流血Ⅱ
きんと冷えた風が頬を撫でる。
湿気を含んだ地面から土の香りがした。
電動椅子のスピードを上げるが、大して速度が出るようになっていない。
丘を登るスピードが遅くてじれったいが、仕方がない、特段焦っているわけではないと思うことにして諦めた。
ため息をつくと白いもやになって空中に霧散してゆく。
今日もよく冷えた日だった。
マフラーを巻いているが、それで凍えた風は十分に遮れなかった。厚着をしても冷え込んだ空気は遮断できない。
外の気温は容赦なく体を冷やす。病院内の環境がいかに過保護であるかを自覚する。
凍るような空気は肺を冷やして胸が締め付けられるような心地になるけれど、それでも消毒液の匂いのしない広い空間に出られたことは少しほっとする。
久しぶりの外だ、満喫しないと損だ。そう思って伸びをする。
これで外出許可が出ていればいうことないのだが。
ちらりとそう思う。ほんの少しの後ろめたさがあったがこの際だ、気にしないことにしよう。
病室から出られない日々が続いていて、いい加減外を見たかった。病室に籠っていると治らない病気と向き合い続けているようで気が滅入る。居ても立っても居られなくなって病室から抜け出していた。
今の様態で外出許可が出ないことは知っていた。だから看護師の目を盗んで病室を抜け出した。
抜け出すことだけは昔散々やって来た。警備が手薄になる時間帯も、視界の届かない場所も良く把握していた。
電動車いすに乗り病院の敷地を抜けて裏の緩やかな坂を上っていく。
電動車いすの力を借りるのは癪だが、今はこれがなくては心もとない。
ミチコフがいるような気がして振り返って、誰もいないことに自嘲気味な笑みを浮かべる。
ガキの頃は散々病院を脱走していた。昔やってきたことを大人になってからやるなんてな。
ガキの頃みたいな無茶はしていないはずだ。少し風に当たるだけ。
病院の裏側は森を開拓した小さな道がある。そこを辿っていた。
坂を上り切り、少し小高い場所に出ると都市が見下ろせる。
そこまで来ると車いすを止めて、坂を下って行かないように車いすにロックをかけた。
そこからゆっくりと立ち上がった。
坂の下に落ちることのないように柵が張られている。
その柵に掴まって景色を見渡した。
空は薄靄がかかったような灰色で、か細い太陽が微かに照らしている。
良い天気とは言い難い。
冷たい風は丘の上になると一層吹き込み、髪を弄った。
「さむ……」
ぽつりとつぶやく。外に行けば気分が良くなるだろうと思っていたが冷たい気温はとてもそんな心境になれない。
病室から離れてみて、胸に押し寄せるのは虚しさだった。
外に出たところでオレの身体は変わりやしない。
外に出れば病魔も失せる、そんな気がしていたのだ。
病院になんているから病気になるのだと、ガキの頃のオレは思っていた。
けれど今のオレはもう大人で、ガキの頃ほど真っ直ぐに自分を信じることができない。
昔の頃みたいに外に飛び出してみたけれど、外への開放感以上に病室に戻った後の看護師への言い訳を考える手間の方にうんざりしていた。随分現実的な大人になったもんだな、オレは。
空を見つめていたが長く見ていられるような光景でもない。それにあまり長居はできない。それにいい加減戻らなくては抜け出したことがばれるだろう。
そろそろ帰ろう、そう思って車いすに掴まってロックを解除した時だった。
発作が身体を襲った。
「ッ……!」
急なことで身体が驚いて力が抜けた。
胸が痛んで咳き込む。
手から車いすがするりと離れた。
そのまま車いすが坂を走り傾斜を滑ってゆく。
「あ……」
追いかけようとしてふらついた。発作のせいで走り出すことも出来なかった。
ひとりでに車いすはスピードを上げて、道を外れた。
山の斜面に車いすが転がり落ち、見えなくなっていった。
その流れを見ていることしかできなかった。
どうやら移動手段を失ったらしい。
発作を落ち着かせる薬も全て車いすのかごの中だった。
苦い笑みを浮かべることしかできなかった。
「……クソ、最悪、だな」
ここを歩いて帰るのか。
はるか遠くの丘の下に病院があるのが見える。
「……いいや、これくらい、平気だ……」
戦地よりもはるかに楽なことだ。
また自分に言い聞かせるようにする。そうしなくてはとてもやりきれなかった。
◆◆◆
震える足を踏み出し、這うようなスピードでじりじりと歩んでゆく。
歩く足取りは重く、一向に病院にたどり着く気配はなかった。
少し歩いては立ち止まり、また歩く。
決して歩いてきた道を振り返りはしなかった。
全く進んでいない事実を知ることになるだろう。
先ほどの薄曇りからさらに天候は悪くなっていた。
ひらりと視界に白いものが舞うのが見えた。
雪か。
「……ッたく、今日は、ロクな日じゃねえな……」
灰色の空はどんよりとしていて辺りも陰鬱に映る。
森の小道は薄暗く、まだ昼の時間帯なのに夕方の様だ。
せめて晴れていたらまだ歩く気もマシだっただろう。
明るい太陽の光。最後にしっかり見たのはいつだったか。考えているとあの海の光景を思い出した。
あの時が最後だったような気がする。マリーとジョゼフと、三人で見たあの景色。
あれをまた見たい。心からそう思った。
あの温かな祝福するような海の輝きをもう一度見たかった。
あそこは病床から最もかけ離れた存在のように感じられた。
今からでもいい、あの海に行きたい。漠然とそう思う。
あの海が見たい。広くて、自由で、命に溢れていて……
湿気を含んだ潮風がこの陰鬱な冬空すらも吹き消してくれる気がした。
もちろん、こんな考えは妄想に違いない。
あの海だって冬の気候に染まり曇った色が一面に広がっていることだろう。
それでもあの光景を見たいと思わずにはいられなかった。
身にかかる雪が身体を濡らした。足は冬の冷たさにかじかみ、手は凍る温度に痛みを感じている。
軋む身体がもう限界であることを悟っている。
胸が重たい。呼吸が苦しい。
身体の温度が奪われてゆく。
足取りも段々と遅くなっていた。
一人で外に行くこともままならない。滑稽だな、オレは。
ジョゼフにあんなこと言ったのが最後になるのか。
あいつらに散々心配されてくたばって、あいつらの記憶の中に悪霊みたいに付きまとって悲しい思いをさせるくらいなら、嫌われて忘れ去られた方がマシなのかもしれない。
案外、これだっていい終わり方かもしれねえな。
「は、は……ッ、」
笑おうとしたけれど呼吸がうまくいかなかった。
「……ぅ、ッ……!」
追い打ちをかけるように発作が起こる。
あの世がどうとか、考える暇もなさそうだ。
苦しくなる胸を押さえた。
身体がぐらりと揺れた。何かに捕まるものもなくてそのまま倒れた。
地面に身体を打ち付ける。ぶつかった衝撃で息が詰まった。
「ッぐ、ッ……!」
中で渦巻いていた嫌な熱が爆ぜたような感覚があった。
心臓の痛みが暴れて動くことすらできない。
起き上がれずに地面に伏せ続けていた。
見えない何かに喉を締め上げられているみたいだ。
空気の通るヒューヒューという苦し気な呼気が喉から漏れる。
酸素が足りなくて喘いでいるのに空気を吸うと心臓が刺されるような痛みが走る。
痛みで暴れ出したいのに身体は痙攣して麻痺したようにうまく動かない。
酸欠と痛みが体内を巡り続けている。
は、は、と浅い呼吸を繰り返すが息苦しさが治まらない。
「あ……ッ、う、ぅッ……!」
胸が苦しくて上手く声が出せなかった。
手足が氷のように冷たい。筋肉が収縮してこわばって、力が入らない。
それなのに胸の内は燃えたぎるように熱く、焼けてしまいそうだ。
気持ちが悪い。まるで身体の中の血が逆流してるみたいだ。
気持ちが悪い。吐いてしまいたい。
けれど苦しい呼吸を繰り返すだけで口から唾液が溢れるだけで何も吐き出せない。
ヒューヒューという喉の音にゼイゼイと苦しげな潰れたような呼吸が混じる。
身体が寒くて暑い。体の震えが止まらない。冷たい汗を全身にかいていた。
「ッ……ッ……!」
治れ、治れと念じてうずくまるが悪夢のような痛みは身体中を駆け巡り、胸の中を暴れ回っている。
堪えていると悪寒が身体を突き抜け、胸が破裂したかのように痛んだ。大きく体が震えて、胸の内に燃えるような熱が込み上げてくる。
ごぷ、と喉の奥で空気と液体が混じり合う嫌な感覚があった。
痛みの叫びすら上げられずに呻き声を上げる。
「ッ!う゛ッ……!が、ぁッ……!」
堪える間も無く熱い液体が口から赤い鮮血が滴り落ちてくる。
地面に滴り落ちて黒い染みになり広がってゆく。鉄の濃い臭いが鼻につく。
血を吐いた肺が焼けるように熱い。
肋骨も内臓も燃えてるんじゃないかと錯覚する。
死という言葉が明確に頭に浮かんだ。
身体の震えが止まらない。
足掻いても胸の痛みが消えない。激痛が走り息が上手くできなかった。
震える手で胸を握り、異様に早い鼓動を抑えつけようとする。
「ッ……ぁ、う゛ッ……!」
ごぷり、また嫌な音が喉元に這い上がる。
堪えようとすると血が口の端から溢れる。
息が苦しい。酸欠で意識が白みかけては痛みで引き戻される。
朦朧とする頭の中、必死に病魔から逃れようと身を捩る。
ここで終わるのか、オレは。
後悔すらする時間も、ないのか。
痛みの中で漠然と感じた。
オレは、死ぬのか。
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