メサイアの自証

東美桜

天使は開幕を告げる

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 ……懐かしい声が耳を掠めて、ソレは思わず振り返った。流れるような金髪がなびき、全身を覆うほどの白い翼がふわりと閉じられる。ぱしぱしと瞬く金色の瞳は信じられないとばかりに見開かれ……ソレは求めるように、片手を黒い人影に伸ばす。

 夜の闇を固めたような黒衣。背中で無造作に括られた漆黒の髪。口元に湛えられた微笑みは、あの時から一寸も変わらなくて。失って久しい心臓が高鳴った気がして、ソレは天使装束を翻して人影に駆け寄り……その指先が彼に届く寸前、黒い姿は音を立てて焼け消えた。

『っ、……』

 立ちすくむソレの眼前で、人影だったモノは黒い火花となって散ってしまった。虚空を舞う火花が金色の瞳に痛いほど焼きつく。白い天使装束の胸元を握りしめ、ソレは唇を強く、強く噛み締めた。もしソレが人間だったなら、肉が裂けて血が流れていたほどに、強く。

 ソレは震える指先を伸ばし、地に落ちた火種を拾い上げた。握り潰そうと指に力を込めるけれど、それは針金が入っているように強張って動かなくて。とうに感覚をなくした喉がひゅっと締まるような錯覚に、ソレは思わず全身の力を抜いた。息苦しいのも、寒気がするのも、ただの錯覚だ……そのはずだ。縮こまる翼を叱咤するように、何百年も言い聞かせ続けた言葉を反芻する。


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 優しい声が何度も耳の中で反響する。その度に、とっくの昔に捨てたはずの脳が割れそうに痛んだ。違う、違うと、ソレは口の中で必死に繰り返す。その名前はもう捨てた。ヒトの心はもう捨てた。なのに、なのにどうして……潰せなかった火種のぬくもりを、この手のひらは拾ってしまうのか。


『……くだらない』

 自嘲するように吐き捨て、ソレはすっと立ち上がった。白い翼を音を立てて広げ、目を閉じて呟く。

『ボクは天使だ。じきに神に至ろうとする存在だ。……こんなものに振り回されてたら、到底神にはなれない。このままじゃ、ボクの望みは果たせはしない』

 火種を手にした片手を掲げる。木炭のように黒いそれを、鮮血のような、燃え盛る炎のような真紅に染め上げて……ソレは金色の瞳をそっと開いた。


『かつて側にいた君よ。ボクをここまで至らしめた君よ。……ボクの弱さの、ヒトの心の象徴よ』

 子守唄を歌うように、ソレは火種に語りかける。金色の瞳に夜露のような光を宿しながらも、顔を上げ、祈るように火種を両手で包んだ。

『ボクのために犠牲になってくれ。もう一度、ボクのせいで死んでくれ。お前には……ボクのせいで誰よりも陰惨な結末を迎えてもらわないといけないんだ』

 祈るような、痛みをこらえるような声。白い翼が萎れかけて、迷いを振り切るように広げられる。それは握った火種を高く掲げると……指輪を床に叩きつけるように、それを遥か下界に投げ捨てた。


『何度でも身を砕き、心を潰してみせるよ。善意はお前を何度でも傷つけ、悪意はお前を繰り返し苦しめ、宿縁は執拗にお前を追い回すはずだ。だけど、それでも闘うことをやめないでくれ。お前がボロボロになっても闘い続けた果てに、無様に死なせてあげなきゃいけないんだ。お前を、そしてボクの心を、もう一度』

 余命宣告のような言葉を吐き捨て、ソレは冷悧な瞳で下界を見下ろした。名残惜しげに開かれた手を爪が刺さるほど握りしめ、純白の翼を堂々と広げてみせる。


 ――それは、希求の物語。

 善も悪も関係ない、祝福も呪詛も知ったことではない。そう謳う、我儘な少年少女の物語。どんなに打ちのめされようと、どんなに否定されようとも、たったひとつの望みに手を伸ばし続ける物語。

 そして、その果てに用意された結末は――。


『さぁ……始めよう。ボクが神に至るための最終段階を』

 天使は遥か下界を見下ろし、口元に緩やかに弧を描く。

『永久の果てのたった一瞬で。一人の少年の破滅を以て、物語の終止符は打たれるだろう』

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