#13or84:右往or左往
少しの油断がのっぴきならない状況へと誘う呼び水になっているとでもいうのか、この「世界」は。別角度からの俺への、まさに俺限定で向けられたそのような未だ霧の只中にあって全容を見せない「何か」。それは何だ。もしかして俺のルーツにまつわる何とやら、なのか? それは何と言うかタイムトリップものにありがちの設定に思えたが、「これ」はそういう意味での過去への「移行」じゃあないだろ? いや、俺がそう思い込んでいただけか? 急に目の前に広がるすべてが、おもては精巧ながら一歩裏に回るとむき出しの枠組みだけが晒されるといった書割の連なりのようにも見えてきた。
落ち着け。猫耳は過去で何をしても未来は変わらないみたいなことを言っていた。であれば俺はそこに関しては傍観者でいても何の問題はないはずだ。あくまでこの九十六年に起こったことの追体験。親父とおふくろの馴れ初めがここで展開されたとしても、それはそれ。俺には何ら関係が無い。
「……」
とかは、分かっていても、そうだとはとても思えなかった。生みの母親のことを、俺はまるで知らない。顔も、名前すら。子供心に聞いた、親父の武勇伝の付属品のように語られたいくつかのうっすらとしたエピソードが微かに頭に残っているだけだ。それが勿論、まっさらな真実だとも思ってはいないが。が、その、心の奥底に押し沈めていたままの事が、そう都合よく目の前に晒されるか普通?
猫耳の、悪趣味な悪意みたいなのを感じるのは気のせいか?
「実験」と確かにあの女は言っていた。特殊な状況下に置かれた人間がどのような思考を行動をするか、それを観察して悦に入るっていうのがこの、意味不明の諸々の本旨であるのなら。それに泡食って対応してしまうのは奴の思うつぼ。素直に乗っかってやるっていうのは何と言うか癪だ。
平常心。フラット。ニュートラル。それを通す。それで通すことにする。一蓮托生体のシンゴにも要らん動揺を与えてみてもしょうがない。よし。例え若かりし母親がもしこの場にて現れて、その上で何ともドラマティックに過ぎる出会いをカマしたところでそれは真顔でスルーして乗り切る。それは対局には何ら関係の無い要素と割り切り、「観察者」である猫耳を喜ばせることも無いように。
大分、気は落ち着いてきていた。深呼吸、実体は無いがその行為を真似ることによって、意識だけの今でも思考の波が凪いでいくのが分かる。よし。
何とか立ち直った俺が、いそいそとメニューを行ったり来たりめくりながら選んだのちに甲高い声で店員を呼んだシンゴの隣に腰かける姿勢を取った。その、
刹那、だった……
「ご注文はお決まりでしょうか?」
そこには、円い大きなレンズの眼鏡をかけた、茶色のふたつおさげ髪の店員が営業スマイル以上でも以下でもない笑みを浮かべ返答を待つ姿があったのだが、先ほどの「春日」という例の仮想母親と思しき女性では無かった。身構えていた俺はちょっと拍子抜けの体だが、まあ全然OKだ。これ以上この界隈に思考を裂くのはやめよう。と、やけにてかてかした樹脂の座面に座り直す体勢を取ってみた。その正に、
刹那、だった……
「お、おおおおオムュレツアンドチーズハンバーグセットライス大盛りでえひゅいッ!!」
一点を見据えたまま放たれた尋常じゃない速さと甲高さの声が、平日昼の割と落ち着いた空気の店内に割と響き渡る。なに?
かしこまりましたぁ、との結構かわいらしい声に一瞬困惑で飛んでいた意識が戻ってくるが、それでも目の前に展開しているのは、眼鏡女店員の端末に打ち込む姿勢のためにその二の腕によって寄せ持ち上げられた目を引くほどの豊かさを誇る双丘への無遠慮極まりなくロックされた視線を放つ男の、醜い丸顔面であったわけで。おまえ結局誰でもいいんだろぉなぁあああ……今までの逡巡とかは何だったんだと思わせるほどの脱力感に襲われた俺にさらに訪れたのは驚愕の、
刹那、なのであった……
「……やあ」
いきなり座席の左隣に滑り込んできたのかと思った。そうと思わせるほどそいつは唐突に、俺らの目の前に「現れた」のであって。
「……」
驚きのあまり、声帯も顔筋も一切が活動を停止していた。俺の左隣にやけに自然体な姿勢で背もたれに身を預けているのは。いや、預けているような体勢を取っているのは。
あまり客観的に、鏡以外では見たことのなかった、紛れもない「自分」のようであって。そう見えているだけか? であればこの俺は一体何だ? よく見れば、その人影の奥の光景はうっすら透けて見える。シンゴが俺の姿のことをそう評していなかったか? つまりはこいつも「意識体」。どういうわけだかは分からないが、突如現れた「二体目の俺」。唐突な割りには随分と落ち着いていやがる。いやそれよりも何故増えた? 意識の混濁とかは幸いと言っていいか分からないが起こっていない。俺は俺。そこに至ってようやく落ち着けた。だが、だとしたらこいつは。
「僕は、『可能性の僕』だよ……君が遡った結果、生まれたと言ってもいいかもねぇ……」
のたまう言葉の何ひとつも響いて来ない。俺が真顔で睥睨したままのそいつの身体の周りは、白い光がぼんやりと覆っているように見えた。ただ見ていることしか出来なかった。俺の思考は、まったくもって明確な像をも結ばないままなのであって。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます