び女のように男に抱かれて嬉々としている。秀吉が長浜城主となった折、急ぎ城下の女子をかき集めた結果がこれである。城主の秀吉を介抱しているねねのことを、だれも一顧いっこだにせず、手伝おうともしない。

 ――役立たずの女どもめ。すれっからしの尻軽女ばかりが集まりおって! アー、ヤダ、ヤダ。

 ねねは腹立ちまぎれに、秀吉の猿のように大きな耳を思いきり引っ張り、その耳に大声を吹き込んだ。

「オミャー様、しっかりしてくだされ」

 折しもそのとき、廊下にバタバタと大きな足音がして、ねねの兄である浅野弥兵衛あさのやへえが広間に駆け込んできた。

 弥兵衛は、ねねと目を合わせるや、息せき切って告げた。

「信長様より急ぎのお召しあり。秀吉殿に安土城へ至急参れとのこと」

 それを聞いた途端、秀吉が起き上がり小法師こぼしのようにスクッと上体を起こし、哀れな悲鳴をあげた。

「ヒエーッ、信長様が怒っておられる。わしは殺される。首をちょん切られる。どうしたらよかんべえ」

 ねねには、なにがなんだかわからない。しかし、殺されるというからには、またしても不届きなことを仕出かしたのか。

 秀吉は前に、信長のビロード・マント姿をさもおかしそうにゲラゲラ笑って、死ぬほど殴られたことがある。安土城の石垣の上から放尿していたら、たまたま下を通りかかった森蘭丸の顔にかかり、このときも信長に「わが尿いばりをかけるとは!」と、散々打擲ちょうちゃくされた。

 ねねは秀吉に訊いた。

「また、どこぞで無礼なオシッコでもされましたか」

 秀吉がハゲかかった頭を抱えて、苦しげに言葉を絞り出した。

「左様なことではニャー。この前、柴田しばた殿といさかいを起こし、勝手に陣を離れたのよ」

「ゲッ、織田家筆頭家老の柴田勝家かついえ様と喧嘩けんかして、信長様のお許しも得ずに、加賀かがの陣から帰ってきたと申されますか。まさか、そんな理由で帰城されたとは……」

「あやつが、もとい勝家殿が諸将の居並ぶ軍議の席で、わしのことを猿呼ばわりしたのよ。じゃけん、ついカッとなって、わしが猿ならオミャーはヒヒじゃ。妖怪ヒヒ猿じゃと言うてしもうた。で、つかみ合いの喧嘩になってのう」

 ねねがあきれる。

「それでは、子供の喧嘩ではございまぬか」

 秀吉がしょんぼりと身をちぢこませた。

 ねねの隣で、弥兵衛が追い討ちをかける。

「秀吉殿、それは敵前逃亡にも等しい重大な軍令違反。その罪、万死ばんしに値する」

「ヒエーッ、わしは終りじゃ。信長様になますに切り刻まれる。死骸しがいは飼い犬のチョコ丸に食わされる。北近江二十万石の大名になったばかりというに、人生ははかないものよ」

 それを聞き、ねねはすべてのことを一瞬でさとった。

 ――そうか、そうであったか。このどんちゃん騒ぎは、信長様に成敗される恐怖から逃れるためのものであったか。

 秀吉がガックリ項垂うなだれたとき、早馬が城に飛び込んできた。

 取次とりつぎの案内により、早馬の騎馬武者は広間へとまかり越し、秀吉の前に片膝ついて大音声で告げる。

「ご注進。加賀の陣にて、織田軍大敗。上杉軍に一千余の兵を討ち取られましてございまする」

 秀吉がまたしても悲鳴のような声をあげた。 

「なんと、織田四万の軍が、その半数にも満たぬ越後兵に惨敗したと申すか。ウッソー。ウソだろ。嘘だと言え。言ってくれい」

 これで、秀吉の死は確定した。主君の信長に「オミャーが戦線離脱したばかりに、不識庵(謙信)にしてやられたのだ。オミャーのせいで負けたのだ」ととがめられ、首をねられるのは必定ひつじょうであった。四万の兵を率いて大敗した柴田勝家の無能さは問われず、秀吉一人に責任が押しつけられるに相違ない。

 胸の中で動悸どうきが高鳴った。背中に汗が流れ、めまいがする。手足がぶるぶるとふるえる。呼吸も荒くなって過呼吸の発作が起きた。いまでいうパニック障害であろう。

「わしは死ぬ。信長様にむごい目にあわされるより、いっそ自害する。そのほうが、なんぼかラクじゃ。ねね、もうお前を抱けぬ。さらばである」

 秀吉が腰の脇差を抜いて、絶叫した刹那せつな、どこからかからの瓶子が飛んできて、猿のようにせまい額をカポーンと直撃した。

「だれじゃ。イタァイー。痛いではないか。というより、城主のわしに対して無礼じゃないか」

「グワッハハッ、藤吉よ。いやさ秀吉殿。死ぬのは、チョイ待て」

 痛そうに額をおさえる秀吉の前に、小六が現れた。

「小六殿、なにゆえに待てというんじゃ?」

「フフッ、ワイらは主従の関係を超えた同士ぞ。仲間ぞ。墨俣すのまたの一夜城を思い出せ。浅井長政あざいながまさ小谷城おだにじょうを落としたときのことを思い出せ。美濃の稲葉山城いなばやまじょうを攻め落としたときは、今度こそ死ぬと覚悟をしたものよ。越前金ケ崎かながさき退口のきぐちでは絶体絶命にまで追いつめられた。あの撤退戦では殿軍しんがりをつとめ、槍傷やりきず、矢傷、鉄砲傷を負わぬものはおらなんだ。そうであろう。ワイらは、幾度も死線をともに乗り越えてきた仲ではないか。オミャーを一人で死なせはせぬ。みんなで一緒に安土の城へ参る。安心せよ」

「おおっ、まことかっ。一緒に死んでくれるか」

「アホか。死なぬわ。これから銭を稼いで、いい女を抱かねばならぬ。死んでたまるものか」

「エッ、小六殿、オミャーはなにを考えておるんじゃ!」


 その翌日、秀吉は琵琶湖畔の道を南下し、騎馬きばで安土城へ向かった。従うは、小六、大炊助はもちろん、加治田隼人かじたはやと青山小助あおやまこすけ日比野六大夫ひびのろくだゆうら総勢十名。なぜかヒゲのはえぬ秀吉以外、どいつもこいつも顔はヒゲまみれ、しかも汗くさく、いかにも下品な野武士づらである。

 安土へ馬を走らせながら、秀吉は隣に馬首を並べる小六に訊いた。

「なんぞ策でもあるのか。策がなけりゃー、わしら全員、すぐさま信長様にメッタ斬りにされるぞ」

「ウヒヒッ、心配するな。青山小助を連れてきたでな。面白いことが起きるぞー」

「エッ、付け火か。安土のお城に放火するのか。そんな大それたこと、できぬ。それだけはやめてくれいっ。バレれば、カカアのねねまでも殺さる。はりつけにされて、槍で串刺しにされよう。オッパイから血がビャァーッと出たらどうすんだ」

 小六がガハハッとバカ笑いして、

「小助なら仕損じることはない」

 と、ノーテンキに断言した。

 青山小助は忍び働きが得意で、幾度も敵の城を炎上させてきた。いわば放火のプロである。たしかに小助の手にかかれば、こっそり付け火できぬ城などなかろうが、信長自慢の金ピカ安土城に火をかけるとは、こいつら頭がイカれてる。

 ビビって、馬の背にションベンを漏らした秀吉に、小六が言う。

「死ぬよりマシじゃろが。本丸の米櫓こめやぐらを燃やして、そのドサクサに金蔵かねぐらから金銀財宝をかすめ取る。じゃによって、いかなる錠前じょうまえでもイチコロの加治田隼人を連れてきた。オミャーの役目は日比野六大夫らと一緒に、米櫓の火を消し止めるのじゃ。さすれば大手柄ぞ。いかに信長とて、手柄を立てたオミャーをバッサリとはできぬ」

 大炊助がすぐうしろから言葉をはさむ。

「オミャーの命が助かり、ワイらの手には銭が入るんじゃ。これぞ一石二鳥。さすが小六アニイ。バツグンの策でゲス」

 秀吉にしたら、とてもバツグンとは思えない。 

「そんなにうまく事が運ぶかのうー。わしゃ、自信がない。ホントに大丈夫か」

「まあ、一人、二人は死んでも仕方がなかろう」

 そう言って薄笑いする小六に、秀吉がすがるように泣きつく。

「その一人、二人の頭数あたまかずのうちに、わしは入りとうない。わしだけは助けてくれいっ、小六どの」

 一刻後、秀吉らの一行は、大手門で下馬し、徒歩でゾロゾロと安土城の天守へとつながる石段をのぼった。やせっぽちの小男で、体力のない秀吉はこの石段が途方なく長く感じる。

 二の丸の黒鉄門くろがねもんをくぐるや否や、青山小助と加治田隼人の姿がフイッと消えた。忍びの術である。

 ここからの二の丸へは、だれも勝手に足を踏み入ることはできない。取次役の蘭丸の指図で動かなければならないのだ。秀吉らは蘭丸が現れるのを待った。

 ややあって、米蔵のほうから叫び声があがった。

出合であえ、お出合い召されっ。火事でござる。大変でござる」

 小六がニヤリと笑い、秀吉に言った。

「オミャーの出番じゃ。ゆけいっ」

 秀吉は日比野六大夫ら三名の者と用意した水桶を手にして米蔵へと走った。米蔵の中から煙がもうもうと出ている。

 米蔵に一目散に駆け寄り、秀吉は芝居じみた声で呼ばわった。

「羽柴藤吉郎秀吉、参上。ただちに消火つかまつる!」

 米蔵の中へ入ると、火の手はたいしたことがないのに、煙だけは大袈裟おおげさなほどに立っている。火付け師・青山小助ならではのさすがの技であった。

 秀吉らは燃える米俵に手桶の水をぶっかけ、あっという間に消し止めた。

 秀吉が再び大声で叫んだ。

「この羽柴秀吉、安土城の危難を救い申した。一番乗りィ~。イヤァー、あぶないところでござった」

 米蔵の隣には、煙硝蔵えんしょうぐらがあり、ここには鉄砲の火薬がたんまり蓄えられていた。もし、この煙硝蔵に引火すると、安土城は天守の信長もろとも端微塵ぱみじんになるのだ。

 騒ぎを聞きつけて、案の定、信長が米蔵にやってきた。蘭丸をはじめとする小姓らも引きつれている。

 秀吉は信長の前にいつくばって、言上ごんじょうした。

「お召し出しにより、長浜から参上いたしましたところ、折しも米蔵から火の手があがり、この猿めが消し止めて御座候ござそうろう。なにとぞ、なにとぞ、おめくだされ」

 米蔵の火をしずめた直後、秀吉らは猿知恵を働かせ、顔にすみの粉をまぶし、小袖をところどころ引き裂いて、焼け焦げも念入りにつくっていた。火消しに奮闘したという姿を信長に見せるためである。

 信長が平伏する秀吉を見て、唇を歪めて「フン」とせせら嗤い、太刀を抜き放った。そして、秀吉の眼前にブスリと刃を突き立て、背筋も凍るような冷たい声音こわねを出した。

「城に着いた途端、火事が起き、すぐ消し止めたとな。なにもかもがうまくいきすぎておる。おかしいではないか。見えすいた自作自演の猿芝居をするでないっ。オミャーは、この信長をだませると思うてか」

「ヒエーッ。芝居などできる猿ではございませぬ。それほどの頭もありませぬ。平に、平にご容赦ようしゃを」

 その直後、小六の野太い濁声が響き渡った。

「賊を討ち取ったりい~」

 見れば、小六が血のしたたる生首を持って、駆け寄ってくるではないか。

 信長が秀吉に下問した。

「あやつはだれじゃ」

「あっ、あれは、わが家来けらいの蜂須賀小六でございまする。察するに、米蔵から逃げる賊を追い、成敗したものと存じまする」

「で、あるか」

「ハハアッ、御意ぎょいにござりまするうー」

 秀吉は恐怖のあまり、ここでもションベンを漏らし、幾度も幾度も地に頭をこすりつけた。しかも生死ギリギリの土壇場どたんばに追いつめられた結果、脱糞だっぷんまで催したらしい。なにやらウンコ臭い。小姓頭の蘭丸が女のように美しい眉をひそめ、鼻をおさえた。

 信長が苦笑して、太刀をさやにおさめ、きびすを返そうとした。

 そのとき、蘭丸が信長に近寄り、ひそひそと耳打ちした。加賀とか、勝家殿とか、秀吉にとってはよからぬ言葉が断片的に聞こえてくる。マズい。

 信長が思い出したような顔つきで、秀吉に向き直った。

「大事なことを忘れておった。過日、オミャーは権六ごんろく(勝家)と諍いを起こし、わしの許しも得ず、長浜に舞い戻った。よって、召し出して、牛裂うしざきの刑で五体バラバラにしてくれようと思ったが、気が変わった。火事を消し止めた手柄に免じて許す。どうせオミャーが加賀におっても、たいしたことはできなんだであろう」

「ハハアッ、ありがたきお言葉。薄のろのグズ猿を殺しても、お刀のけがれ。よき料簡りょうけんにございまする」

 その瞬間、信長の顔色が変わった。

「よき料簡とな。猿のくせに、上から目線で物申すとは生意気にもほどがある。お蘭、こらしめよ」

「ハッ」

 言下に、蘭丸が「下郎、思い上がるでないっ」と怒鳴り、秀吉の顔を足蹴あしげにした。バタリと仰向けに倒れた秀吉を、他の小姓が寄ってたかって殴る、蹴る。秀吉の顔がみるみる赤くれて、頬に血がうっすらとにじんだ。

「申し訳ございませぬ。この猿めが悪うございました。お許しを!」

 秀吉がわめきながら泣き言を入れると、悪ガキ小姓らの動きを信長が制した。

「やめよ。もうよい」

 その言葉を聞くや、秀吉は地に座り直し、「ハハッ、お許しを賜り、ありがたく存じまする」と平伏した。

 信長が薄い唇を歪めて冷笑する。

「牛裂きの刑をのがれただけでも、ありがたく思え。命冥加いのちみょうがなやつめ」

「ハハアッ、この猿は幸せ者にございまする」

「ときに筑前(秀吉)、新しい命を下す。安芸あき輝元てるもとの首を刎ねて参れ」

「エッ、あのー、輝元とは、もしや毛利殿のことでございまするか」

「オミャー、わかりきったことをなぜほざく。もしや、できぬとでも申すか」

 毛利輝元は亡きき父元就もとなりの家督を継ぎ、本拠地の安芸をはじめとして、周防すおう長門ながと出雲いずも備後びんご備中びっちゅう因幡いなばなど中国地方十カ国二百万石の太守で、その動員兵力たるや六万余。片や、秀吉の所領である北近江はたかだか二十万石で、目下の兵力は五千。とても勝ち目はない。無理難題であった。

 ――これは、イジメじゃ。信長様はわしをイジメて楽しんでおられる。しかし、断れば、即、首が飛ぶ。ここは、嘘でも受けるしかあるまい。

 秀吉は赤くミミズ腫れした顔で、ニッコリ愛想笑いして言上した。

「この猿めにそのような大役を仰せつかり、まことにありがたく存じまする。すぐさま西の毛利領に軍を入れ、ビビる輝元を一刀のもとに討ち取って、その素っ首、ご覧にいれましょうぞ」

「よくぞ申した。すぐさま毛利攻めにかかるのじゃ」

「ハハアッ」

 秀吉は地に這いつくばるようにして信長の前を退出した。ともあれ、命は永らえたのだ。

 ――生きてるだけでもおんの字よ。これで、ねねと今夜もニャンニャンできる。

 ホッと胸をなでおろしたた秀吉らが大手門まで戻ると、青山小助、加治田隼人ら五名の者が馬留うまどめの前でニヤニヤしながら待っていた。

 小助が無言で馬の背中を指差す。見れば、革袋かわぶくろが三頭の馬の背中に振り分けられ、重そうに垂れている。それが、城の金蔵から盗み取った金銀であることはいうまでもない。

 小六が歓声をあげた。

「キャッホー。オミャーら、でかした。上首尾じゃ」

 秀吉が顔をしかめてつぶやく。

「小六殿、バレたらどうするんじゃ。皆殺しにあうぞ」

「グワッハハッ、猿、オミャーにもお宝をわけてやる。あの顔面が不自由な愚妻に小袖でも買ってやれ。馬子まごにも衣装と申すではないか」

「だれか顔面が不自由じゃ。だれが愚妻じゃ。だれが馬子にも衣装じゃ。わしの大事なカカアぞ。それより、さっきの気味の悪い生首は、どこから持ってきたんじゃ」

「ああ、アレか。アレは二の丸でワイにガンを飛ばした足軽の首よ。胴体はとりあえず石垣の下に蹴落けおとしておいた。ま、ワイが機転をきかせたおかげで、オミャーの首はまだ胴体とくっついておる。エヘン、ありがたく思うがよい」

 大炊助が周りにウロキョロ目を走らせながら言う。

「小六アニイ、早くトンズラしないと、ヤバイでっせ」

「おおっ、そうじゃった。みんな馬に乗れ。サッサとずらかろうぞ」

 秀吉は浮かぬ顔でせ馬にまたがった。馬の背に揺られて、風に吹かれもすれば、少しは気が晴れるかと思ったが、ますますユーウツの度合いが深まっていく。

 小六が秀吉の顔を見て嗤った。

「猿、オミャーの背中に変なものがついておるぞ」

「エッ、なにがついておるというのじゃ」

「死神じゃ。ヒヒッ、青白い顔の死神がオミャーの背におんぶしておる」

 秀吉がガクッと力なく項垂れた。

「そうであろう。信長様はわしに中国攻めを命じられた。が、ムリ、無理。強大な毛利に戦いを挑んでも、勝てるわけがない。今度こそ、わしは死ぬ。ゼッタイ討死うちじにする。死神がつくのも無理からぬことよ」

「ウム。たしかに、毛利は手強てごわい。なれど、ワイらが勝てば、二百万石が手に入るやもしれぬ。毛利の領土は広いゆえ、城を落とすたびにお宝ザクザク、別嬪べっぴんの女子もいっぱい手に入るであろう。やらいでか」

「よくもそんな呑気のんきでノーテンキなことが言えるものよ。毛利と戦えば、命がいくつあっても足りぬぞ」

 ほとほと困り顔で秀吉がハゲ頭をくと、小六が思いついたように言う。

「では、今夜、半兵衛はんべえ殿に相談してみようぞ。あの切れ者の御仁ごじんなら、なにかいい手をケツから、否、もとい頭からひねり出すであろう」

 半兵衛とは、美濃の斎藤さいとう家の家臣であった竹中たけなか半兵衛重治しげはるのことである。

 信長が西美濃を攻めたとき、幾度も、この半兵衛にはばまれ、煮え湯を飲まされた。

 しかも、すんごいことに、半兵衛は女と酒が大好きなアホ主君の斎藤竜興たつおきをこらしめるために、わずか二十名にも満たぬ部下とともに竜興の稲葉山城いなばやまじょうを奇襲して占領し、竜興を一時的に城から追い出したこともあるのだ。

 占領したあと、この男がなにをしたかというと、逃げていた主君の竜興を城に呼び戻し、稲葉山城を丸ごと返却したのだ。要するに欲得ずくで城を奪ったのではない。単に城主の竜興をしっかりせよとこらしめるために、一時的に占領しただけだから、返す、返さなければならぬという論理なのである。カンペキ無欲なのである。

 さらに驚くことに、半兵衛は稲葉山城を竜興に返したあと、人里から離れた草深い山中のあばらやに、謹慎と称して、自らひっそりと隠棲いんせいしたのだ。

 これを聞いたとき、秀吉は跳び上がって叫んだ。

「ウッソー。嘘だろー。信じられぬ。わしなら、どうだ、どうだ、すんごいだろと周りの全員に手柄を吹聴ふいちょうし、今日から城主だ、美濃はわしのものだ。うまいもの食って、贅沢ぜいたくざんまいだ。スシざんまいだ。ねねも喜べとはしゃぎまわるであろう。半兵衛なる者は、なんとも不思議な男よ」

 その次に、秀吉が考えたことは、この天才を手に入れれば、もしや百戦百勝?エヘッ、やったねということであった。

 その半兵衛を秀吉は三顧さんこの礼というか、ペコペコ米つきバッタのように頭を下げて、どうにかこうにか味方に引き入れ、自分の軍師としていた。

 こののち、信長は秀吉に稲葉山城攻めを命じ、秀吉はキレッキレの軍師半兵衛の助けをかりて稲葉山城を落城させた。おかげで信長はアホの竜興を追放し、たやすく美濃を手に入れることができたのだ。

 信長ですら半兵衛には「天才とナントカは紙一重」と一目置いていた。この半兵衛なら、もしかするとそのキレッキレの頭脳ひとつで毛利をも屈服させることができるかもしれない。馬の背に揺られながら、秀吉の胸にかすかな希望の灯がともっていた。









 







 

 





 





 



 





 











 


 






 


 





 

 

 

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