#2-①


 カフカの小説に、ある朝目覚めたらグレゴール・ザムザは毒虫に変身していたとある。

 が、なるかねくれの場合は、きんぱつがんの美少女になっていた。しょうげきどころの話ではない。

「いやいやいや……」

 鏡に向かって否定のもんごんを繰り返しつぶやいてみたが、やはり先ほど同様、その声もせんさいいろに変わっていてだまむ。

 まず疑うべきは夢だ。川でおぼれて気を失って夢を見たのか、それとも川で溺れたところからすでに夢だったのか──はさておき。こんなこと、絶対に夢であるべきだ。

 そこで呉葉は、ほおをつねってみたり、頭をかべに打ちつけてみたり、足の小指を自ら鏡台の角にぶつけてみたりしたが、いずれもつうに痛かった。とすると、残念ながら夢ではないということになる。

「いやいやいやいや……」

 幸いにして、周囲にひとかげはなく、スズメのさえずり以外は静かなものだ。ベッドの上にもどってあぐらをかき、ジンジンする小指をさすりつつ、呉葉は口をわななかせた。

(整理しよう。じょうきょうを整理しよう!)

 さっき鏡の中にいたのは、まぎれもなくなぞの空間で出会った少女だった。

 要するに、自分は彼女になったと考えていい。そして、その彼女は、何やらあれこれとしょうかいらしきものを口走っていた。

 ──〝わたくしの名前はクレハ・メイベル。たいりくくっの領土をほこるエーメ王国において、かつて王族のぼうりゅうであり、前おうこうにして現王陛下もはいしゅつしている名門貴族メイベルこうしゃくの長女。両親は他界したけれど、仲のいい大切な兄が一人。その兄の名前はテオバルト・メイベル……〟

 情報をおさらいして、呉葉は「うん」と真顔になった。


ぎが足りない!!)


 現時点で、あっとうてきに判明している情報が足りない。どうしろというのか。

(どこよエーメ王国。地理でも世界史でも聞いたことないしそもそもどっちもとっくに忘れたわ。大陸屈指っておっしゃいますがその大陸はユーラシアでオーケーですか!? その王国のおきさきさまも出されてるなら、メイベル家って貴族様? そのおうちがすごくエライっぽいのはそうなんだろうけど、果たして公爵ってはくしゃくより上だっけ下だっけ! あと、身分でコウシャクって読むやつもう一個くらいなかったっけ)

 ダメだ。知識不足も手伝って、さっぱり何もわからない。公爵なんて、会社近くで見かけたしょうの香りがするラブホの名前がそうだったな、くらいしかおくにございません。

 これが会社の新人相手だったら「悪いけど、引き継ぎ資料作り直そうか!」とがおで背中をたたいて、ついでに足すべき内容のラインナップをわたして作業も手伝ってから、「がんったね!」と仕上げにラーメンのいっぱいでもおごって帰るところだが、そうもいかない。

 呉葉は、手元にある情報と今の状況からかいさくるしかないのだ。そもそもコウシャクれいじょうはラーメンなんて食べないかもしれないし。

(えっと、……あとなんて言ってたっけ?)

 ねんれいはもうすぐ十六歳になる十五歳。生まれつき病弱で、十六になるまでに他界するだろうと言われていた。が、──その前に彼女は。

「毒殺、された……」

 こんな、まだ十代の女の子が。

 声に出して呟くと、その痛ましい事実が胸にみ、呉葉はぎゅうっとまゆを寄せた。

(どこのどいつがやったのか知らないけど、本当だとしたら許せない。それじゃ、この子自身は死んでしまったということ……? いや、それ以前に)

 自分の方こそ。本来の、鳴鐘呉葉はどうなったのだろう。

「……やっぱ、死んだ……のかな? 私……」

 そんな、まさか。言ってはみたもののにわかに受け入れがたく、「あは、は……」とかすれた笑いらしきものをこぼしつつ、呉葉はうなだれる。

(せめて、あの溺れてた子は、ちゃんと助かってくれてたらいいな。水はいたみたいだし、レスキューも来てくれたっぽかったから、多分だいじょうだよね……)

 それもまた心配だが、今となっては確かめるすべもない。

(何より、ゆうたちのけっこんしき……)

 ちゃんとげられただろうか。中止になってなければいいけれど……。姉が直前にできしたのでは、そうもいかないか。

(これが夢だって可能性も完全に消えた訳じゃないし……いやいやいやいや……)

 えんえんもんもんぐるぐるとなやんでいるうちに、ふと耳が物音を拾った。部屋の外だ。ぱたぱたとかろやかな足音を立て、ろうかどこかをだれかが歩いてくるような──

 はっとして、呉葉があぐらをいてベッドの上で姿勢を正したところで。部屋の奥にあるおおとびらが、コンコン、とおそおそるノックされた。

「はいどうぞ!」

(しまった。つい)

 うっかり反射的に返事してしまったが、外にいるらしい相手は、やや躊躇ためらいがちにキイッとドアのすきから顔をのぞかせた。

 現れたのは、ヒラヒラした純白レースのぼうをかぶり、こんいろのお仕着せ風ワンピースの上からフリル付きのエプロンドレスを身に着けた女の子だ。推定、まだ十代半ばだろう。

(メイドさん……?)

 現代日本であればあきばらのカフェ等に生息しているはずだが、このメイドらしき少女は、トラディショナルなひざしたスカートたけなので、おそらく本職の方と見受けられる。

 おまけに彼女は呉葉と目が合うなり、心底きょかれたように、手に持っていたシーツ入りのかごらしきものをボトリと取り落とした。

「え、大丈夫……」

 とっさに籠を拾うべく、呉葉がベッドから下りようとしたしゅんかんだ。

 メイドさんはとつじょくるりときびすかえし、ドアの向こうに顔を突き出すと、あらん限りの声を張り上げた。

「おやかたさまぁ! たいへん、たいへんです! クレハおじょうさまが、目を覚まされました!!」

「えっ」

(ま、ま、待って、誰を呼んだの! 誰なのよお館様!?)

 急展開についていけない呉葉が、ぎょっと身をすくめた瞬間。

 先ほどとは比べ物にならない勢いで、ドタドタドタ、と別の誰かが廊下をけてくる音がひびいた。


「クぅレぇハぁ──!! 目が覚めたのか!?」


 次にノックもせず大声でさけびながら飛び込んできたのは、身長の高い、目をみはるような美青年だった。

 年齢はそこそこだろう。ていねいに整えられた銀色のたんぱつに、切れ長のアイスブルーのそうぼうと、スッと通った鼻筋が、知的でれいな印象をあたえる。

 金色ボタンやらかざりのついた、なんとなく西洋ファンタジーじみた白っぽいしょうを身に着け、右目だけ、──たしかモノクルとかいっただろうか──よくまんなどで見かける「どうやって装着しているんですか?」とたずねたくなる片方だけの眼鏡めがねがかけられている。

 いかにも「頭脳派です! そして、れいせいちんちゃくです!」といったステレオティピカルな外見のお方だが、今はやや血走った目にかたで息をし、およそ冷静とも沈着ともほどとおい様子で、おおまたにツカツカと歩み寄ってくる。

(え、っと、どちら様!)

 たじろいだ呉葉が思わず後ずさると同時に。

 目の前に立った謎の美青年はやおらうでを広げると、こちらをがばりときしめてきた。

(ぎゃ!?)

「クレハ! クレハクレハクレハクレハ!! ああ、大事な我が妹よ! よかった、本当によかった! 一命をめてくれて……!!」

 ビクつく呉葉の耳元で、ほぼノンブレスで青年は叫んだ。らしいはいかつりょうだ。

 状況が読めずに固まる呉葉をよそにぐいぐい腕をめつけていた彼だが、ちゅうで我に返ったらしく「すまない! 苦しかったな」とバッと身をはなす。

 あれこれ勢いと押しが強い人だ、と呉葉はいささか引き気味になりつつ、その顔をおずおずさいかくにんし。

「ヒッ」

 さらに引いた。

 美青年は、──目から鼻から、とうめいな液体をめどなくザバザバと流していた。

「うっ、うっ、……ぐればぁ……この兄は、本当に、……お前が死んだかと……思っ……うっ……ズズッ……ズビィッ……」

 なんだか高級そうな布地で作られた衣装のそでで、ごうかいおのれの目をこすっては男泣きしつつ、彼はふるえる声でそれだけ言うと、いよいよ本格的においおいとえつをあげ始めた。対する呉葉はほうれる。

(そもそもこの人は誰なの。……ん? 待ってよ。さっき、兄とか妹とか言ってた?)

 ということは、この前で派手にくずれる青年は。

「て、……テオバルト・メイベル……?」

 青い空間で少女に告げられた情報の名を呟くと、彼は泣くのをぴたりとめ、バッと顔を上げてこちらを見た。

「クレハ、すまなかった。ないこの兄を許してくれるか」

「え、あっ、はい……」

「いや、いっそ許さなくていいのだ。むしろ、えんりょなく言葉の限りののしっておくれ。あのおぞましいどくさつの手から、大切なお前を守りきれなかった最低な僕を。にんぎょうかたくるしく名をび、兄とはもう言ってくれぬのは、つまるところそういうことなのだろう」

 力なくうなだれて首をる青年は、クレハの兄テオバルトということで確定らしい。だが、その反応にあわてたのは呉葉だ。

「いやちがいますから! すみません、えっと、お兄ちゃん!」

「お兄ちゃん……? はて。お前らしくもない」

「じゃない、その、……アニキ!」

「アニキ!?」

ちがえました、兄上、いやお兄さま!」

「うむ。そうだ、お前のテオお兄さまだ。……いつもより顔色はいいように見えるが、まだ熱が下がったばかりで混乱しているのだろう。つくづく本当にすまなかった、クレハ」

 謝りつつ、ほっとしたように微笑ほほえむ『テオバルト』に、呉葉は内心あせを流した。

(いや、だから! ほんっと引き継ぎが足りないんだわ!!)

 彼の名前や立場が無事に判明したのはよかったが、呼び方なんて知るわけがない。

 しかしおかげで、いよいよあの少女に告げられた話が現実味をしてきた。あれらの情報は、やはり「ここ」では真実なのだ……。

(それじゃ、この人は『クレハ・メイベル』が私だと思い込んでるんだよね。中身は、全然別人なんだけど……)

 生き返ったと喜んでいるところきょうしゅくなのだが。今ここにいるのは、外見こそれんな彼の妹かもしれないが、その実態は二十九歳の脳筋派OLである。だんだん申し訳なくなってきて、「実は……」とクレハが告白のために口を開いた時だ。

 なみだにじむ青い目をなごませ、テオバルトはサラッとこんなことをのたまった。

「かえすがえす、よくぞ息をかえしてくれた。万が一にもお前が死んでしまったら、この僕も後を追っていたところだ。守るべきお前のいないこの世にれんなどないからな!」

「えっ」

 ぎょっとした勢いで、言おうとしていた真実はのどを逆流していった。

(あ、愛が重いねテオバルトお兄さん……!?)

 そういえばかつて呉葉も、思春期の弟が「姉ちゃんにたんばっかりかける僕なんて、死んだ方がマシだ」となげいた時に、「お前が死んだら私も死んでやるからな!」としかばしたことがあるが、あれは申し訳なかったなといまさらながらに反省した。さらにその直後、必死になって止める弟の前で、ぼうちょうで実際に腹をかっさばこうとしておおさわぎになり、どっちがどっちをたしなめているのやらわからないカオスな事案に発展したのだが、まあ今は昔の話だ。一刻も早く忘れ去りたい、わかっちゃっていたっちゃった黒歴史の一つである。

 ──うっかり話がいつだつしたものの、しかしテオバルトの気持ちは、同じく最愛の弟を持つ姉である呉葉には、痛いほどわかる。

(ご両親も他界してしまったらしいし。仲がいいきょうだいだって言ってたもんね……)

 ここにいるのは本物のクレハではないが、かといって、本物を呼び戻す手段がわかるわけでもない。自分が元の体に戻る方法すら不明なのだから。

(やっぱり、とても言えない……)

 結局、呉葉は告白の言葉をんでしまった。それで彼が万が一にも世をはかなんでしまったらと思うと、恐ろしかったのだ。代わりに、「どうしよう……」と頭をひねる。

(なんにしても、私が持っている情報が少なすぎる。そのまま『クレハ・メイベル』のふりをしても、絶対ボロが出る。かといって事実は言えないし……とすると……そうだ!)

 いちにんしょうは「私」じゃなくて「わたくし」で、何やらお嬢様言葉っぽい感じだったなと。一度会っただけの『クレハ』の口調を思い返してできるだけトレースしながら、呉葉は、行き当たりばったりにこんなシナリオを組み立ててみた。

「あの、えー……テオ、お兄さま……?」

「どうしたのだ、クレハ?」

「わたくし、……クレハ・メイベルで間違いございませんわよね?」

「……急にどうした?」

 おんだしに表情をけわしくするテオバルトを前に、呉葉は視線をさまよわせた。

「実は、……あー……自分の名前と、お兄さまの名前は覚えているのですが。わたくし、それ以外のことを、そのー、なんと申しますか……思い出せないのでございます……」

「なんだと!?」

 あんじょう、テオバルトはぎょっと目をみはった。

「思い出せない!? それは……イザークのことや、陛下のや、……僕たちの両親の名ですらか!?」

 イザーク、というまた新しい名前が出てきた。はて誰のことやら、という心のままに首をかしげる呉葉に、テオバルトはますますぜんとした反応を見せる。

「まさかとは思うが……国名もか……?」

「そうざます」

「ざます!?」

「間違えました。そうでございます」

 お嬢様言葉、ぼうスネちゃまのママとはまたちょっと別物らしい。難しいざます。

 本当は、エーメ王国だのメイベル公爵家だのというだんぺんは知っていたが、いっそ全部わからない設定にした方がいいだろうと思い、呉葉は同意した。

「なんということだ……!」

 頭をかかえて嘆くテオバルトに、呉葉はしょっぱくも後ろめたい気持ちになりつつ、「申し訳ございません」と謝った。本心からだった。はらげいうそも大の苦手なのだ。

「いや、……構わぬのだ。取り乱してすまなかったな。あの絶望的な状況から、お前の命が助かっただけでも十分すぎるほどなのだから……。記憶を失ってもたった十六年だ。また十六年かけて覚えればいい」

 しかし、これにはゆるく首を振り、テオバルトはやわらかく微笑んでくれた。

(いい人だなあ。そして、クレハ……ちゃんは大事にされてたんだね……)

 切ないような、申し訳ないような、ごこの悪いような。

 なんともいえないにがが口に広がりおもせる呉葉の表情を誤解したのか、「だからそう落ち込むな! わからないことはいくらでも僕が教えてやる!」とテオバルトはおうようってくれた。


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