#03or94:明鏡or止水

「あ」


 思わず声が出ていた。それがハウリングするかのようにハモった。何の前触れもなくいきなり「繋がった」感触がしたかと思ったら、先ほどまでの浮世離れしたピンク雲が敷き詰められたうそ寒い大空間から、娑婆感溢れる六畳一間の小空間へと、「意識」は無事に移行を遂げていた、ようだった、のだったが。


「あ、えっと……え?」

「え、ああ……うん?」


 毛羽立った畳の上に、開かれた写真週刊誌と思われる冊子を前に、あぐらをかいていた同年代くらいの男を見下ろすようにいつの間にか立っていた。そして、座っているものの立っていたその男は、丸顔でどことなくぼんやりした顔つきをしていた。だが顔から受ける印象とは逆に男の右手はいま性急に前後運動を繰り返しており、いきなり眼前に現れた俺への対応をどうしていいのか分からなかったのか、ちょっと待ってて、との意外な冷静な言葉が放たれたかと思った瞬間には慣れた手つきで連続的に引き出していたボックスティッシュ三枚重ねの中へと猛る奔流を放ったようだった。


「……」


 永遠にも思えるような嫌な間が展開していた。やけにのろのろと黒地の両脇に白い三本線の入ったジャージをもぞもぞ履いた丸顔が、俺との間に小さなちゃぶ台を据えてどすりとまた腰を降ろすまでの間、当然のことながら俺らの間に交わすべき言葉は皆目無かった。あるのは閾値を振り切れた気まずさと居たたまれなさと、来て早々、この男の未来にいきなり何らかの傷跡を残してしまったのではないかという御門違いの危惧のような何かだった。


「うん、それで僕に何か用が?」


 やけに凪いだ言葉だった。それもやむ無しとも思えた。小太りの身体の割には甲高い声とも思った。しかして場の状況を辿れば辿るほど、唐突には切り出しにくい案件であることに遅まきながら気づいた。それにしても狭い部屋だ。最中だった割りには男の背後の窓は堂々と開け放たれていて、そこから湿った闇が窺えた。澱んだ和室六畳を、あるはずも無い適切な言葉が転がってはいないかなと探しつつ所在無げに少し見回してみたが、アパートだろうか。右手の方にはステンレスの流しとその奥にはひと口しかないガスコンロがあるが、その上には雑多に膨らんだコンビニ袋が積まれている。背後には三十センチメートル四方くらいしかない狭い沓脱ぎがあってひとめ履き潰されてぐずぐずになっている元は白色だったろうスニーカーが一足、転がっていた。室内に他にめぼしいものは見当たらず、テレビは一応あったがブラウン管って奴か、初めて見たが奥行きに何が入っているのか分からないほどに長い立方体のような形の代物が部屋の角に嵌まるようにして台に乗せられているばかりだった。


「あ、何て言うか、未来から意識だけ飛ばされてきて、ええと、それで何か取り憑いて戦うっていうか、そんな感じで」


 俺から発言しない限りは物事は何も進まなかろうと思い言葉を紡ぎ出してはみたものの、どう贔屓目に見積もっても狂人の世迷言だった。またしても真空のような空間がこの六畳間を満たしていく。はずだったが。


「……続けて?」


 丸顔は妙に真剣な顔つきになってちゃぶ台の上にその肉付きのよい上半身を乗り出してくる。何か喰いつく要素あったか? というかこの状況諸々は流せるんだな?


「いや、そのくらいしか分かっていなくて。その主催者というか首謀者的な奴が頭のおかしい奴で。とにかく若くして死んだ奴の魂的なものを『九十六』人分集めて、それを『一九九六年』に意識だけ移行させて互いに戦わせるとか、正気じゃないことを言い出して、でもそれはどうやらガチだったみたいで、俺の姿、見えてるんですよね? でも実体無いんですよ、たぶん」


 何か、聞いてくれる人がいるせいか、がっつり喋ってしまった。そんな、敬語を今更使うべきなのか何なのか定まらない浮わつきまくった言葉を発した後は所在なく立ち尽くすばかりの俺に向かって、丸顔はまあ座れとばかりにその分厚そうな右掌を差し出して上下に振るのだが。立ち返ってみれば、実体が無い割にはうまいこと畳の上に「立って」いることが出来たな。試しに日に灼け尽くした畳の上へとそろそろと両膝を突くイメージで降ろしてみる。普通に正座することが出来た。うん、まあ……めり込んだりしなくてそれは良かったか。何が良くて何がそうでないのかはもう判別は出来なかったが。


「君の姿は確かに見えているよ。はっきりと見えている割にはその後ろの物もうっすら透けているというかだけどね。夢かな、とかも思ったけど、そうでも無さそうで、うん、何というか良かった」


 座って高さが合った丸顔から、そのような正気を疑うかのような声が漏れてくるものの。何でそんなにもウェルカム?


「今の僕は、ほんとの僕じゃあない、っていうのが実感出来たから。いつか、こんな破天荒なことが自分の身に起きるって、信じていたところがあるんだ」


 促しても無いのに、そんなヤバめの言の葉が紡がれていくことに、俺はと言うと思考がまっさらになるほどに驚愕している。あの猫耳の言っていたことを鵜呑みにするのなら、この丸顔の人の好さそうな男は、俺の父親だ。一九九六年の。二〇二〇年の俺から見ると二十四年前の。ということは、俺と同じ十九歳かひとつ上、二十歳の親父ということになる。


 今は疎遠になってほぼ会わなくなってしまったが、少なくとも今眼前のこんな感じは微塵も感じて来させてはいなかった。事業で未曾有の成功を果たした一代での成り上がり生けるレジェンド、俺が死んだと聞いても「そうか」のひと言で済ましてしまいそうな男、それが俺の父親と思っていたが。


 本当に俺は過去に来たのだろうか。その辺り、怪しく思えてきた。とは言えこの友好感は使える。俺は俺の、今すべきことの答えを手探ろうと思考を最大限稼働させ始める。

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