#1―②



◇◆◇



 ――センパイ自身はからっぽじゃないですか。

 生クリームより見込みが甘い。

 いつ終わるとも知れない人生、自分が損してまで人に尽くすのは単なる馬鹿。

 二十九歳は崖っぷちで、それなのに貧乏クジ引きまくり……。

(ううーん。自分自身がどうか、かぁ……考えたこともなかったなあ)

 言われた時は、さほど気にならなかったものの。

 後輩にかけられた呪いのフルコースは、午後になっても頭の底にちん殿でんを続け、なかなか消えてくれなかった。

 ショックはショックだが、どちらかというと「好き勝手言いやがって腹立つわ」というより「マジで!?そういう見方もあったのか……!」というからうろこ系のおどろきが先行する。

(けど、弟のためとか、会社のためとか。誰かのためじゃ、……何かダメなんだっけ?)

 目の前に困った誰かがいたら助けようと思うし、逆に助けを求められて、自分にその力があったら躊躇ためらいなく手をべる。

 そうして生きてきたし、それで特に不便を感じたこともない。

 しかし、「自分自身には何も残っていない」と言われれば、まあそういうとらかたもできるのかな……となっとくしてしまうところも、あるにはあるのである。

 早くに両親を亡くした呉葉にとっては、ゆいいつの家族であるとしはなれた弟を守ることがすべてだった。ゆえに、一に弟、二に弟、三に家や道場の存続、生活のためには仕事とやりくり、そればかり考えて生きてきた。

(あまりに人生の構成要素が少ないというか……まあ客観的には、割とつまんない人生送ってるのかもしれない)

 外見もはなやかな同性の友人たちのように、海外旅行やら美容やらファッションやら、料理やら雑貨ハンドメイドやらの、しゃた趣味が特にあるわけでもなし。

 その上に二十九歳で彼氏の一人もできたことがないのは、まあ、……イレギュラーと言えばそうなのかも、しれない……?

 だからって。

(からっぽ、からっぽ……なあ……ううーん。……あー、やめよやめよ!)

 もんもんとなりかけたものの、数分もたないうちに、呉葉は悩みごとぶん投げた。

(ダサかろうが崖っぷちだろうが大いに結構、考えるだけ!自分の手元に何もないってんなら、これから作ればいいんじゃない。私は弟と仕事に尽くしてきたことにこうかいいっさいないし、それなら晴れて私の第二の人生リスタートだってもんよ! はいはい、いらんこと悩んでるひまあったら手ぇ動かそ!)

 かくしてだんどおりもうぜんと午後の仕事にはげみ、その日の呉葉がオフィスを出たのは、定時を少し過ぎた頃だった。

 かねてよりなかなかブラックめの勤務体系をいる会社ではあるが、弟の結婚式にかぶって休出など入れられてはたまったものではない。ゆえに、例のきもりプロジェクトを早々にやっつけてからは、できるだけ大きな仕事が入らないように調整させてもらっている。

 あとは、きたるべき週末に思いをせるばかり。なんとも待ち遠しい限りだ。

 それにしても。

(雨、まないなあ)

 運が悪いことに、天気予報によれば、ちょうどこの時刻には百ミリをすゲリラごうわれそうだとか。どうかんすいたてものとうかいの危険性などを、職場のきゅうけいしつでつけっぱなしのテレビが繰り返し伝えていた気がする。

 確かに、外はしゃりだ。慣れた通勤ルートの街路樹はしとどにれ、あまつぶが差したビニールがさやぶらんばかりにせいよくぶったたいてくる。あつい雨雲のせいで、日暮れ前

にもかかわらず街はうすぐらく、アスファルトの道路など、ちょっとした小川になっていた。

(ふふふ……いいよガンガン降っちゃって。今のうちに降り尽くして、週末の結婚式に晴れてくれさえすれば! けど、早く帰んなきゃ私でもひきかねないな、これは)

 あらしのごときこうてんを前に、あえて不敵に笑ってみたりなどする。これでもじょうさには自信があるので、そんじょそこらのきんやウイルスには負けない気はしている。が、自分はともかくよこなぐりの雨にかさの方をこわされそうで、「ひゃあ」と情けない声をあげながら、呉葉は帰路を急いでいた。

(明日は午前休もらえたから、いろとめそでちゃくにもう一回行かなくちゃいけないし。私のサイズに合うのがなくて、じゅばんやらぞうやらまで、全部まるっとお取り寄せになったからなあ)

 こんならばぜひ今しか着られないふりそでを! と担当のお姉さんに強くすすめられたが、ついつい年齢的におくれしてしまったのも心残りではある。グダグダと先の予定について考えごとをしているうちに、「そういえば」と呉葉はふと思いついた。

(この先は川があるんだった)

 そう大きなせんではないのだが。中ほどに古びたコンクリートの橋がかかっており、呉葉のお決まりの通勤ルートになっているのだ。危険だと、通常ならちゅうちょするところかもしれない。

(ちょっと行ってみてから、ダメそうなら引き返せばいいか)

 だが、呉葉は特段の迷いもなく通い慣れた方角に足を向けた。「多少のことなら、自分であればだいじょうでしょう」という、いささかのまんしんもあった。

 しかし。

 ――それが運命の分かれ道になった。

「うっわ……」

 目指す橋のそばに行くまでもなく。

 馴染んだはずの川を見下ろしながら、呉葉はぜんとしてくしていた。

 まさにだくりゅう

 そう表現するしかないくらい、いつもの川はすっかり表情を変えていた。どろみずいよだんを乗り越し、つつみの草をようしゃなくたおしている。

 ちょろちょろと流れる水があるかないかわからないレベルののどかなあの川は、どこに行ってしまったのだろう。がんけられた、はんらんけんすいまでじょうしょうしていることを知らせる黄色いランプが、「おい、ここで何やってる。早く離れろ」と警告するかのごとく、めいめつしながらクルクルと回転していた。

 例の橋を見れば、きょうきゃくどころか路面すらも、すでに茶色い水に洗われている。

 いくらなんでも、あれに近づく勇気はない。

「これは、あきらめた方が良さそうね……」

 つぶやいてしぶしぶきびすかえそうとした呉葉の耳に、ふと、――か細い声が届いた気がした。

「……れか……すけて……! ……!」

(え……?)

 思わず耳をませてみる。

 川の流れるごうごうという音にかき消され、他の人間ならのがしていたかもしれないささやかなものだが、呉葉の耳はしっかり捉えることができた。

(まさか、誰かがおぼれてる!?)

 あわてて呉葉は川辺にると、ぼうさくに手をついて、声が聞こえた方に向かって目をらす。

 声の主はすぐに見つかった。

 ――赤いランドセルを背負った小さな背が、今にも濁流にまれそうになりながら、護岸の草にかろうじてしがみついているのだ。

うそ……!?」

(子どもが流されそうになってる……!)

 見たところ、小学校の高学年くらいだろうか。小さな手で必死にがろうとしてい

るが、その、容赦なく泥水が押し寄せてくるのだ。

(警察……いやレスキュー隊……だめ、間に合わない!)

 そう思ったしゅんかんだ。

 小さな白い手が、パッと川べりを離れた。赤いランドセルが、茶色い水の中になすすべもなく放り込まれる。

 ――考える暇もなかった。

「くっ……!」

 呉葉は通勤バッグをその場に投げ捨てると、防護柵を乗り越えて、いのししのごとく土手を駆け下り、自らも濁流に身を投じた。

 たけくるう濁流を、水に腕を叩きつけるようにきながら、体勢を整える。集中力を最大限にまし、水に吞まれた小さな姿をさがす。

(あそこだ!)

 見つけた!

 ランドセルの赤が、かろうじて目に入る。ほんの五メートルほどだ。もう少し。さあ急げ、より速く――

(よっしゃ……届いた!)

 子どもの腕をつかみ、おのれの方に引き寄せにかかる。

 ここまできたら、あとはこんじょうで岸まで泳ぎ切るだけ、と。

 呉葉がそうあんしかけた時だ。

「――ッぶな……!」

 前方に、た巨大なかんがあるのを見つけ、呉葉は息を吞んだ。

(流れが速すぎる。このままでは、この子が先にぶつかる!)

 そんなことになったら、子どものやわらかい体なんて、とてもじゃないが――『呉葉。力というものはな、自分ではない誰かを助けるためにあるのだ』

 不意に。

 亡くなった父に聞かされた言葉が、耳の奥によみがえる。

 最悪の事態を想定するより先に、反射で呉葉の体は動いていた。

 こんしんの力をしぼって子どもをせ、自分と体をえるように、土管に向かって背を向ける。そしてそのまま、己の身をたてにした。

「……!」

 バキバキと、すさまじい音としょうげきが、背骨から脳天に突き抜ける。

(あ、これせきついやったわ)

 頭のどこかで冷静に判断しつつ、気合だけで子どもをかかえたまま、土管を摑む。

 激流にえながら横に横にとジリジリ移動を繰り返し、どうにか岸にたどり着くと、力の限りその子を上に押し上げた。

「ゲホ、ゴホッ……」

 自らの手足でコンクリートの護岸を這い上がりつつ、子どもが激しくんで水をいたのをかくにんする。

 誰かが気づいて呼んでくれたらしい、救急車の音が聞こえてきた。

(よかった、……助けられた……)

 安心したたんきんちょうのおかげで忘れていられた激痛が、全身におそいかかってきた。

 護岸のコンクリートブロックを摑む手から、力が抜ける。

(あ、やば)

 ざぶん、となすすべもなく再び濁流に放り込まれる。

 せんたくそうの中でかき回されるよごもののごとく、絶え間なく全身をまれながら。それでも呉葉はもがき、必死に助かるすべを探した。

はなばなしい第二の人生を前に、こんな川ごときに負けてたまるかっての。ゴボボボボ……あ、やっぱダメそう)

 まずもって脊椎が折れている。多分真っ二つ系のやられ方だ。

 他にもいろいろ重大な損傷があるらしく、よくよく知った自分の体だけに、状態はいやおうでも察せられた。

(もう死ぬわこれ、……いい人生だったな、いや、……いい人生だったか?)

 ――センパイ自身はからっぽじゃないですか。

 今日いた呪いの台詞が脳内でリフレインした。ちくしょう後輩田中め。さいにいらん雑念を植えつけおってからに。

 目を開けてもいられない。泥水の中で呼吸すらままならないまま、もう痛みも感じなくなった。

(いや諦めるわけには……週末……優希の……結婚式……)

 あれだけは、出なくてはいけないのに。

 かなえられそうにない。

 ――もう、死ぬ。

 きょうねん二十九で確定らしい。

(田中くん、正しかったわ……確かに、人生なんていつ終わるかわかんないね……)

 ついでに今この事態が、彼の言っていた『鳴鐘呉葉に彼女を寝取られた被害者の会』のメンバーたちがかけたじゅけつじつだとすると、覚えとれよお前ら、全員もれなくまくらに化けて出てやるからな。なんて、……ま、……やらないけど……。

(ちょうどよかったかもしれない、優希を立派に世に送り出すという使命は果たせた)

 いはない。

 そう思った瞬間、ふっと体から力が抜け、重たかった手足が軽くなる。すでにまぶたに視界は閉ざされていたが、思考までもやみりつぶされていくのがわかった。

 ああ、いよいよ「される」のだ―― と。

 呉葉がばくぜんさとった、瞬間だった。


『ここで諦めて死ぬくらいなら、そのきたかれた身体に宿るきょうじんたましい、このわたくしにくださいませ!』


 がいの中に直接ひびわたるように。

 すずころがすような美しい声がして、――ぐいっと手首を摑まれる。

(な、なに……!?)

 急に意識をもどされ、呉葉は目を開けてみた。

 不思議なことに。

 上下左右もわからなくなるような土色の濁流に吞まれたはずなのに、なぜか呉葉は、いつの間にかきちんと自分の両足で立っていた。

 さらにみょうなのは、今いるこの場所だ。

 ほうは青い。

 けれど、単なる青一色ではなく。上はうすむらさきいろの夜明けのようだが、足元は宝石をくだいて散らしたような星空。ゆからしきものはない。ないのに、なぜか自分は立っている。

 いて似ているものを探すとすれば、プラネタリウムだろうか。けれど、あの人工の空間にはてんじょうや座席があるが、今いるのはどこまでも果てのない青景色だ。世界の絶景特集か何かにあった、鏡にたとえられる有名なきょだいえんの映像を、ふと思い出した。

 ここは、……どこだろう。

(あ、ひょっとして死後の世界……? まあ、そうだよね。そっかそっか、私、死んだんだわ)

 せめて仕事は片付けてきてよかった。でも。

(いや、死んだらダメじゃないの。だって週末には、かんじんかなめの優希の結婚式が……噓でしょ……)

 今すぐ生き返ることができるなら生き返りたい。が、そんなことは難しいのだと、ばくぜんと理解してもいる。

 ただひたすら心が現実に追いつけずにぼうぜんとしていると、――不意に。

 先ほど手を摑まれたのと同じ勢いで、がっと力強くりょうほおはさまれ、無理やり視線を下に振り向けられた。

「いっ!?」

 無茶なほうこうてんかんを強いられたうなじが、ごきんと嫌な音を立てる。さっき脊椎やったところだけど、死んだあとにけいついプラスしたらどうなるんだろうと、ぼくな疑問がよぎった。

 果たして。

 呉葉の目に飛び込んできたのは、――まるで光のしんとでもいうべき少女だった。

 長く伸ばされくるくるとうずく、せんさいあめざいにも似た、あわい色味の黄金のかみ。春のぼうほころぶスミレで染め付けたような、澄んだアメジストのひとみ。血が通っていると思えない

ほど白い、磁器のはだ

 そして、呉葉のデコピンどころか鼻息だけで折れそうにきゃしゃ身体からだと、人形のように小作りでれんな顔立ち。真っ白いリネンのワンピースが、こんなに似合う人間を見たことがない。

(わ、すっごくれいな子……! 海外のモデルさんかな……?)

 いかにもせいで弱々しくはかなげな、ザ・女子といったたたずまいの少女に、思わず呉葉はれてしまう。

 いやがんぷくだ。唯一難点があるとすれば、やなぎの葉のように細く優しげな形のまゆが、今はキュッとおこったようにがっていること。それと、予告なく見知らぬ他人である呉葉の顔を摑んで、ちからわざで視線を合わせてきたごういんさくらいだろうか。

(いやいやそういうのは問題じゃなくて……)

 あなたは誰?

 ここはどこ?

「あの……」

 そういう基本的な質問をぶつけようと呉葉が口を開いたとたん、上から被せるように、「お聞きになって」と少女はピシャリと宣言し、深く息を吸い込んだ。

 おききになって。

 そのことづかいを、でなさる人間を初めて見た。

(お、おじょうさま……なの、かな?)

 不意を突かれた呉葉は、つい絶句する。

 が、少女はこちらのこんわくなどしんしゃくしてくれる様子はなかった。一息になが台詞ぜりふが追いかけてくる。

「あまりくわしくお話しできる時間がありませんの。今からわたくしが申し上げることをよく聞いてくださいませ。わたくしの名前はクレハ・メイベル。たいりくくっの領土をほこるエーメ王国において、かつて王族のぼうりゅうであり、前おうこうにして現王陛下もはいしゅつしている名門貴族メイベルこうしゃくの長女。両親は他界したけれど、仲のいい大切な兄が一人。その兄の名前はテオバルト・メイベル」

「え、あ、はあ……。えーめ、おうこく?」

 どこだろう。

 エーで始まるからにはエーゲ海のあたりだろうか。えー、聞いたことがない地名だ。あと、王国とかイギリスとブータン王国以外にまだあるのか。世界広いな。そのへん無知ですみません。

(うん? それにしてもこの子の名前、クレハって。私と同じなんだ? あと、ご両親が亡くなってるなんて……って、それは私もか。ぐう多いなあ)

 立て板に水なしょうかいあっとうされつつも、己との共通点を見つけてコクコクうなずく呉葉に、少女はなおも続けた。

「年齢は、まもなく成人の十六を迎える十五歳。でも、誕生日を目前にして、わたくしの命の火はきました。元々、成人できまいとに宣告されるほど病弱でしたが、――毒を盛られたのですわ」

「……え!?」

 あまりにおんな言葉に耳を疑う。

 しかし、絶句する呉葉にとんちゃくせず、『クレハ』と名乗る美少女は、一方的に言い放った。

くちしいですけれど、わたくし自身はもうこの世を去るほかございません。されど、この手が届いたのも何かの縁。だからこれからは、どうかあなたに、わたくしの代わりに生きていただきたいのです。わたくしの身体を使って。新しい、クレハ・メイベルとして」

「え、……ええ!?ちょ、……っと待ってくれるかな!?」

 それは一体どういう意味だ――と。

 呉葉が尋ねるべく慌てた瞬間。

「ああ、もうこれっきり……。あとはお願いいたしますわね。――ごめんあそばせ!」

 そう言うなり、少女は思い切り呉葉をはなす。

 先ほど首の向きを変えられた時同様、あんな折れそうなほそうでのどこからそんな力が出るのだろうという勢いだった。

 あっという間になすすべもなくばされ、はずみのついた『呉葉』は、クルクルときりもみ回転しながら宙にがる。

(さっきも川に吞み込まれた時にせんたくに回される衣類の気持ちがわかったけど、……またなのー!?)

 次から、干すのをおうちゃくして洗いからかんそうまでセットモードにするのはやめよう。だっすいが終わってもまだ回転させられるなんて、洗濯物も気の毒だったのだなぁ――と、げんじつとうに訳のわからないことを考えているうちに。

 全身がさぶられ、もみちゃくちゃに脳がシェイクされ、目の前が白くなったかと思えば、さらに吸い出されるようなかんかくがあって。

 ――ストン、と。

 ひどくとうとつに、どこかに着地した。



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