夜月の記憶
『このyoruって奴、昔つぶやいたーでトレス疑惑出て逃げた奴じゃね?』
そのコメントは一瞬のうちに流れていって、ほとんどの視聴者の気にも留まらなかったと思う。それでもそのコメントは、私の心を真っ白にするには十分なものだった。
『ごめん、一瞬配信をミュートにしてもらってもいいかな。自分の部屋にいるね』とだけ、お兄ちゃんにメッセージを送る。そのまま私は覚束ない足取りで部屋に戻ると、半年と少し前の記憶を辿り始めた。
名前を『月兎』、フォロー212、フォロワー5000人と少し。夜月が当時イラストを投稿していたつぶやいたーのアカウントだ。買ってもらったペンタブで描いた絵を毎週のようにあげていたことを思い出す。
絵を投稿するごとに、いいねやフォロワーが増えていくのは純粋に楽しかったし、もっといい絵を描こう、というモチベーションでもあった。でも、今思えば、それを気に入らない人というのが世の中にはいた、ということだった。
私が『√』をお兄ちゃんと始めるまで、絵を描かなかった、描けなかったのは、あの日から起こったことがきっかけだ。
ある日つぶやいたーを開くと、1人のフォロワーからダイレクトメッセージが届いていた。何だろう、と開くと、そこには思いも寄らないことが書かれていた。
『今、月兎さんがトレスしてるんじゃないかってつぶやきが出回ってます』というメッセージと、そのつぶやきのURLだった。
血の気が引いていく感覚は、今でも思い出せる。もちろん身に覚えなんてなかったけれど、一度その疑惑を出されたイラストレーターがどうなっていくか、既に知っていたから。
うそ、なんで、とそのつぶやきに飛ぶと、そこには私の絵ともう一枚の絵が貼られてあった。
『この月兎ってイラストレーターさんの絵、朝はぜ先生の絵と似すぎてない…?』
朝はぜ先生はイラストを描いている人で知らない人はほとんどいない、というくらいのイラストレーターだ。
構図は確かに似ていた。でも、線画は一致しないし、トレスなんてしていない。その絵を見たのは正真正銘今日が初めてだ。私はそう反論した。
でも、一度着いた火は、簡単に消えるものじゃない。特に、イラストや小説、いわゆる「創作垢」と呼ばれるアカウントを持つ人たちはひどく「パクリ」に敏感だ。たとえそれが、疑惑でしか無かったとしても。
朝はぜ先生はしばらくした後、「事の真偽はよく分からないけど、改めてトレスはやめてくれると嬉しい」というつぶやきをしたのみだった。その頃には『月兎』のDMや質問箱は誹謗中傷で溢れかえっていて、ただの中学生が対処できる事態ではなくなっていたのだ。
何度も何度も、トレスなんてしていない、と繰り返し説明した。すると今度は、「トレスじゃなくても参考にしてんだろ、いい加減に認めろよ」と来るのだ。
そしてそれを執拗に送ってきていたのは、トレス疑惑を出したつぶやき主のファンの人たちだった。つぶやき主のフォロワーは2万人を超えていて、そしてそれに比例して誹謗中傷の数も大量なものになっていた。
お互いに確たる証拠がないから、堂々巡りを繰り返す。そしてこういう場合、心が折れてしまうのは疑惑が出された方だ、というのが圧倒的に多い。たとえ無実であっても、毎日のように誹謗中傷に晒されていれば心は折れる。私はそのうちの1人になってしまった、ということだった。
逃げることが負けを認めるようなものだ、と言われるだろうことは分かっていた。でも私はもう、悪意と敵意を持った言葉を向けられることに耐えられなかったのだ。
そうして、私はつぶやいたーのアカウントを消して、絵を描かなくなった。
いつも投稿前に感想をくれていたお兄ちゃんにも、しばらく絵を描かなくなった理由を説明できなかった。ようやく理由を話した時、お兄ちゃんが絞り出した声で、
「…相談してよ。お兄ちゃんだろ、僕」
と言われて、2人で泣いて、半年と少しが経って、今。
私はスマホを手に取ると、お兄ちゃんへメッセージを打ち込み始めた。
『ごめんね、お兄ちゃん。せっかく一緒に『√』でやってくれてたのに、ごめん。また絵、描けなくなっちゃったかも。本当にごめん』
あぁ、嫌だな、涙が溢れて止まらない。お兄ちゃんと、tamaと一緒なら、今度こそどこまでも行けると思っていたのに。送信ボタンを押してしまったら、そしたら、『√』は終わってしまう。私が終わらせてしまう。
でも、描けない。またあのナイフのような言葉に晒されてなお、絵を描くなんて、私には到底出来ない。
震える手で、送信ボタンを押そうとした、その時だった。
ふあり、と、後ろから暖かい腕が回される。
「……相談してよ、って、あの時言ったじゃんか」
お兄ちゃんの声は、微かに掠れて、それでもその中は暖かさで満たされていた。
「夜月がさ、誘ってくれたじゃんか。……また、絵を描いてくれたじゃんか。すっごい嬉しかったんだぜ、お兄ちゃんは。……動画できあがって、沢山の人に見てもらって、思ったんだよ。夜月となら、どこまでだって行けるんだ。行こうと思う、どこへでも」
「だからさ、……きついかもしんないけどさ、しんどいかもしんないけどさ。……今度は僕も一緒だよ。一緒に戦ってくれないかな」
微かに笑いを含んだ声で、続けて言う。
「今さ、『長めのトイレ』って言ってまだ配信終わってないんだ。……だからさ、今から『夜明けと蛍』歌うんだよ。……聞いててほしいな、ここで」
お兄ちゃんはそう言うと、ミュートを解除して、話し始めた。
「お待たせ、そろそろ夜も遅いし、最後歌って終わろう。……じゃあ、『夜明けと蛍』」
甘くて痛いイントロのギターが流れた時、もう私は泣きそうだった。暖かくて、透き通った声がお兄ちゃんの喉から流れ出す。ああ、そうか、お兄ちゃんの声は美しいとか綺麗とか、それよりずっと先に暖かいんだ。
ずっと続いていてほしいのに、曲は進んでいく。最後のギターと声が重なって、夜の空に溶けていった。
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作者より
さて、読んでくださった皆様は今話をどんな風に思われたでしょうか。……そうですね、この話だいぶ長かったですかね(汗)。作者的には、この話は書いていてひたすら心が重くなりました。ちなみに、こういう誹謗中傷はそこら中にあるものの一つです。何か皆様の心に残せたなら、作者冥利に尽きる次第です。
次話からは少しスカッとする、というか、気持ちのいい話になるかもしれません。
それでは、またお付き合いくださいませ。
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