#1―②
◇◆◇
――センパイ自身はからっぽじゃないですか。
生クリームより見込みが甘い。
いつ終わるとも知れない人生、自分が損してまで人に尽くすのは単なる馬鹿。
二十九歳は崖っぷちで、それなのに貧乏クジ引きまくり……。
(ううーん。自分自身がどうか、かぁ……考えたこともなかったなあ)
言われた時は、さほど気にならなかったものの。
後輩にかけられた呪いのフルコースは、午後になっても頭の底に
ショックはショックだが、どちらかというと「好き勝手言いやがって腹立つわ」というより「マジで!?そういう見方もあったのか……!」という
(けど、弟のためとか、会社のためとか。誰かのためじゃ、……何かダメなんだっけ?)
目の前に困った誰かがいたら助けようと思うし、逆に助けを求められて、自分にその力があったら
そうして生きてきたし、それで特に不便を感じたこともない。
しかし、「自分自身には何も残っていない」と言われれば、まあそういう
早くに両親を亡くした呉葉にとっては、
(あまりに人生の構成要素が少ないというか……まあ客観的には、割とつまんない人生送ってるのかもしれない)
外見も
その上に二十九歳で彼氏の一人もできたことがないのは、まあ、……イレギュラーと言えばそうなのかも、しれない……?
だからって。
(からっぽ、からっぽ……なあ……ううーん。……あー、やめよやめよ!)
(ダサかろうが崖っぷちだろうが大いに結構、考えるだけ
かくして
かねてよりなかなかブラックめの勤務体系を
あとは、
それにしても。
(雨、
運が悪いことに、天気予報によれば、ちょうどこの時刻には百ミリを
確かに、外は
にもかかわらず街は
(ふふふ……いいよガンガン降っちゃって。今のうちに降り尽くして、週末の結婚式に晴れてくれさえすれば! けど、早く帰んなきゃ私でも
(明日は午前休もらえたから、
(この先は川があるんだった)
そう大きな
(ちょっと行ってみてから、ダメそうなら引き返せばいいか)
だが、呉葉は特段の迷いもなく通い慣れた方角に足を向けた。「多少のことなら、自分であれば
しかし。
――それが運命の分かれ道になった。
「うっわ……」
目指す橋のそばに行くまでもなく。
馴染んだはずの川を見下ろしながら、呉葉は
まさに
そう表現するしかないくらい、いつもの川はすっかり表情を変えていた。
ちょろちょろと流れる水があるかないかわからないレベルののどかなあの川は、どこに行ってしまったのだろう。
例の橋を見れば、
いくらなんでも、あれに近づく勇気はない。
「これは、
「……れか……すけて……! ……!」
(え……?)
思わず耳を
川の流れる
(まさか、誰かが
声の主はすぐに見つかった。
――赤いランドセルを背負った小さな背が、今にも濁流に
「
(子どもが流されそうになってる……!)
見たところ、小学校の高学年くらいだろうか。小さな手で必死に
るが、その
(警察……いやレスキュー隊……だめ、間に合わない!)
そう思った
小さな白い手が、パッと川べりを離れた。赤いランドセルが、茶色い水の中になすすべもなく放り込まれる。
――考える暇もなかった。
「くっ……!」
呉葉は通勤バッグをその場に投げ捨てると、防護柵を乗り越えて、
(あそこだ!)
見つけた!
ランドセルの赤が、かろうじて目に入る。ほんの五メートルほどだ。もう少し。さあ急げ、より速く――
(よっしゃ……届いた!)
子どもの腕を
ここまできたら、あとは
呉葉がそう
「――ッぶな……!」
前方に、
(流れが速すぎる。このままでは、この子が先にぶつかる!)
そんなことになったら、子どもの
不意に。
亡くなった父に聞かされた言葉が、耳の奥に
最悪の事態を想定するより先に、反射で呉葉の体は動いていた。
「……!」
バキバキと、
(あ、これ
頭のどこかで冷静に判断しつつ、気合だけで子どもを
激流に
「ゲホ、ゴホッ……」
自らの手足でコンクリートの護岸を這い上がりつつ、子どもが激しく
誰かが気づいて呼んでくれたらしい、救急車の音が聞こえてきた。
(よかった、……助けられた……)
安心した
護岸のコンクリートブロックを摑む手から、力が抜ける。
(あ、やば)
ざぶん、となすすべもなく再び濁流に放り込まれる。
(
まずもって脊椎が折れている。多分真っ二つ系のやられ方だ。
他にもいろいろ重大な損傷があるらしく、よくよく知った自分の体だけに、状態は
(もう死ぬわこれ、……いい人生だったな、いや、……いい人生だったか?)
――センパイ自身はからっぽじゃないですか。
今日
目を開けてもいられない。泥水の中で呼吸すらままならないまま、もう痛みも感じなくなった。
(いや諦めるわけには……週末……優希の……結婚式……)
あれだけは、出なくてはいけないのに。
――もう、死ぬ。
(田中くん、正しかったわ……確かに、人生なんていつ終わるかわかんないね……)
ついでに今この事態が、彼の言っていた『鳴鐘呉葉に彼女を寝取られた被害者の会』のメンバーたちがかけた
(ちょうどよかったかもしれない、優希を立派に世に送り出すという使命は果たせた)
そう思った瞬間、ふっと体から力が抜け、重たかった手足が軽くなる。すでに
ああ、いよいよ「
呉葉が
『ここで諦めて死ぬくらいなら、その
(な、なに……!?)
急に意識を
不思議なことに。
上下左右もわからなくなるような土色の濁流に吞まれたはずなのに、なぜか呉葉は、いつの間にかきちんと自分の両足で立っていた。
さらに
けれど、単なる青一色ではなく。上は
ここは、……どこだろう。
(あ、ひょっとして死後の世界……? まあ、そうだよね。そっかそっか、私、死んだんだわ)
せめて仕事は片付けてきてよかった。でも。
(いや、死んだらダメじゃないの。だって週末には、
今すぐ生き返ることができるなら生き返りたい。が、そんなことは難しいのだと、
ただひたすら心が現実に追いつけずに
先ほど手を摑まれたのと同じ勢いで、がっと力強く
「いっ!?」
無茶な
果たして。
呉葉の目に飛び込んできたのは、――まるで光の
長く伸ばされくるくると
ほど白い、磁器の
そして、呉葉のデコピンどころか鼻息だけで折れそうに
(わ、すっごく
いかにも
いや
(いやいやそういうのは問題じゃなくて……)
あなたは誰?
ここはどこ?
「あの……」
そういう基本的な質問をぶつけようと呉葉が口を開いたとたん、上から被せるように、「お聞きになって」と少女はピシャリと宣言し、深く息を吸い込んだ。
おききになって。
その
(お、お
不意を突かれた呉葉は、つい絶句する。
が、少女はこちらの
「あまり
「え、あ、はあ……。えーめ、おうこく?」
どこだろう。
エーで始まるからにはエーゲ海のあたりだろうか。えー、聞いたことがない地名だ。あと、王国とかイギリスとブータン王国以外にまだあるのか。世界広いな。そのへん無知ですみません。
(うん? それにしてもこの子の名前、クレハって。私と同じなんだ? あと、ご両親が亡くなってるなんて……って、それは私もか。
立て板に水な
「年齢は、まもなく成人の十六を迎える十五歳。でも、誕生日を目前にして、わたくしの命の火は
「……え!?」
あまりに
しかし、絶句する呉葉に
「
「え、……ええ!?ちょ、……っと待ってくれるかな!?」
それは一体どういう意味だ――と。
呉葉が尋ねるべく慌てた瞬間。
「ああ、もうこれっきり……。あとはお願いいたしますわね。――ごめんあそばせ!」
そう言うなり、少女は思い切り呉葉を
先ほど首の向きを変えられた時同様、あんな折れそうな
あっという間になすすべもなく
(さっきも川に吞み込まれた時に
次から、干すのを
全身が
――ストン、と。
ひどく
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