流血√2凍る海辺
「は、ッ……がッ……!」
喉の奥が液体で泡立ち、溢れてくる。
激しい胸の痛みと、身体の痙攣がひっきりなしにやってくる。
咽るたびに喉に血が流れて焼けたように熱い。あたりは血に染まり濃い血のにおいが漂っている。
始めに血を吐いてからどのくらいの時間が経つだろう?
痛みは引くことがなく、冷たい気温と発作は体力を確実に奪っていた。
ヒューと喉から息が漏れる音がする。
這ってでも動こうとしても、もう自らを動かす体力は残っていなかった。
意識が朦朧としてきている。
ーーアレン!」
幻覚の様にジョゼフ声が聞こえた。
足跡が近づいてくる。
金髪の髪の男が視界に入った。
とうとう幻覚を見たか、そう思ったがどうやらそれは本物だったらしい。
「アレンッ!お前……ッ!」
ジョゼフがオレとその周辺の血を見て立ち尽くした。
彼が焦った表情をしていたが声がはっきりとよく聞こえない。
辺りの音が薄い膜でも張られているようにぼんやりとしか聞こえてこない。
ジョゼフがオレを抱き起そうとする。
喉の痙攣が弱くなってきている。呼吸のようなか細い声しか出せなかったが、彼に話かけることができた。
「な、あ……どこ、行くんだ」
ジョゼフがこちらを見た。
「どこって……帰る。病院に」
「帰りたく、ねえ……」
「何を言い出すんだ」
病院は嫌だ。もう見たくない。
思い付くことを口にした。
「……海が、見たい」
彼が困惑したように言った。
「……何言ってる」
「な、いいだろ……も、う、病室には、戻りたくない……」
ここは寒い。暗い。もっと綺麗なところ、もっと温かいところに行きたい。
そう言えば困ったような表情をジョゼフが一瞬見せる。
「だが、病院に行かないと、お前はもう……!」
珍しく彼が言葉を荒げている。ジョゼフが何か言いかけて止めた。
「あの、海を、オレはもう一、度……ッ!」
喉に痛みが這い上がり咽せる。
「アレン!もう話すな!」
彼を無視して言った。
「…見たい、んだよ」
彼が無言で腕を取ってきて腕の血管に触れた。
ジョゼフの表情は暗いままだった。
苦しむように彼が聞いてきた。
「……見れば、お前は満足か」
「あ、あ……」
やがて彼は重々しく頷いた。
「……分かった。急いで行こう」
◆◆◆◆
ジョゼフがオレを連れて行ってくれたけれど、それがどのくらいの時間だったのか分からない。時間の感覚がなかった。
彼に背負われているうちに磯の匂いが濃くなる。
海の波音が近づいてくるのがはっきりと分かった。
「……着いた」
そう言われて浜に下ろされた。
前方の海を見渡した。
海は空と同じように灰色にくすんだ色をして広がっていた。
凍り付くような冷えた風が海を荒立てている。
前に見た景色とはまるで違う光景だった。
「せっ……かく、来たのに、な……」
ジョゼフは悔しそうに眉根を寄せた。
「せめて、晴れていれば良かったな」
「でも、来れた、な……」
そう言ってジョゼフを見上げた。
「お前、と……」
そう言えばジョゼフが少し眉根を下げてほほ笑んだ。
「……ああ」
「やっと、ここに……ッ!」
何度目か分からない発作が身体を襲った。
痛いのも苦しいのももう散々やって身体は慣れきっていて、苦痛はさほど感じなかった。
心配したジョゼフが俺の背に触れる。
血がこみ上げてきて手の合間から零れる。
「大丈夫か」
咄嗟に聞いて来た彼に平気だと手で制した。
発作は短かった。
荒い呼吸をつきながら顔を上げると雲の切れ間から日差し零れるのが見えた。
ほんの少しの隙間だけれどその日差しに照らされて輝く海が姿を表す。
ようやく見えた青い海に身を乗り出そうとするとジョゼフが抑えようとしてくる。
「ジョゼ、フ……見ろよ」
「アレン、喋らないほうが……」
彼の制止を無視して言った。
「海……あんなに、輝いて……」
光を湛えた水平線に指を指した。
「眩しい、くらいだ……」
ジョゼフが海をしばらく見つめた後、頷いた。
「……そうだな」
「きれい、だ……マリーにも、見せてやりたかった、な……」
切り裂くように冷たい風は収まってきて、快い柔らかい潮風が頬を撫でた。
温かい風に押し流されるように分厚い雲は遠くへ流されてゆき、澄み渡った青い空が頭上に現れた。
潮の匂いのする風を吸い込んだ。
浅い呼吸しか出来なかったのに今は深く息をつけた。
「また、3人で、見てえ、な……」
ジョゼフがどこか辛そうな顔をした。
「ああ……見よう、3人で……」
その声が微かに震えていた。
こんないいところに来たくせに陰気臭えな。
そう言ってやりたかったけれど気力がなかった。
ひどく眠くなってきていた。
まだ俺は寝たくないんだ。
せっかく綺麗なところに来たんだ、もっと海を眺めていたい。
温かくて、平穏に凪いだ海を。
水平の彼方が今は見える気がした。
白く輝く、穏やかな明かりが満ちている。その光が広がってあたりを照らしている。
何かに導かれているみたいだ。
身体の力が穏やかに抜けてゆくのを感じていた。
生きていたい、そう思う反面で自分の身体がとうに限界であることをどこかで悟っていた。
手のひらで彼の頬に触れた。
温かい温もりが手のひらに伝ってくる。
ジョゼフがその手を握りしめた。
「アレン」
震えているのがどちらの手なのか分からなかった。
なあ、ジョゼフ。オレの魂は死んだらどこへ行くんだろうな。天国も地獄も居心地が悪そうだ。
オレはお前の傍にいることにしよう。きっと、その方が退屈しないだろう。
オレの魂は簡単に消えやしない。だから、そんな辛気臭せえツラすんなよ。
◆◆◆◆◆◆
腕の中で眠る様に彼は目を瞑り、それから何も言わなくなった。
「アレン」
友人の身体を揺する。
けれど、彼が目を開けることはなかった。
「……アレン」
彼の手を強く握る。アレンから生気は失われていた。
魂の抜け殻の重みだけが自分の腕の中に取り残されている。
彼の口の端にこびりついた血を拭った。白く血色のない顔は微笑んだ表情をしていた。
今にも目覚めそうな顔だった。
彼が最後に指を指した海を見つめる。
輝く海、か。
目の前には陰鬱な色をした雪雲と同じく灰色に染まった海が広がっている。
空は厚い雲に覆われ、太陽は埋もれてどこにも見えない。
最後にマリーと3人で見た光景とはまるで違う、どんよりと曇った海だった。
あいつは最期、この海を見てほほ笑んでいた。
まるであの日、3人で見た海が彼には見えていたかのようだった。嬉しそうな彼にその光景を否定することが出来なかった。
彼は最期にどんな光景を見出していたのだろう。
「……俺にも教えてくれ」
アレンの額に自らの額を合わせる。
彼の記憶を少しでも読み取ろうとするように。
腕の中の彼にはまだ微かな温もりが残っているが、冬の冷たさはその温度すら容赦なく奪ってゆく。
せめて、少しでもその熱を守ろうと彼の身体を引き寄せた。
鼓動を打たない静かな肉体だった。彼の魂がすでにこの身体に残っていないことを思い知る。たった今、失われたものを取り戻そうとするかのように強くその身を抱きしめる。
凍えるような寒さを前にこんなことは何の抵抗にもならなかった。刻一刻とその身は冷えて温度を失ってゆく。死んだ彼は戻ってはこない。彼の身体に鼓動が戻ることはない。
腕の中の友人がこの世から去っている事実を受け入れられなかった。
「……行かないでくれ」
呟いた声は凍てつく風がかき消した。
日は沈み、やがて暗がりが辺りを包もうとしていた。
凍る海辺 END
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