第18話 英雄

 深夜二時。

 丑の刻といわれる時間帯。

 髭面の主が他に客のいない店内でせっせとグラスを磨いている。

 気を配る客のいないとき、マスターはジャズではなくオルタナティブでいつも気分を変えていた。


「なんで近頃は英雄というものが現われないのかねぇ?」

 独り言のように言い放った。

 別段こちらに投げかけられたわけでもなかったのでスルーを決めこむ。

 ダブルのウィスキーがすっかり底をついていた。

「マスター、最後」

「また、ツ―フィンガー?」

「いや、今日はもう、シングルで」

 トクトクと氷を滑るように注がれていく琥珀色の液体。

 口元にもってくると、揮発して広がった香りを、惜しみながらも楽しむ。

「ところで、君にとっての英雄は誰なの?」

 マスターが邪魔をするように蒸し返したので、仕方なく応えた。

「聖徳太子」

「へぇ、それはそれは」

 冗談にとっているようには見えなかった。

「だいぶ前にはよく拝めたはずなんだが、うん、最近はさっぱりだな」

 乾いた笑みをこぼすと、磨き終えたグラスを棚に納めた。

 そういえば、マスターの年代以上だと昔お札の顔になっていたことをふと思い出す。

「お店、最近調子悪いの?」

「そりゃ、そうだろ? こんなご時世だし」

 言い返すことがないまま、目を合わせると、ふたりで不敵に笑った。

 それから思い出したようにマスターは口にする。

「実を言うと、俺も馬小屋で生まれたらしいんだよ」

 いつもの馬鹿話がまた始まったのかと思った。

「キリストもそうらしいし、なんで俺だけこんなパッとしない奴になっちまったんだろうなあ」

 豪快に笑うものの、目の奥にあった物寂しさが虚栄であることを物語っていた。

「マスターもじゅうぶん英雄だよ」

「嬉しいこと言ってくれるじゃあないか」

 そう言うと、今度はさっきの哀愁をふき取るようにして笑った。


 何気ない日常とそれを支える人たち。

 派手さはないかもしれないが、少なくとも自分のような人間には必要だった。


「そんじゃマスター、今日はこのへんで」

「ああ、今日はありがとね」

「こちらこそ、お代、ここに置いとくから」


 店を出ると、空の財布をゴミ捨て場に放り投げ、徒歩で家まで帰った。




 ――英雄のいる国といない国、どちらが不幸か?

 あれ? ガリレイ先輩、なんでそんなにビビってるんですか?

 大丈夫、なんとかなりますって。

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