流血Ⅰ
冬の気候は身体に良くない。
澄み切ってきんと冷えた空気は鋭利すぎるのだ。息を吸う度に凍えた空気が細かい針のように心臓をちくちくと刺してくる。
ベッドの上で窓を開けて灰色に煙った曇り空の下の景色を眺めていたが胸の痛みがひどくなってきて窓を閉めた。
体調は芳しくなかった。
自らの体調に苛立ってちっと舌打ちをした。
生きると誓ったはずなのに、身体は心と反して良くなる兆しが見えなかった。
胸が日に日に重くなっていた。身体も怠く、微熱が続いた。
点滴を打ち、薬を飲み、気力でなんとかなると自分で言い聞かせてきたが、検査の数値は悪化していく一方だ。
このままじゃ、部屋を移されて地下の無菌室にぶち込まれるかもな。
何度か小さい頃に経験したことがあった。
窓一つない空間にベッドが置かれていて、壁一面には機械が張り巡らされている部屋。あそこに寝かされるとまるで機械の一部になったような心地がする。
あんなところに連れていかれるくらいならここを出て行ってくたばった方がマシだ。
弱気になっている自分に気づいて首を横に振る。
行くわけがない。これ以上悪くなってたまるか。
自分の体調が悪くなるなんて認めたくなかった。
健康な身体だと自分に言い聞かせて稽古場に出た。
動かなくなっている身体を無理やり動かした。
すぐに支障が出たから、薬を飲む量を増やすことにした。
医師に慎重に飲むようにと注意されていた痛み止めの薬を倍の数飲んだ。
後からの副作用なんて長年薬を使用している身には十分に知っている。それでも今ここで立ち止まっているのは嫌だった。
いつも通りの訓練をいつも通りにこなし続ける。
病気のことなど忘れてしまいたかった。
そんな無理が祟った。
丁度解散した後で、オレは最後にその場に残っていた。
動けなかったのだ。
薬の効果が切れるといつも副作用で夜に苦しむことになる。
その副作用がすでに今きていた。
鉛の様に身体がだるい。激しい動機を感じていた。
やがて頭痛を伴い始め、吐き気を覚える。
外に出ようとするが足元がふらつく。
むかむかする胸を押さえる。
吐き出したいのに何も出てこなかった。
気分の悪さだけが増してゆく。
「指揮官?」
そう声を掛けられた。ルイスだったような気がする、多分。
その声に応じる余裕すらなかった。
視界が歪み始めるのを感じていた。
立っている感覚がない。
身体が大きく揺らいだ。
「指揮官!」
叫ぶ声を聞いた。それを最後にぷつりと意識が途切れた。
◆◆◆◆
気が付いたら病院のベッドの上だった。
聞きなれている心拍と共鳴する電子音が部屋に響いていた。
腕に点滴が刺さっているのが目に入った。
起き上がると吐き気が込み上げてきて口元に手をやる。
気分の悪さが去るまでは時間がかからなかった。
どうしてここに、そう考えた後であの練習場で倒れたのだと思い出した。
「起きましたか、指揮官」
そう声がして向かいにパイプ椅子に座るルイスに気が付いた。
いつになく真剣なまなざしでこちらを見ていた。
「……ルイス」
彼が立ち上がり、こちらの近くに歩いてくる。
「体調はどうですか」
「どうということはねえ」
そう返したが、声に力が出なかった。
返答したルイスの顔も晴れなかった。
「そうですか……」
少しためらったあと、ルイスが続けた。
「……お願いがあります」
「なんだよ」
「少しの期間でもいいですから、お休みください」
彼はおどけもしないでそう言った。
せめて、いつものようにバカみたいなツラして言ってくれたらオレも聞き流したのに。
「……オレに命令か?」
「いいえ、意見したまでです」
「はっ、偉そうな口叩くようになりやがって」
ルイスが俯いて、重々しく言った。
「もちろん、指揮官のお身体が心配だというのは一番の理由です。しかし、今の状況を考えてみてください。指揮官がこのような状況じゃ兵の士気も下がります。あなたが育てた兵に影響が出てしまいます。あなたも分かっているはずです」
彼の言葉に応じてしまえばいよいよ今の身体が弱っている事実を認めてしまう気がした。
たとえ彼の言葉が正しくてもそれを否定せずにはいられなかった。
「今までオレは薬の副作用でこうなることなんて経験あるんだ。今回だって……」
「しかし、」
食い下がろうとするルイスに苛立ちが募る。
「オレは平気……ッ」
怒鳴ろうとした途端、胸が激しく痛んだ。
「う゛、ッ……!」
唸って胸元を押さえる。
「指揮官!」
こんな時にも発作が起こる。
駆け寄ろうとしたルイスを手で制した。
「く、るな……たい、したこと……じゃな……ッ」
喉の筋肉が収縮して上手く言葉が出てこない。心拍が跳ね上がり、視界がくらむ。
胸が突き刺されるような痛みを堪えながら棚の上を手で探る。棚の上に積み重ねてあった本に手が当たりばさばさと落ちた。そんなことに構っていられない。
冷たい瓶の感触に触れた。それを取って震える手で錠剤を出して口に入れる。
錠剤の苦味が広がり舌の上で即座に溶けてゆく。
呼吸を整えようと息を吸うことを意識する。
即効性の薬だ。いまに良くなるだろう。
「指揮官……」
息をゆっくりと吸うことを意識する。
徐々に症状が治まってくる。
心配そうに見下ろすルイスに言った。
「……言った、だろ、大したことないってな……」
「今話すのは……」
ルイスの言葉を無視して言った。
「……オレは、平気だ。さっさと、出て行け」
そう告げると彼はこれ以上のことは言及しないで深々と頭を下げて一言だけ言った。
「無茶だけは、しないでください。頼みます」
ルイスはそう残して病室を後にした。
その後にすぐ入れ替わるように看護師が入って来たので、恐らくルイスが伝えたのだろう。
看護師は無言で点滴の薬を変える。
何もできないで、部下に気を使われている立場が辛かった。
◆◆◆
訓練所で倒れてから入院の日々が続いていた。
それでも、まだ希望は残っている。
いいや、治らなくてはいけなかった。
ジョゼフやマリーと生きると約束をしていた。
諦めるわけにはいかなかった。
昼間に目が覚めた。
近頃起きる時間が不定期だ。
夜中に目が覚めるよりかはマシだが、体内時計が狂ってきている。
起き上がるとふいに激しくせき込んだ。
胸を刺すような痛みが咳をするたびに走る。
いつもの空咳よりも肺に響くような嫌な感じがあった。
発作が治まり、手のひらを見てみると血が付いていた。
それを見て舌打ちをした。
「クソ……」
喉の奥が血でひりつく。鉄の味のする唾液を飲み下す。
こんなの、大したことじゃない。
言い聞かせるが、身体が日に日に弱っている事実を嫌でも思い知らされる。
血の滲む手のひらを見下ろしているとノックの音が外でした。
「……アレン」
外からジョゼフの声がする。
タイミングの悪いやつ。
隠すように血の付いた掌を握り込んでベッドの下に入れた。
「……入れよ」
室内に入ってきたジョゼフが尋ねた。
「アレン、体調は」
いつもいつもどいつもこいつも口を揃えて体調のことばかり聞きやがって。
煩わしさに苛立った。
「……見りゃわかるだろ。いつも通りだ」
「……本当か?顔色が良くない」
「いつも死んだようなツラしてるお前に言われたくねえよ」
ジョゼフの乏しい表情の中に心配の色が見えていた。
やめてくれと思う。
誰に心配されても嫌だけれど、こいつに心配されるのが1番嫌だった。
完璧な成功作であるお前に同情されている失敗作の自分に耐えられなくなる。
自分が一層惨めになる。自らの弱さをより自覚してしまう。
「……何もないんだから用がないなら帰れよ」
「まだ来たばかりだろう」
「このザマだ。十分見ただろ」
こちらを見ていたジョゼフの表情が一瞬、硬くなった。
こちらに近づいて服の襟に触れてくる。
「……アレン、血が」
襟の端に血が微かに付いていた。先ほど咳き込んだ時についてしまったらしい。
嫌なところに目ざとい。
襟に手を当てて彼の目から遠ざけた。肩をすくめて軽く戯けて見せる。
「……ああ、大したことじゃねえ。そんなことよりお前の覇気の無さの方が問題だぜ。お前がくると病室が暗くなる」
とっさについた軽口にジョゼフは乗らなかった。
「……また血を吐いたのか」
「少しだけだ」
「……そうか」
そう答えればジョゼフが眉根を寄せてどこか痛むような顔をする。
そんな表情見たくない。
オレに会いに来た奴ら、どうしてみんな同じ顔をするんだ。
まるでオレが治らないようなツラをするな。
叫び出したい気持ちを堪えてジョゼフに言った。
「……くだらねえ同情しに来てるなら帰れよ」
「そんなつもりはない。俺は様子を——」
ジョゼフの顔を睨みつけた。
「だったらその顔はなんだよ。葬儀に行くような辛気臭せえツラしやがって。そんな顔見たくねえ」
「そういうわけには……」
無性に苛立っていた。冷静になるのはもうできなかった。
なんなんだ、みんな。
ルイスも、マリーも、ジョゼフも辛そうなツラしやがって。
オレをそんな目で見るな。
こんな自分を見せたくなかった。
オレに同情するな。憐れむな。
ベッドの脇のテーブルを叩いた。
置いてあったグラスが落ちて派手な音をたてる。
「うっとおしいんだよ!オレは一人になりたいんだ!てめえらみんな余計なことしやがって!」
ジョゼフが眉根を少し寄せる。俺が叫んだことよりも、俺の様子を気にしているようだった。
「……今は、あまり興奮しない方がいい」
こんな時にまでオレを病人扱いする気か。
差し出して来たジョゼフの手を思い切り叩いた。
病室に肉打つ音が響く。
感情的になっただけで息が切れていた。自分が滑稽で仕方ない。
息苦しさを堪えながら絞り出すような声で言った。
「……オレは、お前が来ると疲れる」
「……アレン」
ジョゼフが何か言おうとしたが遮った。
「帰れ」
彼の方を見ずにドアの方を指さす。
「帰れよ」
「……分かった」
ジョゼフが出て行く直前に振り返った。
「アレン、また」
「もう来るな」
そう返答するが、その言葉に彼は何も言わなかった。
病室に静けさが戻ってくる。
先ほど彼を手を叩いた衝撃で指先がじんと痺れている。
まだ呼吸が乱れていた。
疲れがどっと出てベッドに背を預ける。
ふざけるな。
オレはそんなに弱くはない。
今まで努力で堪えてきたんだ。
痛くない。辛くない。
胸の上を強く握りしめた。
「オレは、平気だ……治るに、決まってる」
そうしたら、あいつの辛気臭い顔だって笑い飛ばしてやれる。うるさく言ってくるマリーをからかってやれる。調子づくルイスを数発殴ってやれる。
またすぐに良くなる、そうだろう。
あてもなく問いかける。
苦しい胸は変わらない。
答えはどこからも返ってこなかった。
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