#2-①
カフカの小説に、ある朝目覚めたらグレゴール・ザムザは毒虫に変身していたとある。
が、
「いやいやいや……」
鏡に向かって否定の
まず疑うべきは夢だ。川で
そこで呉葉は、
「いやいやいやいや……」
幸いにして、周囲に
(整理しよう。
さっき鏡の中にいたのは、まぎれもなく
要するに、自分は彼女になったと考えていい。そして、その彼女は、何やらあれこれと
──〝わたくしの名前はクレハ・メイベル。
情報をおさらいして、呉葉は「うん」と真顔になった。
(
現時点で、
(どこよエーメ王国。地理でも世界史でも聞いたことないしそもそもどっちもとっくに忘れたわ。大陸屈指っておっしゃいますがその大陸はユーラシアでオーケーですか!? その王国のお
ダメだ。知識不足も手伝って、さっぱり何もわからない。公爵なんて、会社近くで見かけた
これが会社の新人相手だったら「悪いけど、引き継ぎ資料作り直そうか!」と
呉葉は、手元にある情報と今の状況から
(えっと、……あとなんて言ってたっけ?)
「毒殺、された……」
こんな、まだ十代の女の子が。
声に出して呟くと、その痛ましい事実が胸に
(どこのどいつがやったのか知らないけど、本当だとしたら許せない。それじゃ、この子自身は死んでしまったということ……? いや、それ以前に)
自分の方こそ。本来の、鳴鐘呉葉はどうなったのだろう。
「……やっぱ、死んだ……のかな? 私……」
そんな、まさか。言ってはみたもののにわかに受け入れがたく、「あは、は……」と
(せめて、あの溺れてた子は、ちゃんと助かってくれてたらいいな。水は
それもまた心配だが、今となっては確かめるすべもない。
(何より、
ちゃんと
(これが夢だって可能性も完全に消えた訳じゃないし……いやいやいやいや……)
えんえん
はっとして、呉葉があぐらを
「はいどうぞ!」
(しまった。つい)
うっかり反射的に返事してしまったが、外にいるらしい相手は、やや
現れたのは、ヒラヒラした純白レースの
(メイドさん……?)
現代日本であれば
おまけに彼女は呉葉と目が合うなり、心底
「え、大丈夫……」
とっさに籠を拾うべく、呉葉がベッドから下りようとした
メイドさんは
「お
「えっ」
(ま、ま、待って、誰を呼んだの! 誰なのよお館様!?)
急展開についていけない呉葉が、ぎょっと身をすくめた瞬間。
先ほどとは比べ物にならない勢いで、ドタドタドタ、と別の誰かが廊下を
「クぅレぇハぁ──!! 目が覚めたのか!?」
次にノックもせず大声で
年齢は
金色ボタンやら
いかにも「頭脳派です! そして、
(え、っと、どちら様!)
たじろいだ呉葉が思わず後ずさると同時に。
目の前に立った謎の美青年はやおら
(ぎゃ!?)
「クレハ! クレハクレハクレハクレハ!! ああ、大事な我が妹よ! よかった、本当によかった! 一命を
ビクつく呉葉の耳元で、ほぼノンブレスで青年は叫んだ。
状況が読めずに固まる呉葉をよそにぐいぐい腕を
あれこれ勢いと押しが強い人だ、と呉葉はいささか引き気味になりつつ、その顔をおずおず
「ヒッ」
さらに引いた。
美青年は、──目から鼻から、
「うっ、うっ、……ぐればぁ……この兄は、本当に、……お前が死んだかと……思っ……うっ……ズズッ……ズビィッ……」
なんだか高級そうな布地で作られた衣装の
(そもそもこの人は誰なの。……ん? 待ってよ。さっき、兄とか妹とか言ってた?)
ということは、この前で派手に
「て、……テオバルト・メイベル……?」
青い空間で少女に告げられた情報の名を呟くと、彼は泣くのをぴたりと
「クレハ、すまなかった。
「え、あっ、はい……」
「いや、いっそ許さなくていいのだ。むしろ、
力なくうなだれて首を
「いや
「お兄ちゃん……? はて。お前らしくもない」
「じゃない、その、……アニキ!」
「アニキ!?」
「
「うむ。そうだ、お前のテオお兄さまだ。……いつもより顔色はいいように見えるが、まだ熱が下がったばかりで混乱しているのだろう。つくづく本当にすまなかった、クレハ」
謝りつつ、ほっとしたように
(いや、だから! ほんっと引き継ぎが足りないんだわ!!)
彼の名前や立場が無事に判明したのはよかったが、呼び方なんて知るわけがない。
しかしおかげで、いよいよあの少女に告げられた話が現実味を
(それじゃ、この人は『クレハ・メイベル』が私だと思い込んでるんだよね。中身は、全然別人なんだけど……)
生き返ったと喜んでいるところ
「かえすがえす、よくぞ息を
「えっ」
ぎょっとした勢いで、言おうとしていた真実は
(あ、愛が重いねテオバルトお兄さん……!?)
そういえばかつて呉葉も、思春期の弟が「姉ちゃんに
──うっかり話が
(ご両親も他界してしまったらしいし。仲がいい
ここにいるのは本物のクレハではないが、かといって、本物を呼び戻す手段がわかるわけでもない。自分が元の体に戻る方法すら不明なのだから。
(やっぱり、とても言えない……)
結局、呉葉は告白の言葉を
(なんにしても、私が持っている情報が少なすぎる。そのまま『クレハ・メイベル』のふりをしても、絶対ボロが出る。かといって事実は言えないし……とすると……そうだ!)
「あの、えー……テオ、お兄さま……?」
「どうしたのだ、クレハ?」
「わたくし、……クレハ・メイベルで間違いございませんわよね?」
「……急にどうした?」
「実は、……あー……自分の名前と、お兄さまの名前は覚えているのですが。わたくし、それ以外のことを、そのー、なんと申しますか……思い出せないのでございます……」
「なんだと!?」
「思い出せない!? それは……イザークのことや、陛下の
イザーク、というまた新しい名前が出てきた。はて誰のことやら、という心のままに首を
「まさかとは思うが……国名もか……?」
「そうざます」
「ざます!?」
「間違えました。そうでございます」
お嬢様言葉、
本当は、エーメ王国だのメイベル公爵家だのという
「なんということだ……!」
頭を
「いや、……構わぬのだ。取り乱してすまなかったな。あの絶望的な状況から、お前の命が助かっただけでも十分すぎるほどなのだから……。記憶を失ってもたった十六年だ。また十六年かけて覚えればいい」
しかし、これには
(いい人だなあ。そして、クレハ……ちゃんは大事にされてたんだね……)
切ないような、申し訳ないような、
なんともいえない
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