Gift.1 劫初のハイレシス

第1話 特別

 ――彼の記憶は、長い間押し込まれていた白い部屋から始まった。

 物心ついてすぐの彼には広すぎる部屋と、同様に大きすぎる白いベッド。両腕を精一杯伸ばしてもまだ足りないくらい大きな窓は、果てしなく続くビル群を堂々と映し出していた。温かい色調の絵が壁にかけられ、部屋の片隅にはロボットや車のおもちゃが散乱していて、……それでも、扉の外には出られない。

 当時三歳の彼は、己の小さな右手を軽く掲げた。中指を挟むクリップからはコードが伸び、よくわからない数字とグラフが表示されたディスプレイに繋がっている。それを退屈そうに眺め、彼は眼前でしゃがむ男性へと声を上げた。


「……パパ、ひまぁ」

「おーそうか、暇かぁ。……流石に何日もこんな何もない所にいたら飽きるよなぁ。でも我慢できて偉いぞ、霧矢きりや!」

 骨ばった大きな手が小さな頭を撫でまわす。いつの間にかだいぶ伸びていた黒髪が、茜色の光を浴びて柔らかくきらめいていた。ぐりぐりと撫で回す太い指の下から、真紅の瞳が不満げに父の笑顔を見つめる。

「えー……でもガマンするのもうやだー」

「だよなぁ、嫌だよなぁ。パパもずーっと外に出られないのは嫌だし、家族とか友達に会えないのも嫌だなぁ。つらいよなぁ……。せめて今度、何か遊ぶもの買ってきてやるよ。何がいい? 絵本? おもちゃ?」

「ゲーム!」

「ゲームかぁ……それはちょっと難しいなぁ、ごめんなぁ! 高いし、それにほら、ここ病院だから」

「えー……」

 長々と語尾を伸ばし、その子供は仰向けにベッドに転がった。淡い緑色の入院服に包まれた両足をばたつかせ、口を開く。

「でもオレどこも悪くないし、びょーきじゃないし」

「あー……まぁ、パパも病気じゃないって信じてるけど、これは霧矢のためなんだぞ」

「なんだそれ。わかんない」

「わかんないかぁ……! そんな気はしてた……!」

 息子とは反対側にひっくり返り、父は絵に描いたように頭を抱える。逆に起き上がった子供に首をかしげられて、父も身を起こして真紅の瞳を見つめ、口を開いた。

「お医者さんが言ってたんだけど……霧矢は特別らしいんだ」

「とくべつ……?」

「そう、特別。普通の人にはできないことができて、いっぱい人を助けられる。そういう力を持ってる……かもしれないって!」

「……?」

 細い首がゆっくりと傾げられる。真紅の瞳が細められ、初めて鏡を見る赤子のように瞬きを繰り返した。子供にしては長い間、じっくりと考えたのち……彼ははっと目を見開き、声をあげた。

「へんしんする!?」

「するかもしれないな!」

「オレ、シルバーがいい! リュウセイシルバーかっこいいから!」

「シルバーかぁ、渋いなぁ。霧矢ならきっとなれるさ! だから今はもうちょっとだけ、頑張れるか?」

「うん!」

 小さなこぶしを握りしめ、真紅の瞳を輝かせて。暮れなずむ空の茜色を背負って、当時三歳の夜久やく霧矢はただ無邪気に笑っていた。


◇◇◇


 夜久霧矢。東狂都とうきょうと未鷹市みたかし在住。9月29日生まれ、A型。

 3歳児検診の少し前、皿を割って怪我をした母親の手を何気なく撫でたところ、瞬く間に母の怪我が治ったという。その母も最初は何が起きたのか理解していなかったようだが、3歳児検診の際に医者にそのことを話したところ、『天賦ギフトが出た疑いがある。念のため検査入院をしてくれ』と指示を受けた。

 天賦ギフト。それはごく一部の人々に宿る特殊能力。干渉系と召喚系に大別こそできるが、いずれにせよ高い攻撃性を持つことがほとんどだ。天賦ギフトの一般的な発現条件が強い精神的ストレスであることもあり、その保有者は非常に危険視されている。霧矢のように発現理由が不明であるケースは前例がないため、都内でも最大規模の大学病院に入院し、万が一の場合を鑑み隔離された上で一週間検査を受けることに決まり、今に至る。

 ――そして、検査結果が知らされる日が来た。


「結論から申し上げますと、霧矢くんには天賦ギフトがありますね」

 背後で母が息を呑む気配。父の喉が苦悩に似た重い音を立てる。それらの意味をよくわかっていないのか、子供は両親の顔を不思議そうに見比べていた。真っ白な内装の診察室のデスク脇で、定年間近の医師が指し棒でスクリーンを示す。液晶に棒の先端が当たる軽い音に、子供は難しいことが書いてある画面に目を向けた。

「遺伝子にこの塩基配列がありますでしょう? この配列は一般的な人にはないんですけど、天賦ギフトが発現した人の遺伝子を調べるとですね、百パーセント存在したんですよ。それでこの塩基配列が、その、霧矢くんにもあったんです」

「え……」

 かすれた声を最後に、母は口元を押さえて押し黙った。霧矢と同じ真紅の瞳がかすかに震え、形のよい頬が徐々に青ざめてゆく。隣で父が身を乗り出し、半ば詰め寄るように口を開く。空気が一気にぴりついたような気がして、霧矢は思わず椅子の上で身を固くした。

「先生。……霧矢はどうなるんですか?」

「現時点ではわからない、としか言いようがないですねぇ……。天賦ギフトを持った子供がどうなるかは育て方次第、ですね。とはいえ一般的な天賦ギフトの発現条件は強い精神的ストレスですが、ご家庭や保育園の方には特に問題はなさそうですし、霧矢くんご自身も健康そのものです。それに天賦ギフトの方も攻撃性はありませんし、このまま順調に育てば何も問題ないと思いますね」

「……そう、ですか。よかった……」

「ただ、世界的に見ても初めての事例ですのでね。強いストレス下にいないにもかかわらず発現する天賦ギフトっていうのは。これからも経過観察をしたいので、定期的に……そうですね、2ヶ月ごとにうちに来てください」

「わかりました。その、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします……」

 椅子から立ち上がり、両親は深々と頭を下げた。不安げに両親と医師を見比べている霧矢に、医師は少し近づいて穏やかに微笑んだ。

「霧矢くん。君はこれで退院です。おうちに帰れるし、保育園のお友達にも会えるよ」

「ほんと!?」

「そう、本当」

 真紅の瞳を輝かせる子供に、医師はゆっくりと頷いて見せた。太い眉尻が穏やかに下がり、眼鏡の奥の瞳が温かい光を宿す。

「君の身体に悪いところは一つもなかったよ。これからも元気でいてね。あと、また元気な顔が見たいから、先生にもたまに会いに来てね」

「うん!」

「霧矢、先生にちゃんと『ありがとう』しなさい」

「うん。ありがとう先生! またね!」

 大きく手を振り、彼は医師へ無邪気な笑顔を向ける。両親に何度も頭を下げられ、医師は穏やかに微笑み続けていた。

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