月光と少年
いくつかの画材をリュックに入れ、扉を開ける。
「いってきます!!」
予定よりも早く彼女の家に着いた僕は、インターホンを鳴らすか鳴らさないかで迷っている。
「ここで押したら早すぎるよな...でも押さずにウロウロしてるのもキモイか...いやでも見えないからここは時間を少し潰して...」
「なにやってんの。」
「あ!いや、その、お、おはよ」
「おはよ!なんでウロウロしてたの?どうせまた変な悩みでしょ?例えば、来るのが早すぎた...とか。まあ、入りなよ!」
やっぱり彼女は、心が見えている。
「おじゃまします...」
「誰もいないからいいよ。そんなことより早く絵、教えて!」
その日から春休みの趣味交換会が始まった。
「えっと...筆は38度ぐらいのぬるま湯で、優しく洗ってあげて、色は好きな色を使っていいよ。描くのも自由。何か、ひとつ描いてみてよ。」
「分かった!」
そう言うと彼女は熱心に描き始めた。
1時間ほど経ち、彼女が絵を描き終える。
「見て!!感心の出来!なんだと思う?」
これは...何だ?なにか黒い物体に、人が座っている。というか、浮いている?かろうじて分かるのは、左上の青白い月だけだ。
「んと...ピ、ピノとか?橘花さんアイス好きだもんね。上手だよ。」
「違うよー!!ピアノー!!!ピノじゃないー!!!アがないー!!」
彼女は悔しそうな表情で赤らんでいた。
「ご、ごめん...えと、橘花さんの絵は平面的すぎるんだ。奥行きを出すには光や陰影が大事なんだ。基本的には、手前が明るく奥が、薄暗い、だけど、全部が全部そうとは限らない。だから、目で見て、影の感じをまず掴めばいいと思うよ。橘花さん、手先器用だし、すぐ上手になる気がする。」
「なるほど...やっぱり凄いな...そなた君...。あ、そういえば私が描いてる時暇だったでしょう?だから次は私がピアノについて教えてあげる!そしたら私が描いている間に練習出来るでしょう!」
「確かに!そうだね。うう、なんだか緊張してきたよ。」
恐る恐る椅子に座り、ピアノを目の前にする。
こんなに大きかったのか...。
「よし!まずは自由に弾いてみて!」
「え、自由にって...分かった。」
人差し指で鍵盤を押す。
ポーン。高い音が鳴る。ボーン。低い音が鳴る。
いつも聴いている音色の一部が流れる。
「どう?ピアノって音を鳴らすことから楽しいでしょ?」
「うん!楽しいよ。いつも自分は聴く側だったのに、なんだか不思議な気分だよ。」
「楽しんでくれてよかったー!そうだよ!次はそなた君が私に聴かせる番!そうだな〜う〜ん、課題曲なんにしよっかな〜...」
彼女は少し悩んだあとに思い出したかのようにこちらを見て、口を開いた。
「月光!月光にしよう!私たちの運命の曲!」
「うん、いいね!でも、弾けるかな...聴いてる感じ、とても難しそうだけど...」
「正直言うと無理かもね!でもね、ゆっくりでいいから。間違ってもいいから。ただ、そなた君の月光を聴きたい。心から弾けば、どんなに間違っても全部素敵な曲になるから。」
「そっか...そうだね。頑張るよ。僕、橘花さんの心に響かせれるような月光、弾いてみせる。」
「じゃあまずは指をほぐして、その後はそなた君の好きなように鍵盤を押して!音符と触れ合って、楽しくなる所から!ざっと5時間かな!」
「5!?が、頑張るよ」
「うん!鬼教官、私になっちゃった!」
それから春休み、毎日二人で練習した。
指にタコが出来て最初は気になったが、3日ほど経つともう何も気にならなくなった。
彼女はみるみる絵が上手になった。
僕も僕で、少しは弾けるようになった。
毎日が練習だったが、彼女と過ごす時間はあっという間に過ぎていった。
「気付けばもう最後の1週間...早いねー!そなた君、2週間ぐらいで本当に上手になったよね!」
「ほんとだね。毎日続けたら、弾けるようになるものなんだね。橘花さんも、びっくりするくらい上達してるよ。すぐ、追い抜かれそうなくらいに。」
「分かる!私、上手くなったよね!継続は力だね!でももう、今日で一時の間会えなくなるねー。なんだか寂しいな。」
彼女は俯いている。
「本当だね。次会う時、お互いのを披露するのが楽しみだよ。」
「...だね!それじゃあ今日も日が暮れるまで練習しよっか!頑張ろー!」
彼女はどこか憂いを残しているような気がした。
だが、今の幸せに満ち足りている僕にそれを追求する暇は無かった。
最後の一週間、出会わない為に彼女の家に行けない僕は音楽室を借りていた。下手くそな音色が他の人に聴かれるのは少し辛いものがあったが、それ以上に彼女に良い音色を聴かせてやりたいという気持ちが強かったから、全然気にならなかった。
毎日毎日、練習を続けた。
短い春休みを終えて、学校へ向かう。珍しく寝坊したため、朝、いつものように彼女の家へは行かなかった。空は雲が支配している。
「皆さん、お久しぶりです。気付けば、あなた達はもう受験生。早いもんですね。あなた達が悔いのないように、先生も手助けをします。だから、夢に向かって、頑張ってください。それと、1つ悲しいお知らせです。」
「橘花奏さんが転校しました。」
...は?
「わずかな時間でしたが、彼女の明るい姿勢に救われた方も多いのではないでしょうか。先生もよく救われていました。とても悲しいですが、橘花さんの新たな生活を、応援してあげましょう」
教室はざわめいている。彼女が転入してきた時と同じ、いやそれ以上のざわめきだ。
僕は、声も出せなかった。
春休みも、ほとんどずっと一緒にいた。どうして、何も言ってくれなかったのだろう。
一日を終え、彼女の家へ向かう。
人の気配はとうに無くなっていた。もしかして彼女は幽霊だったんじゃないか。そんな風に思うほど、僕はこの光景を信じられなかった。
「ピアノ...いっぱい練習したのにな.....」
鉄柵の門に、白い箱でリボンに包まれたものが置かれていた。
そこには、『そなた君へ』そう書かれていた。
息を荒らげながらリボンをちぎり、箱を無造作に破り開けた。
そこには、金色の額縁に入っている絵があった。
涙が止まらなかった。
「なんで...なんで...」
震える、手を必死に抑え、ながら、絵を、見る、
窓に浮かぶ青白い月、明かりに照らされ、ピアノを弾いて、涙を流す少年の絵。見覚えのある服。陰影や光の差し方はまるでプロそのもののような、単純なものでは無かった。それもそうだ。
その少年は僕だった。月光を弾く練習をしている、僕だった。僕を見て描いたのだ。だから、光も、陰も、美しく、生きている様な感覚を訴えてきているのだ。
額縁の下にはプレートが付いてある。恐らくこの絵のタイトルであろう。
そこにはこう描かれていた。
『月光と少年』
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