春が来た

 春が来る。東の空に昇った太陽が街の姿を晒していく。

 東から降りそそぐ陽光を避けるように、彼はビルの間を自転車で通り抜けた。同世代の中でも比較的小さな体を更に丸めて、まるで誰かから隠れるように自転車を走らせる。街には学生や社会人が溢れかえっていて、駅前の大通りは特にそれが顕著だった。

 朝の通勤ラッシュに巻き込まれ自転車を白線で止める。最近は郊外をベッドタウンにするという話もあり、人の数は日ごとに増しているような気がする。事実、今までは快適に通り抜けることができていた住宅街も、今日から工事で通行止めだった。

 ビルの窓ガラスが日光を反射する。背後から聞こえるエンジン音と鋭い日光の眩しさに耐えかねて、彼は歩道へと目を逸らす。

 そこには受験生を吸い込んでいく地獄の窯の蓋──少なくとも彼にとっては──を開ける予備校の扉があった。

 もともと勉強が好きでなかったとはいえ、まともに通うことなく数か月で辞めたのだ。教師からも厳しい言葉を何度かかけられたが、彼は特に気にしていなかった。ただ、将来のことばかり口にするのが耐えられなかった。

 今も、講師の一人である黒縁眼鏡の男性が入り口で生徒を迎え入れている。その姿に過去を思い出し、背筋が寒くなってきた。

 その時だ。

「ん? おまえは」

 男が彼の視線に気づいて声をかけるのと、信号が緑に変わるのは同時だった。

 急いでペダルを回す。視界が進み始める。

 一秒でも発進が遅れれば背後から非難されるのは確実だろう。だが、それ以上の何かが彼の足を突き動かしていた。

 早く街中を抜けようと足に力を入れ、ペダルを更に回す。数分後には視界に映る景色がビルの灰色から緑やピンクといった自然を感じるようになってきた。

 道路沿いに植わった桜の木は少しずつ蕾をつけていて、チラホラと咲き始めたものもある。それらを横目に街中を外れ、住宅街を離れていく。背中で揺れるバッグに詰まった参考書の重みを忘れようと、彼は漕ぐ足に力を入れた。



 ひび割れたアスファルトに揺られながら坂道を上っていくと、それはすぐに現れた。

 小高い丘の上にあるレンガ造りの洋館。それが彼の目的地だ。外壁は二階まで蔦が伸び、正面扉は南京錠で閉じられている。

 廃墟。

 そう形容するしかない館を前にして、彼は慣れた様子で割れた窓から部屋に入る。

 埃に塗れた部屋を素通りし、廊下に出ると迷いない足取りで玄関ホールから階段を上がる。昔は立派な屋敷だったろうに、壁や天井にはシミや穴が目立ち、廊下に敷かれたカーペットは元の模様が見えないほどにボロボロになっている。歩けば歩くほどに床の軋みは大きくなり、それはまるで侵入者を拒んでいるかのようだった。

 しかし彼はそれを気にすることなく二階へ上がると、そのまま右に曲がって突き当りの部屋を目指す。ところどころ傷んでいるドアは、彼がドアノブをひねると見かけによらず簡単に開いた。

『夢の部屋』

 彼が勝手にそう名づけたこの部屋は、扉の反対側に設けられた丸窓と青色の大きなベッド、無数の本棚、そしてそこから散らばった大量の本があるだけ。彼はその混雑した雰囲気が気に入っていた。

 彼は背負っていたバッグを扉のそばに置くと、床に散乱した大量の本を避けてベッドに横になる。青一色で統一されたベッドは廃墟の中にあるということを忘れそうになるほどの寝心地で、瞬く間に彼の意識を微睡みの中へと沈ませた。


 視界が暗転し、次の瞬間には白く染まっていた。キャンバスのように白い視界はやがて色を持ち、彼の周囲にさっきとはまるで異なる世界を描いていく。

 見たこともない建物。聞いたこともない言語。嗅いだことのない嗅覚を満足させる芳醇な香り。

 それらを五感で意識すると同時に、彼は今回も夢を見られているのだと確信した。

 現実では彼自身が眠っているあのベッドは、眠っている人間に夢を見せる。それもたしかに自我があって自由に行動できる。そして、記憶をずっと保持していられる特異な夢を、だ。

 彼がそれに気づいたのは一か月ほど前。もとは予備校をサボるために街を巡っていたが、ある時この洋館を見つけたのがきっかけだった。自転車を走らせているうちに洋館を見つけ、何かに導かれるようにしてこの部屋とベッドを見つけたのだ。

 一体誰が造ったのか。元の持ち主はどうしているのか。そして、なぜこうもリアルな夢を見られるのか。初めのうちは彼もそんなことを考えていたが、次第にそれも忘れていた。

 今はただ、夢を見て現実のことを忘れる方が大事なのだから。


 そうして、彼は夢の世界を満喫した。ベッドから上体を起こしながら思い返すのは、さっきまで見ていた夢のことだ。今回は西洋ファンタジー風の世界観で、彼はしがない旅人という設定だった。街行く人との会話や商人との情報交換、勇者一行に対してこの先の道について助言をするのは初めてのことで、面白い経験に口の端は自然とつりあがっていた。。

 過去には全く知らない未知の惑星に降り立ったり、鳥になって空を縦横無尽に飛び続けたこともあるが、ベッドは毎回趣向を凝らした夢を見せてくる。

 だからこそ夢ではほとんど感じることのなかった肉体の重みに息を吐いていると、窓から差し込む夕日のオレンジ色が帰りを急かすように顔を照らす。温かくも直視できない光に顔をしかめながらも、彼はシーツの皴を伸ばしてドアのそばに置いてあった荷物を持つ。

 その時。懐に入れていた携帯電話が震えた。画面をスワイプして見ると、家人からの短いメッセージがバナーで表示される。

『ちゃんと行ってるんでしょうね?』

 彼はそれをワンタップで消すと、もう一度ため息を吐いてその場を後にした。


 何度も何度もこの部屋を訪れてはベッドに横になる。そして、ベッドは彼の望み通りに新しい夢を提供してくれた。


 そして、彼女と出会った。


 その姿を最初に見つけたのは、夢の中。谷底に落ちる時だった。

 夢の舞台は霧のかかった険しい岩山。行商人という役割(ロール)をこなすために、彼は視界の悪い峰を大量の品物を担ぎながら歩いていた。

 幅一メートルほどの狭い道。周囲に聳える剣のように鋭い山々との間には、底が見えないほどの谷が形成されている。街で聞いた人食い谷という別名は間違いではないのだと、彼は谷を覗き込むようにして考えた。

 その瞬間、

「あ」

 足下の石に躓いたことで体勢は崩れ、彼の体は呆気なく谷間に吸い込まれていく。現実でも夢でも、生命の危機で脳は真価を発揮するようで、視界の風景がスローモーションになり、さっきまで立っていた道が上へと離れていくのが見えた。

 ……ああ、間に合わないな。

 彼は、まるで他人事のようにそう思っていた。

 事実、死を味わうのは初めてでもない。むしろ夢で死ぬことなど、このベッドを見つけてから何度も経験したことだ。ならば、他人事のように捉えてしまうのは当然と言ってもいいだろう。

 その時だ。

「────」

 視界の先。崖よりも更に上。

 そこに、ヒトの姿があった。

 小さな体は霧に紛れ、容姿を細かく把握できない。だが、最も大きな特徴を見ることは出来た。

「……翼」

 そう、翼だ。

 霧よりも濃く白い二つの翼。鳥よりも天使に近いそれを広げたシルエット。

 そして、世界観にそぐわない白翼を一度大きくはためかせると霧が晴れ、隠れていた姿が太陽の下に晒された。

 布に穴を開けたような簡素な衣装に身を包んだのは、一人の少女だ。

 幼い少女は落ちていく彼を見て、一度口を開き、

「────」

 少女の言葉。それが届くよりも先に彼の意識は浮上した。


 目が覚めた。

 ベッドから落ちていた体を起こし、辺りを見回す。肩は激しく上下し、頭の中には数秒前の光景が何度も再生されていた。

 翼を持ち、彼を見下ろしていた少女。

 その姿に、彼は覚えがあった。

「あれって」

 記憶を漁り、そして思い出した。

 かつて同じ時間を過ごした一人の少女のことを。


 少女は、百合のようだった。

 白い肌に細い手足。脆そうな体を隠すように背中まで流した黒髪をドレスのように揺らし、中学生ながら人目を惹く容貌だったことで学年を越えて人気があったのも覚えている。

 だから彼女に頼みごとをされて頷いた時、自分でも驚いたのを今でも覚えている。

 保健室や家にある本はつまらないのだと、そう言われて自分の読んでいた本を貸したのだ。

 内容は子供向けの王道ファンタジーで、彼女は普段読まないジャンルだったのか数度眉をひそめながらも、翌週には続きを求めてきた。代わりに彼女の読んでいた本を貸してほしいと頼むと、彼女は「ホントに?」と何度も尋ねてきたが、結局は貸してくれたのだ。

 それからというもの彼女とは定期的に本を貸し借りするようになり、友人と言ってもいいくらいの関係にはなっていた。

 しかし、彼女はいなくなった。当時のことはそこまで覚えていないが、高校入学を前にして山の向こうへ引っ越したことで彼女との関係は消失した。

「なら、どうして」

 どうして、彼女は夢に現れたのだろう。

 夢の世界。その中で明らかに異質な存在だった彼女。今までの夢ではありえなかった異なる世界観の交錯。それらを伴って現れた彼女のことがひどく脳裏にこびりついていた。


 翌日。彼は朝から洋館を訪れ、迷うことなくユメの部屋に向かった。

 スマホや財布だけでなく、途中のコンビニで買ったミネラルウォーターと栄養食品をバッグに詰めた彼は、荷物を置いてベッドに体を預けた。

 ……やってみるか。

 夢の中で彼女を探す。もちろん、今まで夢の中で人探しなんてしたことはない。だが、ああして彼女が現れたのなら二度目だってありうるかもしれない。そう思ったのだ。

 直後。彼の意識は深層へと下りていった。


 夢は、あくまで夢だ。

 いつか忘れてしまうもの。

 決して現実ではないもの。

 だからこそ、彼は自分の行動を不思議に思っていた。

 そもそもあの子を見つけたとして、一体どうしたいのか。

 その答えを持ち合わせないまま、彼は夢の中へ降り立った。

 深雪の大地も、鬱蒼としたジャングルも、竜が生きる古城も。彼は眠りが続く限りその世界を駆け巡った。当てはめられた役割から逸脱しようと、彼は腹の底から湧いてくる衝動に突き動かされるようにして彼女の姿を探し続ける。

 その先で何をしたいのかが分からなくても、体だけは勝手に動いていた。


 ●


 彼は数年ぶりの風邪から三日ぶりに回復するや否や、すぐに玄関へ向かった。目的はもちろん少女のことだった。

「ちょっと! アンタいっつも何やってんの。もうすぐ受験なんだからちゃんと勉強しなさい! 昨日も先生から補講に来てないって連絡きたのよ!」

 玄関を出ようとした彼の背中に母親から声が飛ぶ。

 補修には数週間通っていない。通っても乾燥した言葉を、お経のように意味不明な単語を聞かされるだけだ。

 進学にも興味はなかった。ただ成績が平均以上なだけで進学を勧められ、それを断る理由が無かったから進学希望になっただけだ。そのせいで興味のない進学補講を強制させられるのだから、彼はおのずと勉強という行為への興味を失っていった。

 それよりも、今は夢を見る方が優先だった。あそこには自分の役割があり、それ以上に求める存在がある。

 乾燥した英単語よりも、新鮮な空気が夢の世界にはあった。


 一週間前よりも増した桜の匂いを嗅ぎながら、彼は自転車を洋館へ向けて走らせていく。初めの頃は少し大変だった坂も、今では慣れたものになっている。

 やがて、洋館の屋根が見えてきた。何度も見続けたせいで、見ていなくてもその外観を描くことができるだろう。

 だが、今日は少しばかり様子が違っていた。

 オレンジと黒。その二色をベースにした柵が洋館を囲むように設置されていたのだ。

 急いで自転車を停め様子を見る。正面の鉄柵にはここ数日で掲示されたのだろう工事内容の表示板があった。

「『老朽化による危険性を考慮し、取り壊し工事を行う』……」

 その下には、工事の期間が記されている。彼は心臓が騒がしく鳴るのを感じながら、視線を下に向けた。白線で囲まれた枠に書かれていたのは、今日から一週間後の日付だった。

「そこの兄ちゃん、こんな場所になんの用だい。今の時期に肝試しってわけでもないだろ」

 背後から聞こえた声に彼は咄嗟に振り返る。その様子がおかしかったのか、彼に声をかけた初老の男性は笑いながら言葉を続けた。

「ここはずいぶん前まで外人さんが住んでたんだけどな。結局、山向こうに行っちゃってそれきりさ」

 男の言葉に彼は急かすように言った。

「それで、どうして壊すんですか」

「ここ数年幽霊が出るとかで近所から苦情が多くてな。再開発のタイミングで壊そうってことらしい。ま、入りたいなら好きにすればいいさ。俺も昔は入ったことあるし、兄ちゃんもよく来てんだろ? ただ怒られても知らねえからな。なるべく早めに帰れよ」

 それだけ言うと、男は坂を下り始める。あとに残された彼は、洋館を見て深く息をつく。そして、彼は洋館の中へ走り出した。

 太陽の熱が彼の背中を焼き、焦る心に火を点ける。

 求めている存在はたしかにそこにいるのだと、彼は信じていた。


 日が昇る前に家を出て、日が落ちた後に玄関をくぐる。家族は何も言わなくなり、彼も何も言わなかった。

 そんな生活も六日目を迎えた。許される限り夢を見続けた彼も、迫りくる現実を見ずにはいられなかった。

「あと、一日……」

 カレンダーに連なるバツから目をそらし、彼は玄関へ向かう。すると、そこにはここ数日言葉を交わしていなかった母の姿がある。

「あんた。あの洋館に行ってるんだって? 近所の人から聞いたわよ」

 彼はそれを無視して靴紐を結ぶ。

「あんなところ、もう行くのやめな。あんたにはもっとやらなきゃいけないことがあるでしょ。もう小学生みたいに好き勝手出来ないんだよ」

「なら──」

 振り向いて、彼は言った。母親の背後にある鏡が彼の姿を映している。

「なら、俺は子供でいいよ。俺は、夢を見たいんだ」

 薄暗い玄関で、彼のスマホが光と共に出発の時間を告げる。鏡に映る彼の瞳は、まるで死人のように虚ろだった。


 彼は、夢の世界を走っていた。山を越え、街道を過ぎ、長屋を通り抜け、戦場を横断し、今は森だ。運送屋の役割を課せられた彼は、しかし誰の荷物も背負うことはなく走り続けていた。すれ違う人も並走する人も追い抜いた人も、そのすべてに目を向けて、彼は走り続ける。時には馬や竜、海獣の背中に乗ることもあり、それ以上の街を訪れ、それ以上の落胆を味わってきた。

 それでも、彼女を見つけられない。

 どれだけ夢を見ても、彼女の姿どころか羽音一つ聞くこともできないでいる。あの日見た彼女の全てを記憶しているというのに、夢はそれに答えてくれない。

「──っ」

 彼を思考の海から引きずり出したのは数えるのも面倒な死の痛み。森を走っているはずだったが、どうやら獣に狙われたらしい。彼が考えている間にも貪欲な牙で貫かれた四肢は赤い血を垂れ流し、耳元では涎の水音と呼吸がうるさいほどに聞こえてくる。それでも、痛みより疑問のほうが強かった。どうして彼女は現れないのか。その理由を列挙し、次の行動を思案する。だがそれすら許さないとばかりに獣達が口を開けた。ヨダレに塗れた牙の奥。見える口膣をなんとなしに眺めていると、彼の意識はブラックアウトした。

 ベッドから転げ落ちたせいで肩や背中が痛みを訴えてくる。彼はそれをすかさず拒否すると、もう一度夢を見ようと体に檄を飛ばす。

 部屋に入っていた日の光はすでにオレンジ色に変わっていて、窓の外はすっかり夕焼け色に染まっていた。

「頼む……頼むよ。あいつに会わせてくれよ」

 ベッドに両手をつきながら声を吐き出す。窓の外で輝く夕日に向かって、子供のように願う。訳も分からず、その先で何がしたいのかも分からないままに彼は願う。

 だが、夕日は何も答えなかった。


 夢の部屋。そう名付けた場所で、彼は夢から覚めていた。ベッドの端に両手をつけて項垂れる。今まで忘れていた疲労を背中に感じながら、彼は重たく息を吐いた。

 分かっていたことだ。

 夢はいつか覚めるもの。

 醒めて、

 冷めて、

 覚めるものだ。

 それを知りながらここまでやってきたのだ。だから、この終わりも分かっていたことだ。

 そう頭で理解しつつも、彼の両手はベッドを掴んで離さない。もはや本能と呼ぶしかない部分で、彼は夢を見ることを、彼女のことを求めていた。

 その時。

 一冊の本と目が合った。

 ベッドと同じ青い装丁。まるで図鑑のように厚い本の表紙に書かれた文字を彼は声に出した。

「『ゆめ』」

 青い表紙に記されたその単語は、子供が書いたとしか思えないほどに稚拙な字だ。だからこそ、彼の脳裏には彼女の姿が浮かんだ。

 ……もしも、過去に彼女がここを訪れていたのなら。

 思い立ち、彼は勢いよくページをめくる。一ページずつ、眼球に刻みつけるように。

 本に書かれているのは二つのこと。

 書き手が見た夢の話。

 そして、自由を求めた子供の話だった。

 子どもは苦しかった。一人でいるのが苦しく、周囲の大人が怖かった。だからこそ、周囲の大人に縛られる自分の体を嫌い、夢を見るようになった。

 誰かの役に立つ夢。

 誰もが憧れることをする夢。

 誰も見たことのないものを見る夢。

 そして、翼を生やして自由に空を翔る夢。


 本の最後には、こう書かれていた。

『いつか、だれかに夢を見せられるようになりたい』。


 彼は再びベッドへ体を預けた。いつもと同じ姿勢で、ベッドに体が沈む感覚を味わいながら。

 しかし、一つだけ違うことがあった。

 彼が頭を載せる枕。その下に、青い本が挟まれている。


 瞼を開けると、視界一杯に険しい山々が広がっていた。

「ここは、」

 彼は気づき、驚いた。そこは彼女を初めて見た山だったからだ。

 天使のような彼女の姿。それを見つめながら死んだ場所。そこにやってこれたのなら、あの本を使ったことに意味があったのかもしれない。

 しかし、彼はそこで大事なことに気がついた。

 肝心な彼女の姿がどこにも見えないのだ。


 気づいた時には走り出していた。石だらけの峰を、夢の中で得た経験で駆け抜けていく。

 踏み出した一歩を加速剤にして、更なる一歩で瞬発する。その繰り返しが彼に速度を与えていく。積み重なった加速で山を越え、かつて経験した死を乗り越えていく。

 あの時は死んだ。死んで、墜ちたのだ。

 だが、今は違う。

 今は生きている。そして、飛ぶのだ。

 少女が翼を得たように、翼を生やして空へ。


 彼は地を離れ、大気を蹴った。

 一歩。重力が消える。

 二歩。大気が背中を押す。

 三歩。体は空を舞っていた。

「これなら、いける」

 自分に言い聞かせるように告げて、彼は翼を大きく打った。快音が鳴り、大地を置き去りにするように体が空を往(い)く。

 彼はもう、自由だった。


 水平線に日が沈んでいく。直感で限界が近いのを察した彼は、大声で彼女の名を呼んだ。

 直後、彼の真横を高速の影が通り抜けた。

「──」

 その横顔に覚えがあった。彼は迷うことなく飛び出した。


 高速域の中、昔のことを思い出す。

 それは彼女が街を去る時のことだ。

 彼女が街を去る半年前から、二人の関係は少しばかり冷めていた。原因はそんな大層なことではないが、子供にとってみれば十分な理由だった。その結果、彼女とはろくに会話をしなくなり、最後に言葉を交わしたのがその時だった。

 あの時、彼女はこう言ったのだ。

「また、会おうね」

 と。

 その言葉にどんな意味があったのかは分からない。文字通りの意味かもしれないし、何か裏があったのかもしれない。

 だけど、あの時の彼は何も答えることができなかった。それは気まずかったからというのもあるが、彼女のまっすぐな瞳を直視できなかったのが一番だった。

 過去のことに縛られていない自然で澄んだ瞳。それを見て彼は憧れた。

 そして、決めたのだ。

 彼女のようになるのだと。


「────っ!!」

 叫ぶ。

 彼女の名を、彼女への思いを。

 かつて伝えられなかった言葉を伝えるために。

 その響きに前方で、もはや至近といえる距離で振り返る姿があった。

 その顔を見るよりも先に、彼の速度が消えた。


 翼が消えたのだ。


 落下する視界の中、彼は一つの動きを見た。

 夕日へと進む少女が旋回したかと思うと、翼を羽ばたかせてこちらを見たのだ。

 目が合った。

 視線が交錯し、息遣いまで聞こえるような気がする。眼球は彼女だけを見つめ、墜落の恐怖心もいつの間にか消え去っていく。

 そして、彼女が笑った。

 夕焼けの世界で、空と地上の間で彼女が笑う。その華奢な腕がこちらへと向けられる。細く、脆い指。あの頃と変わらない彼女の手。

 決して届くはずのない距離だというのに、彼は自然と手を伸ばしていた。

 その手が触れ合う前に、彼の意識は浮上した。

 目が覚めたのだ。


 春が過ぎた。

 西の空に落ちた太陽が彼の姿をビルの窓に映している。紺色のジャケットに汗を吸い込んだシャツ。ネクタイを緩めてジャケットを脱ぐと彼は年甲斐もなく走り出す。道行く人の流れに逆らいながら、彼はそこを目指していた。

 ビルの密集した市街地に背を向け、ヒビのない舗装された坂道を軽快に上っていく。やがて坂を過ぎると、そこには広大な土地がある。

 かつて古びた洋館が建っていたそこは、五年が経過した今でも鬱蒼とした茂みが広がっていた。

 かつて少年だった彼はその光景を前に、懐から一冊の本を取り出した。

 ゆめ。

 誰もが見て、誰もが憧れるもの。彼にとってその結晶である青い本。その最後の一ページを開く。そこに書かれた文字は二つ。その最後の一つを、彼は空を仰いで呟いた。


『いつか、君に夢の続きを見せられるようになりたい』。


 視線の先で二匹の鳥が飛んでいる。白翼がオレンジ色の空を切り、彼らはグンと加速する。彼が何かを言う前に、鳥は空の彼方へ羽ばたいていった。

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