遊びじゃない④
「ただいま」
妻子を持つ雅楼は自宅から『ウォーカー』に通っている。透哉のように社宅に住む方が通勤の面では便利だが、一家団欒の時間には代えがたい。
ドアを施錠しながら靴を脱いでいると、雅楼の帰宅を聞きつけてバタバタと誰かが走る音が聞こえてきた。
「おかり~ぱぁ~」
今にも転びそうになりながら走り寄ってきた愛娘に出迎えられて雅楼の頬が緩んだ。
「ただいま希美~」
二歳児になる我が子を抱きかかえてあげるときゃっきゃっと笑う。まだ「パパ」とちゃんと言えないところもなお可愛い。
「ぱぁ、おしご、おわり?」
「ああ今日はもう終わったよ」
「ほん、よむっ!」
どうやら絵本を読んでほしいらしい。新しいものを買ってもらったのだろうか。
「あなた、お帰りなさい」
「楓、ただいま」
妻の楓も帰宅を出迎えてくれた。夕食の準備中だったのか、エプロンをつけて包丁を手にしている。
肉から出た血だと思うが、赤い液体が滴る刃物を持つ妻の絵面はちょっとしたサスペンス臭がした。というか普通に危ない。
「……楓、包丁は危ないから置いてきなさい」
「あらやだ私ったら。ふふふ」
笑ってごまかされた。
「お夕飯はもう少しかかるから、先に希美と一緒にお風呂に入ってきて。上がった頃には準備できてると思うから」
「ありがとう。希美、先にお風呂入ろうなぁ~」
「ふろぉ~」
無邪気に喜ぶ希美にべしべし顔を叩かれながら浴室に向かう。
狭い浴室で忙しなく動き回る希美を悪戦苦闘しながら洗う。
なんとか完遂して自分の頭を洗っているときに、湯船にダイブされたときには肝を冷やした。
泣き声を聞きつけた楓が飛び込んできて、泣きじゃくる希美をあやし、キッチンから何かが焦げる臭いがして慌てて飛んでいく。
夕食は焼き過ぎたハンバーグ。希美には苦かったらしくペッと吐き出されてしまって楓はしょぼくれていた。もちろん雅楼は完食した。けっこう苦かった。
食後は希美にせがまれて絵本を読み聞かせる。
どんな卑怯な敵にも屈しない正義の味方の物語。悪に囁かれても自分を貫き、信じた道を突き進む冒険譚。
うちの娘はシンデレラストーリーよりもヒーローものの方が好みらしい。
寝かしつけた頃には午後九時を過ぎていた。
子育てとはかくも大変なものだが充足感に満ち溢れている。
愛する妻と子がいる。十分に幸せだ。
「はい雅楼くん、温かいお茶」
「ありがとう」
楓が雅楼のことを名前で呼ぶときは母としての仕事を終えたときだ。
テーブルに置かれたお茶に口をつける。茶葉の種類はわからないが鼻腔をくぐる香りにほっと心が安らいだ。
「希美の面倒を見てくれてありがとうね」
「俺たちの子供なんだ。礼を言われることじゃない。だいたい昼間は家のことを楓に任せっきりにしてしまってるんだ。礼を言うなら俺の方だろ」
「ふふ、じゃあ誕生日も近いし、何かおねだりしちゃおっかな」
「お手柔らかに頼む」
少しばかり意地悪く笑う妻に雅楼は苦笑いを浮かべた。
「ふふ、でも良かった」
「なにがだ?」
「『ウォーカー』に就職してから前より元気になったみたいだから」
「…………」
チーター疑惑で所属チームを追われたときのこと。チームメンバーに責められ、ネットの住民に攻撃され、職を失って荒れていた時期のことだ。
「いまはやりがいある? ほら、あなた本当はコーチングよりも選手として活躍したいって言ってたじゃない? やっぱり今もそう思ってる?」
「そう、だな……」
『ウォーカー』の仕事はやりがいはある。
でもできれば選手として活躍したいという願望もまだ持っている。
だけど――。
「俺の実力じゃ選手一本でお前たちを食わせていくことはできない」
プロゲーマーとしてそれなりの力量を持っていることは自負している。それなりに活躍することもできるだろう。
だが「それなり」どまりだ。「それなり」では家族を食わせることは出来ない。
コーチングなどをしていたのは『ソル』以外で収入を得る必要があったからだ。
それではトッププレイヤーには叶わない。他の仕事の合間で『ソル』をしていても、全血を注ぎ込むプレイヤーに追いつくことは出来ないのだ。
クルトくらいの実力があればそれも可能だろう。だがそれを成し遂げるだけの力量は自分にはない。
仕方がないのだ。
「だからこれでいいんだよ」
「ごめんね」
「どうして楓が謝るんだ」
「私たちが、雅楼くんの夢の邪魔になっちゃってるから……」
どうしてそんなことになるのかわからない。少しだけ腹が立った。
「そんなわけないだろ。俺が荒れてたとき、支えてくれたのは楓だ。楓がいてくれたから立ち直ることができたんだ。邪魔どころかむしろ居てくれないと困る」
楓と希美の存在があったからきつくても踏ん張れた。もう一度やり直すことができたのだ。
感謝こそすれ、邪魔だなどと思うはずがない。
「ありがとう。俺を支えてくれて」
「ふふ、どういたしまして」
カップに口をつけながら微笑む楓。
「そういうことなら
「そうだな」
小湊は雅楼がコーチングの仕事をしていたときの生徒の一人だ。彼女もプロゲーマーを目指していたが、壁の高さに挫折して『ウォーカー』に就職した。
その縁あってこうして『ウォーカー』に勤めている。
「そういえばお礼のお菓子の詰め合わせ、食べてくれたのかな」
「美味しかったって言ってたぞ」
「あー、それ私聞いてない」
「……すまん、伝えるの忘れてたかもしれない」
もう一年近く前の話。まだ立ち直り切れてなくてそういうことに意識を割く余裕がなかった時期だ。
「そうか……もう一年になるのか……」
「雅楼くん?」
ふいに表情を曇らせた雅楼を見て、楓が心配そうに覗き込む。
「いや、あの頃はいろいろな人に迷惑をかけたなと思って」
「仕方ないよ。それに雅楼くんだって被害者じゃない」
「いや、それでもとんでもない迷惑をかけたことに変わりはない」
今までの努力を踏み躙られた。所属チームを追われた。心無い誹謗中傷に自分だけではなく家族までも晒された。職を失い家族を養っていく重圧に潰されそうだった。
絶望するのは当然なのかもしれない。荒れてしまうのは仕方がなかったのかもしれない。
それでも、それが言い訳にならないほどの迷惑をかけた。
いつか償わないといけない。
「じゃあ迷惑かけた分、頑張らないとねっ。チーターさんがいなくなるように」
楓はふんっと両手で拳を作ってみせた。
「チーターにさん付けはいらないって。あんな奴らはクソで充分だ」
「言葉が汚い!」
ぺしんと額を叩かれた。まあ確かにきれいな言葉ではなかったか。
「ところで誕生日プレゼントのことなんだけど……」
「何でも言ってくれ」
さっき話題に出たときは具体的なことは何もなかった。
楓は物をあまり欲しがらないから旅行に行きたいとかそのあたりだろうか。そういえば以前温泉旅行に行きたいと言っていた気がする。
「希美も少し大きくなってこうして夫婦の時間取れるようになったじゃない? 前に比べると余裕が出てきたと思うの」
「そうだな」
希美の夜泣きに起こされて、まともに寝ることができなかった頃が今では懐かしい。
「この前希美がね、公園で一緒に遊ぶ兄弟を羨ましそうに見てたの」
「うん?」
繋がりがいまいち見えない。
「もっと希美に構ってあげてほしいってことか?」
「あ、ううん、そういうことじゃなくて……もちろんそうしてくれるとあの子も喜ぶからうれしいんだけど……そうじゃなくて、ね……?」
珍しく歯切れの悪い楓に雅楼は内心で首を傾げた。
「二人目が、ほしいです……」
こちらの指先を摘まみながら、耳まで真っ赤にして、消え入りそうな声でそんなことを言った。
つられて自分の顔も熱くなっていくのがわかる。
いま自分はどんな顔をしているのだろうか。少なくとも透哉やみりあに見られでもしたら、死にたくなるような顔をしていることは間違いあるまい。
「……わ、わかった」
そう言って楓の手を握り返したとき。
「まぁ……ぱぁ……」
「w□せdr%&f△t#$gy◯h~~~~っ!?」
こしこしと目をこすりながら起きてきた希美が現れて二人は飛び上がった。
「の、希美……どうしたの?」
「んぅ……おいっこ……」
どうやらトイレに行きたくなって起きてきたらしい。
そんな我が子を見て夫婦は笑い合う。
「はいはい、じゃあママがついてってあげるからね」
「ひとりで、でき……もん……」
寝ぼけ眼でふらふらとトイレに向かう我が子の後ろを楓がついていく。
幸せな日常に雅楼は目を細めた。
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