Who am I?

「君は誰? ここで何してるの?」

 放課後の教室で柔和な面持ちの少女に尋ねられた時、人間はどんな返事をするのだろうか。ホースもコンセントも備わった掃除機であり、付喪神でもある俺には何も分からない。

 そしてきっと、分かる日は来ないのだろう。極彩色のホースを備え、人間と同じ足を持つ胴体には鎖のようにコードを巻いた、人とも道具とも言えない体。そんな中途半端な体を持っている俺にはきっと、永遠に。

「あ、もしかして新しい玩具だったりする? 私の知らないうちにこんなの売られてるんだ。知らなかったなぁ」

 いつもと変わらない床から見上げる視界の中では、紺色のブレザーで夕焼けの光を受け止める一人の少女が笑顔を絶やすことなく立っていた。

 額を隠すように切りそろえられた黒髪と人形のような黒い瞳。そして、些細なことで折れてしまいそうなほどに細い首。人間の中でもひときわ脆そうな容姿とその身に纏う弱々しい雰囲気が俺の食欲を刺激する。だが今はそんなことよりも彼女の言葉が重要だった。

 ……だって人間に話しかけられるなんてこと、今までなかったからな。

 俺は人間じゃない。人間と似た意識を持っているが、俺は付喪神だ。ゴミだけじゃなくて人間の嫉妬や憎悪の感情まで吸い続けてしまったせいで春に目覚めてからもう三か月。こうなる前の掃除機(おれ)を使っていたらしいこの高校は夏休みに入っていて、数人の教師や生徒にさえ注意すれば自由に動き回れるというわけだ。

「見たところ掃除機みたいだけど私と同じ足も付いてて、それにコンセントも巻き付いてるし、なんだか安物の玩具みたい」

 だというのに、夏休みが始まってちょうど一週間の今日。俺は生徒に見つかってしまったというわけだ。

「初対面なのに失礼だな。お前、もうちょっと驚くとかしないわけ?」

「あ、やっと喋った」

「……」

 俺が言葉を発したことに驚くことなく、むしろ面白そうにこちらを観察している彼女は何者なのか。見てくれはここの生徒らしいけど、それにしたっておかしなヤツだ。

 それでもこうしてコミュニケーションが取れることに喜びを抱いている自分がいるのも確かだった。地面に触れている二つの足は触覚を通じて自分がここに存在している実感をくれる。人間と同じ、この場所に生きているという実感を。

 だけど俺は掃除機の付喪神だ。もっとそれらしい付喪神ならすんなり人前に出れただろうが、掃除機なんて変化球すぎる。きっと廊下でギュンギュン騒いでいるとすぐに廃棄されるだろう。それでも空き教室で人間と話をするくらいなら問題ないはずだ。そう判断して、俺は目の前の人間を見据えて言った。

「おい。付喪神って知ってるか?」

「知ってるよ。古典の授業で先生が話してたっけ」

なら話は早い。

「俺はそれの一種だよ。見てのとおり掃除機の付喪神さ。ゴミだけじゃなくて人間の感情も吸える特別性。吸引力だって変わらねぇよ」

「じゃあ玩具じゃないんだ。あ、強弱のスイッチもある」

 彼女の言葉にコンセントを振って答えながら、俺は彼女の足下に近づいた。こうして近づくと分かるが、彼女の腕や足には肉がない。筋肉よりも骨の割合が多いのではないかと思わずにはいられないほどだ。

 ……なんか、幽霊みたいだな。

「こんなに痩せてるけど、お前体でも悪いのか。お前みたいなヤツ、生徒にいなかった気がするんだよな」

 春に目覚めてから時間だけは有り余っていたから学校の生徒はほとんど把握している。特に向上心や恋心、劣等感やら怒り、嫉妬といった感情を主食に生きている俺にとって、目の前に立っているコイツみたいに心も体も弱そうな人間は格好の餌だ。そんな人間を見逃す理由がない。

「……私、ずっと前から不登校だったから」

「へー。じゃあ今日は珍しいわけだ」

 珍しい。その言葉に何か思うことでもあったのか。彼女は胸に手をあて、窓の外――オレンジに染まる空を見た。その瞳は遠くを、ここではないどこか遠い場所を見ているような気がする。

「……そうだね。前に来たのは、えっと……いつだっけ」

「なんだよそれ、ボケ老人みたいなこと言いやがって」

「――っ、あはは!」

 ただのツッコミで笑うとか何なんだこいつ。呆れる俺に構うことなく、彼女はずっと笑ったままだ。

「君、なんだか人間みたい」

「お前、付喪神を馬鹿にしてる?」

 笑い過ぎたせいか目尻に涙を浮かべた少女はその場に屈み、俺が体に巻き付けている掃除機のコンセントを指先で摘まむ。

「こんなのが無くてまともな人間だったら、きっとモテたんだろうなぁ」

「おいこら弄るな。人間に人間みたいって言われても反応しづらいわ。それに高校(ここ)も嫉妬やらいじめやらで腐ってる場所だ。お前みたいな脆そうな人間がいたら死んじまうぞ」

 学生も教師も、学校にいる奴らは皆心の中が淀んでいる。常に他人の目を気にして、建て前と本音を使い分けながら生きているのだ。そんな生活を繰り返していけば、一人くらい壊れてしまう奴がいても不思議じゃない。それに、そういう人間が俺の獲物だからな。

 だが、

「それじゃあ付喪神のあなたは私を殺すの?」

 美味そうな首を晒す彼女の言葉に、俺は何も言い返せなかった。


 ◆◆◆


 結局、その日はしばらく会話を楽しんでから別れることにした。彼女は人間で俺は付喪神。もしも一緒にいるところを教師や他の生徒に見られたら何が起こるか分からない。少なくとも彼女の生活に悪い影響を与えることになるだろう。

 ……だっていうのに。

「『掃除気』なんて、それっぽいでしょ? 人間の気持ちを吸い取っちゃうあなたにピッタリだと思うんだけど」

「もしかして俺、けなされてる?」

 出会ってから二週間。一か月の夏休みも折り返し地点に来たというのに俺と彼女は未だに一緒に過ごしていた。

 ……暇人かよ。絶対課題やってないだろ。

「でも意思が強い人の感情は吸えないんだっけ?」

「こいつ話聞く気ないだな」

 ちなみに答えはイエスだ。

 埃まみれの黒板に記された漢字三文字を指でコンコンと鳴らす彼女は生徒というよりも教師だ。対する俺は机の上に乗って話を聞いているから生徒か。

「ちょっと聞いてる? せっかく大事なこと話してるのに」

「あー聞いてる聞いてる。やっぱりダイ〇ンっていいよな」

「その口に雑巾でも詰めてあげようか」

 そう言うと彼女は近くに落ちていた雑巾を掴み、本当に吸引口へ近づけてきた。普通の掃除機と違い、吸い口は極彩色で派手だがそれでも繊細なことには変わりない。だというのに彼女は吸い口を片手でとらえ、狭いそこに雑巾を押しつけてくる。

「あ、ちょ、やめ――ッ!? やめて、詰まると死んじゃうから! これ口だから、大事だから!!」

「あ、抵抗したらダメだからね? もし騒いだら先生呼ぶから」

「いや、ここ一番職員室から遠いだろ。どんだけ騒いでも来ない――って、怖ッ!?」

 人間とは思えないほどに素早く放たれた雑巾二枚を机から飛び降りて避ける。両足で懸命に逃げながら背後を見れば、机の上は水をたっぷり含んだ雑巾によってすっかり水浸しだ。

 ……いちおう俺って電化製品なんだけどなぁ。こいつ、絶対に分かってやってるよな。

 二週間前の儚げな印象が霞むほどに今日の彼女は元気だった。相変わらずというか当たり前というか、まったく代わり映えしないブレザーを着ながら雑巾を両手に持つ姿はどこか子供っぽい感じもするが。

「で、どうなの『掃除気』さん。こういう名前があったほうが妖怪みたいでしょ」

「まぁ、いいんじゃねえか。発音だけじゃ本物と区別つかないけどな。……あと俺は付喪神な」

 彼女が黒板に花丸を描くのを眺めつつ、俺は何となく周囲を見渡した。普段なら床から望む景色も教卓から眺めれば変わるものだ。規則的に並んだ机と椅子。そこから漂う悲喜こもごもの感情たち。俺からすれば隠すことなく全て見せてほしいのだが、人間はいつも本心を隠したがる。

 正直なところ、人間はよくわからない。あれだけ感情豊かでコミュニケーション手段をいくつも持っているというのに、相手によって本音と建て前を切り替えるのだから。

「俺みたいに好きなことだけやって生きればいいのによ」

「それ、三階の窓から女子の水泳見てる時の言い訳?」

「あ」

 背後を振り返れば、そこにはいつの間にか黒板消しを振りかぶっている彼女の姿があった。

 墓穴を掘るとはまさにこのことか。まぁ、掘るための腕は無いわけだけど。

「いや、だって女子水泳部すごい競争意識強いじゃん! あのグチャグチャした感情の溜まり場、あれ絶対にイジメしてるって思ったから観察してただけだって」

「余計なこと考えてる暇があったらもっと真面目に生きてみたらどう? 掃除機なんだからゴミの一つや二つくらい吸い込めるでしょ」

「はぁ!? 俺はそこら辺の掃除機とは違ってお前たちの感情を吸ってればそれでいいんですぅ」

「それって職務放棄でしょ。せめてこの教室くらいは綺麗にしようとか思わないの? ここ、私だって使ってるんだけど」

「いや、この教室は俺が生まれ育った……そう、実家なんだから好きに使ってもいいだろ」

「うっわ、サイテー」

「もうちょっと本音を隠せよ」

 それにしても、コイツは学校をよく見てる。校舎とプールの間には木々が植わっているせいで、水泳の様子を上から覗けるのはこの教室がある三階か、その上にある屋上くらいだろう。だが屋上は普段から厳重な鍵が掛かっているせいで通ることもできず、その鍵を見つけることもできないでいる。それなのに俺にバレない覗きポイントを見つけているとか、

「やっぱり暇なんじゃ――」

「なに?」

 ドスの効いた声とともに俺の体を巻いていたコンセントコードが掴まれる。硬く握り締めた手で俺の動きを制限する彼女の顔は、俺なんかよりよっぽど危険な鬼の形相だ。それにいくら女子高生とはいえ、掃除機と人間のパワーバランスでは人間に軍配が上がるだろう。

 もちろん俺は普通の掃除機じゃなくて『掃除気』だ。こいつのポジティブな感情もネガティブな感情も吸い取ってしまえば良いわけなんだが、

 ……それは、なぁ。

 それは違う。そう、思ってしまうのだ。

「あれ、何も言わないけど死んじゃった?」

「んなわけあるか。少なくともお前が生きている間は絶対に死なないね。俺は付喪神だぞ? お前みたいな弱そうな人間よりも先に死ぬわけないだろ」

「うん。それだけ口が回るなら元気だね。いや、心配した私が馬鹿みたい」

 コードを手放して朗らかに笑う彼女と違い、持ち上げられてから地面に落ちた俺の体と心はぐちゃぐちゃだ。

「あーあ。どうしてこんなに人間臭くなっちまったのかねぇ」


 ◆◆◆


「って、それもこれも、全部お前のせいじゃないか」

 夏休みもあと一日だというのに今日も今日とて、俺と彼女は空き教室で過ごしていた。目覚めたばかりの頃は漂ってくる感情の匂いで本能のままに人間のエネルギーを吸っていたが、今では栄養源でもある人間と会話を楽しんでいる。きっと付喪神と違ってまっとうな神様が見たら俺を笑うだろう。

「それで、何が私のせいなの?」

 そこで意識が現実に引き戻される。頭上を見上げれば、そこには相変わらず制服を着た彼女が俺の体をじっと見つめていた。

「いや大したことじゃないって。ただ、俺がこんなに人間っぽくなっちまったのはどこぞの人間のせいじゃないかなー、って思っただけだって」

「ないない、それはないって」

 教室の隅に隠すように置かれた机たち。その一つに尻を乗せた彼女は薄汚れたロープを弄びながら答えた。しかしその視線は出会った時と同じく窓の外へ、ここではないどこかを見つめていた。

「……もしかして友達がいなくて寂しいのか」

「間違いだし、言い方に悪意あるよね。それにそっちだって付喪神の友達いないでしょ。私はただ、夏休みがもうすぐ終わっちゃうなぁ、って。二学期が始まったら学校にも行かないだろうし」

「お前、本当に学生かよ。いつも朝から夕方までここにいやがって。本当は学校に不法侵入してるやばい人間だったりしないのか?」

「うわ、掃除機の化け物に『やばい』とか言われるなんてすごい屈辱。死んだら絶対に呪ってやるからね」

 失礼なことを言いやがる。遊びやら恋愛やらを楽しんでる人間と違って、こちとら生きるのに必死なんだ。夏休みは生徒も教師もほとんどいないから動きやすい反面、大事な食料が不足して困る。部活の大会や合宿がある時はいいけれど、そうじゃない時は用務員やら中年教師の感情を吸ってやりくりしてるのだ。

 正直、吸うなら思春期のみずみずしい感情のほうがエネルギー効率もいいのだけど。

「お前、中年オヤジの愚痴とか聞きたいか?」

「うわ……勘弁して」

「だろ? いくら俺の好物が人間(おまえ)たちの感情だからって、汗まみれのオッサンが夢の中でセクハラ楽しんでる時に感情を吸わないといけない俺の気持ちにもなってみろよ」

 思い出しただけで寒気がするが、生きるためには仕方がないことだ。

 人間もきっとそうだろう。学校という限られた世界でも怒りや嫉妬、自信や恋慕、そういったさまざまな感情が渦巻いている。もちろん人間の中には俺が吸えないほどまっすぐな意思を持ったヤツもいるが、そういった特殊な人間は学校の中でも数人しかいない。

「つまるところ人間ってヤツは面倒だ。勉強も部活も、常に他人と比較してやがる。競争なんてしなければ劣等感もプライドも生まれないっつーのによ」

「……しょうがないよ。人間はたぶん、そうやって常に努力してきたんだと思う」

「はっ。努力したって覆せないことなんていくらでもあるだろ。なのに大人どもは『努力が足りない』『諦めるな』ばっかり言いやがる。

 生徒指導室とかすごいぞ? あそこ、大人と生徒が入ったあとは絶対にドロドロした美味い負の感情で満ちてるんだよ。あれだ。お前たちが時々話してる『バイキング』ってヤツはああいうことなんだろ?」

「それは違うでしょ」

 呆れ顔のまま彼女は窓の外に視線を移すと、不意に溜め息を一つ吐いた。

「……もう戻らなきゃ」

 名残惜し気に呟いて机を降りると、彼女はそのまま教室のドアへ足を向けた。

「最近帰るの早くないか?」

 教室の時計を見れば時刻はまだ午後四時を過ぎたばかりだ。彼女が学校から帰るのは遅くとも午後五時で、日没ギリギリまで教室にいることだってある。夏休み中の部活もその頃には撤収を始めているから、俺はてっきり友人を待っているのかと思っていたが、最近は帰宅の時間が日ごとに早くなっていた。

「うん。あんまり居すぎると帰るのが嫌になっちゃうし」

 曇った表情を隠すように彼女は足早に教室の扉へ手をかけ、そして廊下へ一歩を進めた。その顔も言葉も、俺には偽りにしか見えない。

「せめて挨拶ぐらいはしてけよな」

 俺の一言に何か思うことでもあったのか、彼女は不意に足を止め、

「……さよなら」

 それだけを告げて教室の外へ出ていった。あとに残るのは俺と、廊下を歩いている教師の鼻歌だけだった。


 ◆◆◆


 この人間は嘘を吐いている。何か後ろめたいことがある。人間の感情を吸ってきたおかげだろうか。俺には彼女が何かを隠しているように見えた。

 しかし俺にその理由を知る術はない。人間に似た姿を持っているならまだしも、元の俺は掃除機だ。そんな簡単に校舎の外に出られるはずもなく、今までもこれからも教室を去る彼女の背中をただ見送ることしかできない。

 ……ああくそ、こういう時に手でもあればなぁ。

 そうすれば彼女を引き留められただろうか。

「けど」

 俺にだって追いかけることくらいは許されるだろう。この学校でも似たような人間を何度も見てきた。付喪神としての足と掃除機の車輪に力を込めて、俺は教員の足音が遠くに去ったタイミングで廊下へと飛び出した。もとより校舎内にはほとんど人がいない。少しばかりぶつかっても気づかれないだろう。

「――っ!」

 咄嗟に足と車輪を動かして埃まみれの教室を出れば、廊下には窓から眩い光が差し込んでいる。そして、その先に彼女の背中があった。俺が使っている空き教室とは反対側に位置する廊下の突き当り。そこに上下階を繋ぐ階段があるのだ。

「ちょっと待てよ」

 口に出すのはそれだけでいい。あとは速度だけが必要だ。だから、走った。

 廊下を駆け抜け、階段に差し掛かる彼女との距離を縮めていく。人間と違って体力の限界はない。それでも普段なら出さないスピードに尻からこぼれたコンセントが床に叩きつけられるが、それでも気にする暇はない。第一、そんな細かいことを気にするのは人間の領分だろう。俺みたいな付喪神には似合わないことだ。

 ……ああでも。

「でも、俺って人間らしいんだよな」

 そう言われてしまったのだからしょうがない。人間の言葉にこだわるなんて馬鹿らしいけど、それを無下にする理由も存在はしないのだ。

 ……しょうがねぇ。

 一度足を止めてコンセントを腹にしっかりと巻きつける。人間がいればこういう動きも手っ取り早いけど、俺一人では細かい動きができないから時間がかかる。

「付喪『神』の癖に人間がいないとここまでポンコツかよ」

 まったくもって情けないことだけど、今はそんなことよりも彼女のことだ。再び廊下を走って階段の前にたどり着き、そして迷った。

 視界にあるのは二つ。二階へと続く下り階段と屋上へ続く上り階段だ。

 ……考えてる時間も惜しいな。

 俺は迷わず二階への階段に足を向ける。その直後、

「――なんだ?」

 ガチャン、と何かが閉じる音がした。

「これって……」

 初めて聞く音だが予想はできる。きっと屋上に続く扉を誰かが開けたのだろう。生徒や教師も近づかず、さらには鍵までかけられた屋上に向かった人間が誰なのか。脳裏に浮かんだ女の顔に俺はつい息を吐き、

「あいつ、何してんだよ」

 早く帰るって言ったのは嘘だったのか。信じてたのに、なんて思わないが、それでも何も感じないわけじゃない。俺だって多少の感情はあるし、ここで放っておけるほど薄情じゃない。

 ……これ、きっと同類に会ったら笑われるんだろうなぁ。

 俺が生まれたのは人間の負の感情のせいだというのに、どうして俺はこうなってしまったのか。その原因の一つでもある彼女の下へ向かおうとして階段に足をかけた時、不意に階下から足音がした。

「マジかよ」

 足音が彼女でなければ大変なことになる。そこまで考えて、俺はすぐさま反転して元いた教室へと駆け出した。背後から届く足音は少女のそれとは違い、こちらをひどく苛立たせるものだ。まったく、アイツに見つかったことは受け入れたというのに、どうして今さら隠れる必要があるのだろう。

 ……まあ、面倒なことになるしいいか。

 それからしばらくして、教室に戻り、普段隠れている机の下に転がった俺は窓の外を見た。最近は景色よりもアイツの顔ばかり見ていたせいか、なんだか寂しさすら感じてしまう。こんなこと、今まではそうなかったというのに。

「ったく、面倒なことになったなぁ。人間ももっと素直に生きてくれないかねぇ」

 人間の生き方を知れば知るほどそう思わずにはいられない。だけど俺の言葉に耳を傾けてくれる存在はとっくにいなくなっていた。

 静寂に包まれる教室。闇を一層濃くする空。窓から差し込む月明りを受け止めながら、俺は一人で朝が来るのを待った。


 ◆◆◆


 一夜明けた校内はまるで世界が切り替わったかのように生徒たちの話し声で賑わっていた。まだ残暑が続いているせいか、半袖ワイシャツ姿で廊下を行き来する彼らの心は勉学や部活、そしてテストへの陰鬱な気持ちを絶え間なく垂れ流している。

 ……おいおい食べ放題じゃんか。とりあえず教師と不味い生徒以外を探さないといけないけど、これなら当分は食糧問題とさよならだぞ。

 必死に夏休みを生き延びた褒美だろうか。昼休みになって廊下に身を半分乗り出せば、まだ弱運転しかしていない俺の口には嫌気や嫉妬の感情が吸い寄せられてくる。ゴールデンウィーク後もそうだったが、ほとんどの人間が負の感情を抱く休暇明けは絶好の食事日和だ。それに夏休みで何かしらの成果を出して喜びを周囲にまき散らす生徒もいれば、そんな姿を見て嫉妬心を抱く生徒も少なくない。なら、それを余さず頂くのが俺の本来の役目だ。

 しばらくすると予鈴が鳴り、教室の扉が閉められる。午後のテストが始まれば昼食兼おやつの時間だ。テストという分かりやすい競争をさせられて様々な感情を抱いている人間からこっそり吸い取ってしまえば、放課後を迎えるころには腹が膨れているだろう。そう思いながら、俺は車輪と足で校内を巡り始めた。


 ◆◆◆


「……あんまり食べる気にはならないんだよな」

 授業も終わり、窓の外では太陽が地平線の彼方へ沈んでいく頃、俺は職員室近くの掃除用具入れに隠れていた。

 職員室のすぐ隣にあるここは生徒も教師も頻繁に通るおかげでこっそりエネルギーを吸うのにはうってつけの場所だ。しかし、俺の腹はこれ以上人間の感情を吸うことに抵抗を覚えていた。

 もちろん彼らの感情エネルギーはどれも不味くない。だが最近は食べる気すら起きなくなっていた。目覚めてから夏休みに入るまでは三学年のほとんどから吸ったとしても足りないくらいには空腹だったのに、今では一学年のめぼしい人間から吸っただけで食べる気が失せてしまう。

「しばらくはこれで大丈夫だけど、また長い休みが来たら死んじまうかね……」

 想像したくはないが、今のままで生きていけるほど自分は頑丈じゃない。所詮人間の感情がなければ生きていけない虫みたいなヤツだ。むしろ搾りカスになる人間が減った分、食料の心配はしなくて済むだろう。

 それでも心配の種は残っている。

「アイツ、結局学校来てないよな」

 心配なのは彼女のことだ。昨日、結局アイツがどこに行ったのかは分からなかった。屋上に行こうとも思ったが、屋上の扉はやはり鍵が掛かったままだった。

 そして今日。テストに人間たちが集中している隙を突いてさまざまな教室を探したが、結局少女の姿を見つけることはできなかった。

 ……まさか本当に不登校だとは思わなかったぞ。

 やはり職員室で家を調べて一度行ってみるべきだろうか。職員室を出入りする人間を眺めながらそんなことを考えている自分に、つい笑いがこみ上げてくる。

 ……おいおい。食い物の心配なんてするほど優しいヤツだったっけ。

 目覚めてからまだ一年も経っていないが、ここ最近の変化は自分でも驚くほどだ。もしも彼女に会っていなければ、俺はきっと人間と言葉を交わす機会なんて永遠に持たないままだったろう。それに、

「選り好みなんてしないわな」

 だってしょうがない。

 俺はもうとっくに、アイツ以外の人間を美味そうだとは思えなくなっていたのだから。と、その時だ。

「テストも終わったし、今日は夜までホラー映画見るんですよ!」

 先輩と後輩だろうか。スイミングバッグを抱えて職員室へと向かう女子生徒二人の話し声がここまで届いてきた。

「ほんと好きだよね。って、もうそんな時期か……。あの子も怒ってるのかな」

「先輩、あの子って?」

 不意に天井を見上げた先輩に、後輩はキョトンとした顔で尋ねる。

「ああそっか、一年は知らないよね。あんまり言うことでもないんだけどさ。ちょうど一年前にアタシの学年で自殺した子がいたんだよ。クラスが違うし、部活でもあんまり話さなかったからあんまり知らない子だけど」

「――」

 ……おいおい。学校ってどこまで真っ黒なんだよ。

 負の感情に興味を惹かれるのは掃除気の習性なのか。俺は自分でも気づかないうちに、彼女たちの会話に聞き入っていた。

「成績は良かったし水泳部の期待の星とか言われてたんだけど、ウチの部活ってかなり競争もあるし空気がキツイでしょ? 先輩としての面目丸潰れだって、当時の三年がエグイことばっかしてね。七月あたりから部活にも来なくなって、それでも教室から水泳部の練習は見てたらしいよ」

 その話を聞いた途端、馬鹿らしい考えが頭をよぎる。

 ……そんなわけ、ないよな。

「それで最後には飛び降りたんだよ。夜になって、校舎の屋上から何も遺さずに」

「それ、皆知ってるんですか」

「うん。アタシたちの世代だと有名な話だよ。こんなことで水泳部も有名にはなりたくなかったんだけどね。

 ……きっと、恨んでるんだよ。先輩のこともアタシたちのことも。だから病んでる生徒が最近増えてるのは呪いなんじゃないか、って噂もあるし」

 先輩の言葉は後輩にとって理解できるものだったらしい。後輩の少女は怪談話を楽しむようにうんうんと頷いている。

 その元凶の片棒を担いでいる存在が、すぐ近くにいるとも知らず。

「たしか友達も言ってましたよ。最近、幽霊が私たちのことを襲ってるって。なんでも掃除機に乗って移動するんだとか。ホント、冗談みたいな話ですけどね」

 そう言って後輩は笑う。しかしその声を冷静に聞けるほど俺は落ち着いていられなかった。


 ◆◆◆


 午前二時、真夜中の職員室に人影は存在しない。窓の外ではようやく雲間から月が顔を出し、その光を校舎の窓に注ぎ込んでいた。

 その光にボディを輝かせながら、俺は書棚に収められているファイルや本を一つ一つ漁っていく。

 伸ばしたコードで椅子を引き寄せ、戸棚の上に積まれたファイルもホースで巻き取っていく。どれもこれも成績や議事録ばかりで俺が求めているものではないが、それでも数時間に及ぶ探索は着実に成果を出しつつあった。

「生徒の自殺とか、やっぱり人間は隠したがるわけか」

 傍らに積み上げられたファイルの山を一瞥してから隣の書棚に視線を移す。俺からすれば隠し事なんていつかは露見するものだ。だから隠すだけ意味がないと思うのだけど。

 しかしここは人間のことを考えるべきだ。本音(ホント)を隠し、建て前(ウソ)で取り繕うのが人間ならば、やはり目当てのモノはどこかに隠されているのだろう。それが人間一人の命に関わるものだとすればなおさらだ。

 ……なら、ちょっと試してみるか。

 このまま地道に探すのでは間に合わない。俺が知りたいことは、俺が求めていることは今夜でなければ間に合わないのだ。

 職員室の中央に椅子を置き、その上に乗って俺は周囲を見た。ただ見るのではなく付喪神として、人間の感情を貪る存在としての視覚を用いて、だ。

「――――あった」

 そして俺は視た。職員室の片隅に置かれた小さな書棚。鍵を二重に設けたその中でひと際強く、淀んだ感情を垂れ流した黒いファイルがある。

「あれか」

 すぐさまタイヤと足で書棚に近寄れば、ガラス越しに分厚いファイルの名前が見て取れた。

「『女子生徒自殺事件に関する独自調査報告書』……」

 書棚の扉を体当たりで壊して中身をホースで引き抜けば、ずっしりとした重みがホース越しに伝わってくる。やはり生徒の死に関することだけあって、学校もかなり大変だったのだろう。

 机の上にファイルを置き、コンセントのコードでファイルの表紙で捲ればすぐに求めていた情報が見つかった。

 ……ああ、やっぱりか。

 一年前の今夜。屋上より飛び降りた一人の女子生徒。成績優秀で水泳部の成績もよかったという彼女の顔写真を見た途端、俺は自然と動き出していた。


 ◆◆◆


 決断と実行は我ながら早かった。侵入の証拠隠滅を後回しにして、月明りでほのかに照らされた廊下を駆ける。車輪と足の動きも好調で、階段なんて一段飛ばしだ。人間の目を気にする必要もないのだし、今の俺には屋上を目指すことだけが唯一の行動原理になっていた。

 やがて見慣れた三階にたどり着けば、そこからさらに上を目指す。生徒も教員も立ち入らない屋上への階段は短く、けれど長い。事故物件に近づくことを人間が忌避するのはその場の空気によるものだというけれど、それを裏付けるように屋上に近づくほど空気の淀みは強くなっていた。

 ……付喪神よりも“らしいこと”してるじゃねえか。

 俺も一年後には同じことができるようになっているだろうか。

 彼女と過ごす未来を自然に考えているあたり、俺もすっかり彼女との日々に染まっているということか。それもこれも彼女と出会ったおかげだし、今さら後悔なんてしちゃいない。

 だが、

「せめて挨拶くらいはしろよ。俺たち、似た者同士だろうが」

 あの時、教室を去る時に顔も言葉も隠したのなら、それを聞かずにさよならなんてできるわけないだろう。


 ◆◆◆


 扉を体当たりでこじ開けて屋上に出れば、夜風が体を舐めまわした。

 初めて訪れる屋上は暗く、空だけが明るい。屋上の縁に巡らせた落下防止の鉄柵はほとんどが錆びて、人間一人でもとび越えられるほどの高さしかない。

 そんな鉄柵から身を乗り出して、見知った人間は空を眺めていた。

「よう。けっこう近所だったんだな」

 人間なら片手を上げたりするのだろうが、生憎俺はコンセントくらいしか上げるものがない。それでも相手には意図が通じたのだろう。彼女は乗り出していた身を引っ込めてこちらに振り向いた。

「さよならって言ったのに来ちゃったんだ。

 ……私のこと、調べたんでしょ? 皆もけっこう覚えてるみたいだね。正直、とっくに忘れてると思ってた」

 呆れた風に呟きつつも、彼女の頬はしっかと緩んでいる。しかし月明りに照らされた肉体は陽炎のように手足が揺らぎ、足元はとっくに崩壊を始めている。それだけに彼女の笑顔は異質だった。自嘲気味に笑いながら彼女は崩れていく足元を見つめ、

「私って本当にひどいよね。皆が覚えてくれてるのにイライラしちゃってる」

「なに言ってんだよ。人間っつーのは、建て前(ウソ)と本音(ホント)の生き物だろうが」

 苔の生えた屋上を進みながら俺は思い出す。かつて、初めて会った時のことを。

「前に俺に聞いたよな。

 俺がお前を殺すのか、って」

 あの時、俺は何も言えなかった。人間に声をかけられることに驚いていたし、何よりも彼女の脆さに食欲が刺激されていた。だがそれ以上に、似た者同士だと思っていたのだ。

 その理由も今なら分かる。

「俺はお前を殺さない。お前とさよならする気もない。俺もお前も人間じゃないんだ。なら、わざわざ一人になる理由もないだろ」

 そうだ。目の前の人間はもう死んでいる。いま立っているのは、その亡霊だ。

「だからこんな場所じゃなくてあの教室に戻ろうぜ。正直、一人でいるとけっこう寂しいんだ」

 告げて、見上げた視線の先で彼女は空を仰いだ。雲は過ぎ去り、空には月と数多の星が自らを主張するように輝いている。

「……はぁ」

 空を見上げる彼女の瞳はかつてと違う。そこに迷いはなく、ただそうするのが当然とでも言うように、

「じゃあやっぱりここで終わりにしないと」

「な――」

 彼女は柵に手をかけた。あまりにもすんなりと、かつての行いを真似するように自然に、彼女は柵を越えて屋上の縁に立つ。

「なにやってんだよ、お前!!」

 突然のことに驚きつつも、体は自然と動いていた。多分、こうなるという予感はどこかにあったのだ。それでも、そんな予感と同じくらい信じていた。

「どうしてだよ。どうして……」

 疑問の声を届けるように口を、ホースを伸ばす。

 彼女は幽霊だ。亡霊という、ある意味で感情の塊でもある彼女に吸引は危険だろう。ならば物理的に掴み、そして柵の内側へと引き寄せる。

「お前は、俺と同じだろ!!」

 体の内から湧き上がる衝動を言葉に乗せ、柵の傍にまで駆け寄った俺がホースを柵の向こうへ届けようとした瞬間、不意に彼女の腕が動いた。

「違うよ」

 柵をすり抜けて突き出される掌に動きが止まる。目の前に見える掌は向こう側に立つ彼女の顔を透かして見せていた。

「私はやっぱり人間だもの。死んでこんな体になっても人間なんだよ。だから一緒にいられない。……ううん、一緒にいちゃいけない。あの時死んだ私の心残りはもう無くなったんだから」

 掌の向こうで彼女が笑う。その笑顔は今まで見たことがないほどに温かく、美しかった。それは俺にはできないことだ。付喪神であり、人ではない俺には一生到達できないものだ。

「……お前も俺も、人間なんかの感情で生まれたんだぞ。妬みも恨みも後悔も、全部人間のモノだろうが。それを……それを浴びて、それを遺した結果が俺たちなんだ」

 そうだ。俺が目覚めて最初に感じたのは感情の暴力だった。

 嫉妬、後悔、落胆、羨望、期待。

 人間の醜悪な感情が頭の中を駆け巡り、この身を付喪神へと変えたのだ。それは後悔の念で生まれた彼女も同じだろう。

 だというのに、彼女は違うと言った。彼女と俺は違う、と。一体何が違うというのだ。俺もお前も抱えているものは同じはずなのに。

「だって」

 その答えを、崩壊していく掌の向こうで笑いながら彼女は言った。

「だって、私は諦めてたから。こうして幽霊になっても幸せな時間は得られないって、そう思っちゃったから。

 でも君と会って叶ったの。たった一人でも、私は一緒にいて幸いな時間を過ごせてた。それだけで死んだ私は報われた。だから、これ以上はダメなんだよ。

 だけど君は違うでしょ。私が君を見つけた時から、君はずっと私の夢だった。自分の思いを貫いて、違うと思ったらそう言える。私みたいに、自分に嘘ついた人間なんかよりもよっぽど立派だよ」

「ふざけんな! お前がいなくなったら俺はどうすりゃいい!? また一人で、誰にも気づかれないまま醜い人間の感情を浴びろって言うのかよ!」

 お前と会わなければ気づかなかったはずだ。誰かと語り合う時間の尊さを、誰かのことを思って生きる幸いを、俺は知らないで済んだのに。

 ……そうだ。お前のせいで、

「お前のせいで俺は……俺は人間じゃないのに、このままずっと生きていけっていうのか」

「そうだよ」

 初めて感情を吐き出した俺に肩まで消えた彼女は言う。それは羨望と呆れが混ざった声で、こちらを見つめる黒の瞳は偽りのない本音でできていた。

「君はこれからずっと、そうやって悩んで生きていくんだよ。それが人間の感情を浴びて、感じた結果なんだから。私が変わったみたいに、君も変わるんだよ」

 掃除機として吸い続け、吸ったものを捨てなかったから。捨てず、溜め続けたから。だから、俺の中身は壊れたのだ。

「本音と建て前。人間と付喪神。絶対に重ならない二つを抱えて生きていくの。感情を吸い続けて自分の中に溜め込んだ君にぴったりな、人間らしい結末でしょ」

 強い意志を乗せた視線から目を逸らす。俺が唯一吸えないもの。それは強固な意志を孕んだ人間の感情だ。人間の醜い部分しか知らない俺には到底理解できないものだ。そんなものを突き付けたまま、彼女は決意のこもった声で言った。

「じゃあ、私はもういくよ」

 声は聞こえる。見ることは叶わない。

 それでも俺が取るべき行動は一つだった。

 ……これ以上苦しんでたまるか。

 お前がいなくなったら俺はどうすればいい。

 答えの出ない問いを抱え、俺は吸引のスイッチを点けてホースを伸ばした。彼女の体を吸い、そしてこちらへ連れ戻すために。

 だが、

「ダメだよ」

 柵に触れた感触はある。彼女の声もまだ聞こえる。だというのに伸ばしたホースにも吸引口にも手ごたえはなかった。

 ……どうして!?

 触れたはずの吸い口がすり抜ける。

 彼女の決意を汚すなど許されない。そう教えるようにはっきりと、だ。

 それでも、

 ……諦める理由にはならないだろ……!!

 吸引の音は強く屋上に木霊する。全身が燃えるように熱く、今まで出したことのない出力に肉体が悲鳴をあげているのが分かる。ともすれば彼女を呑み込みかねないほどに強く、絶対に一人で行かせはしないという思いのままに彼女の胸元めがけて吸い口を伸ばした。

 極彩色の先端が透けた彼女の胸に触れる。コードの巻き付いた胴体は柵にぶつかり甲高い音を奏でた。それでも吸引を止めない。彼女がどう思おうと、俺は俺の勝手を貫く。

「だから、お前を一人にはさせねぇ! 何が何でも、ずっと一緒にいてもらうぞ」

「やめてよ! そんなこと、望んでない。私はもう十分――」

「うるせぇ!」

 叫ぶと同時に、吸い口の先端に何かが触れた気がした。それは現実ではなく錯覚かもしれない。それでも吸引を止める理由にはならないのだ。吸引の勢いに鉄柵が騒ぎ、彼女の制服が激しく波打つ。透けた黒髪は吸い口に引き寄せられ、崩壊していく彼女の肉体も全てが俺の中へと吸い込まれていく。

 彼女という存在を絶対に手放しはしないと、その思いを現実にするために。

「お前は俺にとって初めての仲間なんだ! 人間みたいにうじゃうじゃいるわけでもない、付喪神なんてやってる俺にとって、ただ一人の仲間なんだよ! それを『はい、そうですか』って手放せるわけないだろ。だから絶対に、俺はお前を離さない。この体がどうなってもいい。どんなに人間臭くてもいい。俺はお前を絶対に、俺を残して一人で逝かせやしない!」

「――――」

 直後、屋上を埋め尽くすほどの光が炸裂した。視界は白に染まり、辛うじて見えたのはまだ崩壊していない彼女の体が光となって膨張したことだけだ。あとのことは分からない。炸裂を間近で受けた俺の体は反対側の鉄柵にぶつかるまで吹き飛び、腹の中には火の玉でも入っているのかと思わずにはいられないほどの熱があった。どちらにせよ、俺が理解できることは立った一つ。

 視線の先で壊れた鉄柵がガランと屋上の床を打つ。そこに人の形はない。そこに俺が求めた少女の姿はない。月明りは強く、俺しかいない屋上を煌々と照らしていく。

 俺はその日、初めて喪失を経験した。

  

 ◆◆◆


「ねえ、早く行かないの?」

 校舎の隅に位置する空き教室には体育祭だというのに少女の声が木霊していた。溜まっていた埃やゴミも無くなり、以前の空き教室を知る人間が見たのなら一体だれが掃除をしたのかと疑問を抱かずにはいられないだろう。

 ……まぁ、俺がやったんだけどな。

 極彩色の吸い口から息を吐けば、それで回想は終わりを迎える。今となっては懐かしい夏休みの話だ。

「ねえ聞いてる?」

 すっかり聞きなじんだ少女の声が再び教室に響いても俺のすることは変わらない。いつも通り窓辺の机に乗り、校庭で必死に競争している人間の中から獲物を探すだけだ。

「おーい。そろそろ中で暴れるからね」

「あ、それはやめ――んぐっ!?」

 不意に訪れる鈍痛に机から落下すると、強打した胴体に備わったゴミ捨て用のハッチからのそりと人影が生えてきた。まるで風船が膨らむように、小人サイズだった人影は女子高生らしい背丈へと変化していく。やがて膨張は止まり、俺の視界に立つのはもう何度も見てきた彼女の体だ。

「ほら、早く吸いに行かなきゃ。私の生死にだって関わるんだからさ」

 胴体に絡みついたコードをリードのように引っ張る彼女の容姿はその性格も含めて夏休みの頃と変わりない。

「おーい。聞いてるの?」

「聞いてる聞いてる。俺だって死にたくないよ。ましてやお前を殺す気になんてなるわけないだろ」

「……殺す気っていうか、無理矢理私のことを捕まえたくせに」

 嘆息と共に告げた言葉に彼女は微笑み、そして教室の扉に向けて歩き出す。もちろんコードを掴まれた俺を床に引きずったまま、だ。

『捕まえた』。その言葉は比喩でもなんでもなく純然たる事実だ。

 あの夜、彼女の肉体は消え去った。彼女の目論見通り肉体は崩壊した。しかし感情だけは例外だった。崩壊していく肉体を捉えることはできず、強固な意志を前にして掃除気の吸引は意味をなさない。それでも彼女の胸中に産まれた一瞬の揺らぎに掃除気の吸引は確かに効果を出したのだった。

 まだここにいたい。

 彼女の思いを吸い込んだ俺は、強い意志だからこそ消化できずに形を保っていた彼女の感情に今まで吸収してきた大量の感情を結合させた。そして新たな彼女の幽体を作り上げたのだ。付喪神という『神』の一種だからこそ叶った軌跡によって、彼女は以前と変わりなく幽霊としてこの世界に生きている。

「おーい。さっきからずっとボーっとして、何かあったの? もしかして自分探しでもしてる?」

 廊下へと一歩を踏み出しながら彼女は問うてくる。その声も態度も異様に好ましく思えてしまうのは、俺が人間に近づいているからだろうか。

 だとすれば彼女の問いにはこう答えるべきだろう。

「俺は俺だよ。付喪神で人間臭い、ただのおかしな掃除機だって」

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短編小説 河北 ミカン @kawakita_m

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