第25話 エロス
美しい翼と端正な顔立ち。
それも今はむかし。
かつての翼はすっかり退化し、容貌も仰々しくやつれたように見えていた。
「とっととあがりとむらさきの用意をしやがれ」
いま寿司屋で働いている彼は、実のところ、系譜に居並ぶ神のひとりだった。
名をエロスという。
エロスは特殊な弓矢を携えて男女の恋をよく操った。
金色の矢じりに射られれば人は憑かれたように愛の虜になり、灰色の矢じりに撃たれれば疲れたように愛を忌嫌うようになる。
それは人だけでなく神をも手のひらのうえで踊らせた。
その弓矢をまえにしては太陽神も形無しだった。
誰の手によって、つくられ、与えられたのかは不明だったが、エロスの住処に今もそれはあった。
あるときエロスはそんな弓矢のせいで生きることに楽しみを見出せなくなる。
どうもこの神器に頼ることは自堕落さを助長する、とそれを感じてから、すっかり使わなくなった。
ただしそのことがエロスの美貌や若々しさを奪うことになる。
エロスの生のリビドーは弓矢で恋を司ることが本質だったからである。
けれども、エロスは後悔しなかった。
衰え始めてもなお、以前に比べればはるかに生を充実させている実感があったためである。
「さっさとなみだをお出ししねぇか。――すいやせんねぇ、お客さん、ほんとつかえねぇやつで」
エロスはどんしゃりの入った寿司桶を抱えながらも大将の言いつけにすぐさま従おうとする。
あわてたせいか、酢飯の前段階だった白い粒を床に散らした。
「バッキャロ―、てめえ、なにしやがるんだ。命のように大事に扱えって言っただろうが」
大将はカンカンだったが、エロスはそんな大将の姿を複雑な表情で眺めていた――。
その日の夜、エロスは久方ぶりに、精神の統一を図る。
目の前に置かれた弓矢を見据えてからあれやこれやと考え、発した。
「アレスよ、この日がまた来ようとはな」
軍神アレスはかつてエロスと過ちをともにした神のひとりだった。
夢のような淫らなひと時を思い起こしながら、エロスは性の象徴を硬くする。
秩序だった律動が鳴っていた。
弓と矢、男と女、そして大将。
エロスの脳裏にはいくつかの余念が浮遊している。
今度ばかりはどうなることやら見当もつかない。
次第に抑えきれない発揚に精神をも支配され始める。
「アレスよ、かつて無条件で受け入れてくれたお前に謝らねばなるまい」
それからカッと目を見開き、大きく呼吸をして、発した。
「すまぬ」
ついにエロスは白い涙を散らす。
月夜の晩に遠吠えが響く。
弓矢の横に添えられていた大将の写真は淡くしっとりと濡れていた。
――設定がいい加減ですって?
口伝、伝承、擬人態。
だって始まりからカオスじゃないですか。
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