#4―①


 さて。

 話はくれがごろつきたちとたいしている市場の路地裏から、時と場所とを少々移す。


 イザーク・ナジェドはその日、朝早くから王宮にいた。

 べにぎょくずいきゅうたたえられるエーメ王国のきゅう殿でんは広く、その呼び名のとおり、高級なしんりょうや赤大理石がふんだんに使われた美しい城だ。首都ツォンベルンに暮らす臣民のほこりとも言われる。

 しかし、その宮殿に毎日のように顔を出す身でありつつ、あいにくとイザークはエーメの出ではない。

 ヴィンランデシア西大陸ずいいちの国土面積を誇る、エーメのりんごくハイダラていこくから遊学中の第二おうなのである。今年になったばかりのイザークは、十三のとしにこの国に来た。領土を近しくする大国同士の宿しゅくごうとも言うべきか、エーメとハイダラは長年敵対していて、七年前にやっとえいねんゆうこうじょうやくが結ばれたばかりだ。

 要するにイザークの遊学はけいしきじょうのもので、実態はひとじち。多くのエーメの貴族たちからイザーク「殿でん」ではなく、皮肉をめてナジェド「きょう」と呼ばれている所以ゆえんである。

 うなじまでばしたくせのあるくろかみは、エーメの貴族たちの流行であるはなこうでつけ──ることはせずほんぽうねさせ、エメラルドのひとみはいつもこうしんかがやく。気ままな印象にたがわず、いや口調も、いかにも気さくでひとなつっこく、もう少し言えばけいはくにすら映る。

 ──というのは見せかけの話で。

 実際の彼は、割と理性の人であった。

 代々ハイダラ帝国は、皇子同士がれつあとあらそいの果てに、他の兄弟きょうだいぜんめつさせてこうていの座を得る。兄の第一皇子とは対立せざるをない立場だったが、「皇帝の座は兄貴がやる気マンマンらしいし、そっちがげばいいんじゃないか?」と、せいそうかいのため自ら人質に名乗り出たのだった。

 故郷にも遊学先にも敵が多い身の上だったイザークだが、少年のころからの遊び相手であったテオバルト・メイベルとだけは、不思議なほどとうごうできた。はらげいが身上の貴族社会にあって、こうしゃくちゃくなんであるにもかかわらず、テオバルトが基本的におのれいつわることを知らず、いつでもひょうなく接してくるためかもしれない。

 外見も性格も正反対だが、おたがいの国や立場というかきえて、テオバルトは彼にとって気安い友だ。だが、このところ、テオバルトはひんの妹のようだいを見守るため、イザークはイザークで故郷にまつわる諸事情に追われて、直接は顔を合わせていない。

 テオバルトが命よりも妹を大事にし、何においても妹優先であることは、イザークも承知している話だ。その彼女が毒を盛られてふちにあるというのは、イザークにとってもねんこうのひとつではあった。

 その矢先──生死の境をさまよっていたクレハ・メイベルが一命をめた。

 テオバルトから、そんなきっぽうがイザークの元に届けられたのは、つい昨日のこと。

 けんめいな彼は、そもそも妹のとくじょうたいを、主君たる女王ベルナデッタとこうしゃくていの忠実な兵や使用人、そしてイザークを除き、世間にはせてあるという。「無論、回復のことも秘密にしてほしい」と前置きした上で、興奮をかくしきれぬひっでテオバルトが伝えてきたのは、にわかには信じがたいような話だった。

 なんでもクレハじょうはただ回復するにとどまらず、長年彼女をてきたが舌を巻くほどに健康そのものらしい。

(まさか。だって……あのクレハ嬢が?)

 イザークはまゆを寄せた。

 兄の方とは親しいものの、病弱すぎるクレハとは、見舞いで顔を合わせた時に話をするのがせいぜいだ。もちろん「助かったなら良かった」とは思うのだが。それにしても、あんなにはかなもろかったこうしゃくれいじょうなのに? 動くだけで血をくとされる病弱令嬢が、健康そのもの? そんなバカな……。

 あまつさえテオバルトは、「現在の妹はかつてないほど生気にあふれていて、顔色もまるで別人のようにつやつやしている」とまで手紙に書いていた。

(テオのやつが話を盛っている可能性もあるが、そんなことをする利点も特にない。持ち直したならめでたいことですむ話なんだが。……みょうに引っかかるんだよな)

 せわしなく宮殿の中を行き来しつつ、なやみはきない。日差しの強い国土で暮らすハイダラ人にしては色素のうすい指でうなじをガリガリときつつ、イザークはため息をつく。

(……まあいい。命があったならそれで。……そもそもクレハ嬢が毒を盛られたのだって、俺の故郷の問題がからんでる。後味が悪いことにならずにすんだんだから、上等だ)

 思いをめぐらせつつも、その日の用事を昼前にはもろもろ終わらせたイザークが、そろそろ王宮をそうかと、正門を目指していた時だった。


「イザーク、イザーク! 大変だ! 助けてくれ」


 まさに考えごとの中心であった当のテオバルトが、息せききってけてきたので、前庭を歩くイザークは足を止めた。

「……テオ?」

 見るからにしょうすいしきったテオバルトは、「久しぶり」とか「いもうとかいおめでとう」なんてのんあいさつできるふんではなさそうだ。

 勇ましい眉根を寄せて「どうしたよ」とたずねるイザークの前で、ひざに手をついて息を整えながら、テオバルトはどうにかした。

「く、クレハが、……クレハがやしきからいなくなった……!」

「え」

 その台詞せりふに、思わずイザークは目を細めた。あり得ない。

「はあ……? 散歩にでも出たってことか? バカ言うなよ兄弟。だってクレハ嬢、この間目覚めたばかりじゃないか。いくら元気になったっても、そこまでじゃないだろ?」

「そのはずだが……、いつもかけている水のじゅつに、外出反応があったのだ。妹の部屋の窓が開けられて、中から人が出て行ったけいせきがあった。邸にあわてて使いを出したら、あんじょうベッドがもぬけのからだという!」

「なるほどね……ってかテオ。お前、ていたくじゅうに水蒸気のあみ張って妹の動向を察知するあのあくしゅな魔術、まだやってたのか。やめとけって言っただろ。いい加減、きらわれるぞ」

 ぞくを防ぐならともかく、妹の様子をちくいちこっそりさぐるのは変態のいきだと何度てきしても、この友人はいっかな改めようとしない。つい半眼になるイザークに、テオバルトはますます取り乱す。

「だがあの子に何かあったらどうする! いいや現に今、どうにかなってる! ああ、どうしよう。どうしたら。万が一にもまた妹が命の危険にさらされてでもいたら……その時は、お前を殺して僕も死ぬ!!」

「特大のとばっちり来たな!? じゃなくて落ち着け! ほら深呼吸」

「息の仕方を忘れた!」

「吸って吐け!」

「スーハー! はぁああ……おおぉん……!」

 とうとう両手で顔をおおって地べたにひざまずくテオバルトに、「だめだこりゃ」と思わずイザークはけんを押さえる。

 この友はいつもそうだ。だんは『エーメ王国のえい』や『れいの公爵』などと呼ばれる知性派なのに、ちょっと妹が絡むだけで、いっしゅんにしておつむがさんなことになる。

 あらかたで呼吸をしながら、なみだぐんで赤くじゅうけつしたせいがんをこするテオバルトの肩をたたき、「で、……落ち着いたかい?」とイザークはため息をついた。

(……しょうがない)

「事態がひっぱくしてんのはよくわかった。俺もすぐ捜しに出る。うちの護衛士もみんなそうさくに向かわせるから。彼女を見つけだい、すぐにお前にれんらくするよ」

 ふくめるように提案をすると、テオバルトはようやく彼本来の判断力を少しだけもどせたらしい。

「では、……僕はていないをしらみつぶしに捜させるから、イザークは念のため市街をたのめるだろうか? もんえいから妹が出て行った報告は受けていないし、考えたくはないが、……まさかということもある。すべてできる限り内密に……。念のために妹の状態は世間には伏せたままでいたいのだ。しくじったと知った暗殺者がまたおそってくる危険もあるのでな」

「それはもちろんそうだろうとも。けど先に一つかくにんさせてくれ。クレハ嬢本人には、安全のために息をひそめておくよう、きちんと伝えてあるのか?」

「まさか! 言うはずがなかろう。おそろしいかくが来るかもしれないなどとおどかして、あの子をに不安にさせたら可哀想かわいそうではないか」

「……で、お前の言葉どおりクレハ嬢が信じられないくらい健康的になってたとして。その元気いっぱいのところに、理由もいっさい知らせずにひたすらておけと自室になんきんしていたわけだ、テオは」

「いやそんなわけでは……そうと言えばそうかもしれないし、実際そのとおりだな……?」

「……」

 イザークはとうとう額を覆った。てっとうてつの異常過保護め!

「まあ俺も気持ちはわかるよ。わざわざ出るなと伝えなくても、以前のクレハ嬢ならそもそもベッドにくぎけだもんな……」

「ううっ。手間を取らせてすまない、イザーク。お前のほのおの鳥を使えば、上空から捜せると……」

「任しとけって。さすがに街までは出てないと思うけど、念のため、ってことな。クレハ嬢はきっと、邸の庭でうたた寝でもしているはずだよ。しっかりしろって。あのクレハ嬢だぞ? お前の邸をぐるっと囲むバカ高いてっさくを、彼女が越えられると思うか?」

「そうだな、そうだとも……だといいが……だといいんだが……」

 そこでふと、テオバルトはさらに顔を青ざめさせた。

「ああそうだ、大事なことを言い忘れていた。あの子は今、毒のこうしょうおくを失っているのだ」

「……記憶を?」

「ああ。覚えているのは自分と僕の名前だけ。家のこともお前のことも、それどころか女王陛下のすらまるっきり忘れてわからぬという」

「そりゃまたおだやかじゃないな」

 イザークは顔をしかめた。まさかそんなことになっていようとは。

「だったらなおさら落ち着けって。メイベル家当主のお前が、どんと構えずにどうする。すぐに見つかるさ。そうしたら、病弱だったクレハ嬢が『ちょっとそこまで』の散歩ができるくらい元気になったことを祝おう。な?」

 ショックのあまり足取りもおぼつかない親友の背を叩き、あえて明るい声で「だいじょうだ」となだめすかしつつむかえの馬車に押し込んだのが、つい数分前のこと。

(さてと)

 自らも市街地に向かうため馬を取りに駆けつつ、イザークは手のひらを上に向け、強くりょくを込める。

 テオバルトとのここい関係はけいぞくしたい。とすると当然、妹の捜索にじんりょくしない手はない。

 彼もまた、クレハやテオバルト同様、大きな魔力の持ち主だった。それも、きょうじんたましいと体力によって裏打ちされたもの。──彼のあやつる属性は炎と熱だ。

「クレハ嬢を捜してくれ」

 やがて、オレンジ色に輝く炎の鳥が、宙になんも生み出される。それらをいっせいに天高く放ちつつ、イザークはうまやへと足を早めた。


◇◆◇


 エーメ首都ツォンベルンの上空に数羽のえんちょうを放って見回らせるかたわら、己の専属護衛士たちや、邸内を文字通りまなこで捜すテオバルトからの報告を待つ。しかし、いっかなクレハ嬢発見の知らせはない。

(残る可能性は、本当に市街に出たってことか。けど、どうやって? 行けるはずもないってのに。それにおくそうしつだとか言っていたぞ。クレハ嬢のこれまでの体調を考えたら、いまごろ帰り道もわからずどこかでたおれていることも……)

 すると自分の炎鳥がたよりになるわけだが、何しろツォンベルンは広大だ。やみくもに捜してもどうにもならない。

 昼下がりになっても手がかりはなく。クレハの姿を自分もあちこち駆け回って捜しつつ、さすがにイザークはあせりを覚え始めていた。

 これはテオバルトの言うとおり、非常事態と認めざるを得ない。

(くそっ)

 これだけ捜して見つからないとすると、あと考えられるのは──

 まさか、……ゆうかい

(俺もかつだった。いくらクレハ嬢の状態を世間に伏せているからって、安全とは限らないのに)

 毒を盛ってクレハを暗殺しようとしたしゅにんはまだつかまっていない。いならえるどころか、再びのしんにゅうを防ぐのも難しいほどやっかいな相手なのだ。

 彼女がさらわれて、あまつさえ危害を加えられていたとしたら。テオバルトの邸に、無理やり押しつけてでも自分の護衛士をもっと貸しておくんだった──などと、イザークがしても仕方のないこうかいに駆られていた時だ。

 王都の中央市場の方に向かわせた炎鳥の一羽に反応があった。どうやら、クレハの姿らしきものを見つけたらしい。

「こっちか!」

 運よくちょうど市場近くのざっとうを目視で確認していたイザークは、慌てて馬をつなぎ、その足でクレハがいるとおぼしき路地裏に向かう。

 いつもながら、あんのいい首都でも裏に入ればうすぐらくなりふうも乱れる。あの病弱なメイベル公爵令嬢が単身でこんなところに出てきたともとうてい信じられず、「本当にクレハ嬢か……?」といぶかりつつその姿を捜すイザークの耳に、不意に、な男たちの笑い声がひびいた。

「お嬢ちゃんが相手してくれるって?」

(! お嬢ちゃん、ってまさか)

 慌ててそちらに向かうと、ちょうどかべへいに囲まれて行き止まりになったところに、見覚えのあるきんぱつの少女の姿がある。そして彼女は、タチの悪そうなごろつき集団に囲まれていた。背後に、まちむすめらしき少女をかばって。

 最悪だ。

「クレ……!」

 明らかにまずいじょうきょうなのは見ればわかる。

「へへ、勇ましくていいねえ。ひとつ覚えときなよ、高貴なお嬢サマのご命令ってのは、こういう所じゃかないんだぜ……」

 思わず声をかけようとしたイザークの前で、ごろつきの一人が、おもむろにぬうっと太いうでをクレハにした。

(危ない!)

 彼女たちのいる場所までは、まだきょがある。焦りつつ、とっさにイザークがこしいた護身用の月刀シャムシールに手をかけた時だ。

 クレハは、彼にとってまったく予想外の行動に出た。

 己に向けて伸ばされたごろつきの腕を、逆につかる。さらには無造作に強く引き寄せたかと思うと、前のめりにきんこうくずした相手にあしばらいをかけたのだ。

「へ……?」

 けな声はイザークではなく、足払いを受けた男のものだ。

 きっと、体勢を崩した自覚すらなかっただろう。次のしゅんかんには、男は地べたに転がっていた。のうしんとうでも起こしたのか、眼球をグルンと白く回したまま動かない。

(……!?)

 あっけに取られたのはイザークも同じだ。まぼろしでも見たかと目を疑った。

 今、──何が起きた?

「立ち方からてんですきだらけね。全員せっかくうわぜいわんりょくもあるのに、もったいない」

 さらに、そこにりんとした高い声が響き、イザークは今度は耳をも疑った。

 聞き違いでなければ、クレハのものだ。それが、ええっと、……なんだって?

 少しはなれた場所で、事態に頭が追いつかず完全にこおりつくイザークになど気づくよしもなく。クレハ──そう、ちがいなく、よく知るあのクレハ嬢だ──はヒラヒラとうっとうしそうに片手を振ってみせた。

「私、弱い者いじめは好きじゃない。今ならのがしてあげるから早く行けば?」

「んだとぉ? ……ざけんなよメスガキ。ぶっ殺せ!」

 あからさまな売り言葉にいきり立ったごろつきたちが、一斉にクレハに飛びかかる。しかしイザークは、やはりけんに手をかけたまますけすることはできなかった。

 らめくようにクレハの身体からだが動き、一人の腹に膝を打ち込み、さらに一人のあごしょうていはじげる。

 がむしゃらな動きでたんけんを突き込んできた別の一人にいたっては、するりと手を当ててこうげきを受け流すと、そのまま相手の腕の関節にひじを入れた。

「ぎゃあ!」

 ボギッ、とにぶい音が場に響き、男のにごったぜっきょうが追いかける。

わきが甘いっての」

 台詞ぜりふにダメ出しをひとつ。みょうな方向にねじくれた己の腕を庇って身を折る男のうなじに回転力を上乗せたかかとを落とし、あっさりとクレハはその意識をってしまった。

(……!)

 不覚にも。

 あまりになく鮮やかなその動きに──声すら出せず、イザークはれた。

 げられた若草色のドレスのすそが、風をはらんで広がる。小鹿のようにきゃしゃな白いあしがドロワーズまでしになるが、すぐにふわりと閉じたレースのかげに隠れる。そのさまは、あたかも大輪の花が開き、閉じるまでをそうさせた。

「クッソ! なんだよ! なんなんだよお前は!! ……これでもらえや!」

 残るは一人。

 だが、最後の男は裏返った声で叫ぶと、いきなり片手をクレハに向けて振りかぶった。その中央がパッと明るく輝いたかと思うと、人間の頭ほどはあろうかという火球が宙から生まれ、彼女の顔面を焼かんと飛び出していく。

(……魔法!)

 己と同じ炎の使い手か。ヴィンランデシア西大陸において、魔法の才を強く持つ者は血統的に支配者階級にかたよっており、どう見ても平民だろう男があれだけの威力の炎を使おうと思えば、かなりの体力をしょうもうするはずだ。想定外のきゅうに追いやられて、いよいよやけになったらしい。

 火球は避けられる距離ではなく、このままでは直撃はまぬがれない。間に合わないかもしれないとわかりつつ、イザークが今度こそ加勢すべく一歩踏み出した瞬間、クレハは型破りすぎる切り返し方をした。

「ヤッ!」

 なんと、逃げるどころか瞳を輝かせるなり──こぶしうならせ、真正面から火球を打ち砕いたのである。

 あろうことか気合の一発で、まぎれもなく高温の炎のかたまりだったはずのそれは、細かな火花と化して四散してしまった。

「あちち……。なるほど、魔法の攻撃を受けるってこんな感じなのね。ありがと。勉強になったわ」

 わずかに火傷やけどを負った自らの拳を軽く振っていちべつすると、がくぜんとする男に向け、クレハはにこりと微笑んでみせた。

「ヒッ……ば、ばけ……もの……」

 魔力の急激な消費と、目の前の現実がよほどこたえたのか、炎術を破られた男はどさりとしりもちをつき、そのまま仰向けに倒れ込んだ。きもつぶしすぎて気絶したらしい。ぶくぶくと泡を吹いている。

押忍おす、一丁あがり」

 果たして、でんこうせっのごとき速さでごろつきたちを全員しずめたクレハは、息一つ乱さずに呟き、わずかに緊張を残したままするりと構えを解く。なんてことないはずのその動きまで、まるでえんのようだ。

(すげえ……)

 なんと美しい。

 ぼうぜんと突っ立ったまま、イザークはその光景から一瞬たりとも目を離せず、しばらく声すら出せなかった。

 ぞわり、と背筋を震えが駆け抜け、強い酒でもあおったようにめいていかんが脳の芯をくらくらとしびれさせる。

 どれほどのけんさんを積めば、これほどまでにたくえつみがげられた武技を身につけることができるのか。初めて目にするとてつもないりょうに、ただただ、魂を奪われたように圧倒されてしまう。

 一方のクレハは、ごろつきたちが全員気を失っているのを確認すると、背後でふるえていた娘に声をかけている。

「ねえ、あなた大丈夫だった?」

「あ、ありがとうございます……! 本当に助かりました。あの、……高貴なお嬢様。あたし、なんとお礼を言えば」

「気にしないでいいよ。ほら行って。帰り道、また変なのに絡まれないようにね」

 ごうなその言葉にほおを染めた娘が、何度も振り返ってはしゃくしながら駆け去っていくのを見送ったクレハが、ふうっと一息ついている。

「はー、私もそろそろ帰んなきゃ……」

 わずかに乱れた金糸のかみをさらりとかき上げ、いかにも「いいあせかいた」とでも言わんばかりの彼女に向けて、イザークはゆっくりと歩み寄った。

「!」

 足音と気配にびんに気づき、クレハが振り返る。

 そのスミレ色の瞳や、気品に満ちたせんさいな顔立ちは、普段どおりのはずなのに。

 ──あふれる生命力とが、まるで違う。

 彼女までの距離は、残り数歩。

 そこで足を止め。呆然として、イザークは問うた。

「お前は、……だれだ?」


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