ExtraⅡ:第6話


 1988年、6月。


 今村由香の、地上波で二度目のテレビ出演。

 そして、ラストランの狼煙を上げる日。

 

 リハーサルはもう、済んでいる。

 一曲目は『だいじなのは』。

 もう一曲目は、『愛は』と見せかけて、新曲。

 路線転換に打って出る秘策を、表に出すタイミングと割り切る。

 

 にしても、ランスルーを二回もするとは思わなかった。

 さすが伝統ある音楽番組。国営放送並みだ。

 スタッフの中で、秘策新曲を聴いちゃった人がもういるわけだよなぁ。


 おかげでみどりちゃんは緊張しなくなったようだけど。

 最初は、一緒にコーラスに入ってくれる黒人歌手を見ただけで

 びくついてたみたいだから。


 まぁ、わかるけど。

 震えるように巧いもんね。声量もテクニックも段違い。

 R&Bでアメリカに行けるなんて思うってのは井の中の蛙もいいところだ。


 にしても、あのクオリティの人達を、

 一回限りの収録のためだけにテレビ局が呼べてしまう、恐るべきバブルマネー。

 俺の生きてる時代に分けて欲しかったよ。

 

 FMラジオから、寺崎謙次郎の、

 ため息が出るほど緻密に作りこまれたコーラスが

 鮮やかなブラスワークと共に、隠れ家を甘く彩っている。


 ……ほんと、では売れちゃってるなぁ、この人。

 史実だと、そろそろ歌うように話す人達も出てくると思うけど、

 この調子だと、ひょっとしたら火がついちゃうかもしれないなぁ…。

 あの人達こそちゃんとしたアレンジャーをくっつけたい。まぁ無縁だろうけど。


 「おまたせ、智也君っ。」

 

 着替え終わった怜那が、上機嫌で俺を見あげる。

 勿論、衣装ではない。テレビ局に出かけるためだけの、ラフなワンピース。

 満ち足りた笑顔を浮かべながら、

 寺崎謙次郎のコーラスパートを、バカラ・ボイスの鼻歌で歌っている怜那。

 怜那のほうがもっと上手くハモれている。なんて贅沢な日常だろう。


 「ん? なぁに?」

 

 怜那が笑っているだけで、無限の色彩が広がっていく。

 ささやかな、安らぎに満ちた空間。

 絶対に、喪うわけにはいかない光景。

 

 いま、やる必要もないのかもしれない。

 もっと形式ばって、セレモニアルにやるほうが、思い出に残るのかもしれない。

 

 でも。

 


 (「怜那を、幸せにするのよ。」)

 


 なぜか。

 、と思えた。

 

 「怜那。」

 

 さらっと。

 ほんとうに、さらっと。

 

 「え? 

  こ………。」

 

 仮住まいの区役所に、出すものじゃぁないんだけど。

 



  「なにがあっても、絶対に、怜那の傍を離れない。

   サイン、してくれる?」

 



 「な、………

  ……

  ……っ。」

 

 怜那は、泣きそうな顔になり、

 手を、身体を、ぶるりと震わせた。


 そして。

 

 「……うん。

  うん。

 

  …………うんっ!!」

  

 涙を振り払いながらの、はちきれんばかりの笑顔は、

 作り上げた化粧を崩すのに十分すぎた。

 

 1988年、6月。

 テレビ出演の当日の朝。


 と怜那は、

 婚姻届の左右に、入れた。


*


 ミュージック・スフィア。

 大手製薬会社一社提供の、歴史と伝統ある音楽番組。

 

 だいたいの撮影時間と撮影の流れは、マジック書きの資料で見ている。

 怜那が、どんな爆弾をぶちかますかも、分かっている。

 

 出待ち、か。

 本来、俺って、こっち側なんだけれども、

 ちょっとだけ、もどかしい。

 

 関係者と呼べないのは分かってるつもりだけど、

 やっぱり向こうのモニターで、リアルタイムで見たかったなぁ。

 まぁ、カメラワーク考えると、編集後のほうが綺麗に分かるんだろうけど。

 

 っていうか、出待ち、だいっぶん多いなぁ……。

 男女比でいうと、四対六で女性が多い感じ。

 あ、あの人、東京でのFMラジオの公開収録にも来てたなぁ……。

 きっとディープなファンだ。声をかけたくなるけど、控えないと。

 

 「あれ、古河君?」

 

 ん、楮さん?

 なんでこんな出口側に。

 

 「なんで中、入んないの?

  由香ちゃんの記念すべき出演なのに。

  楽屋で待ってればいいじゃない。」

 

 なんて空気を読まない人なんだ。

 一瞬でめちゃくちゃざわついたじゃないか。

 

 「……今日はちょっと。

  待ち合わせている人がいるんです。」

 

 そう。

 今日、ここで逢うことを、約束したのだ。

 俺の決意を告げるために。そして、今後のために。

 

 「ふーん。」

 

 関心ねぇなぁ。

 振っておいてなんだよ。

 

 「じゃ、俺も、こっちにいるわ。」

 

 は?

 いや、お仕事は?

 

 「俺の仕事、君のご案内だもん。」

 

 そんなわけないでしょ。

 そもそも、楮さんって石澤氏の部下ですよね?

 

 「部長、今日、大阪へ出張だもん。」

 

 んな……。

 「だもん」で済ませちゃっていいんですか……。

 

 「あー、君さぁ、こないだも来てたよね?」

 

 ぇ。

 ヤッパリ君が素人さんに声、かけてる。

 

 「あっ!

  はいっ。」

 

 うわ。今村由香の女性ファンって感じ。帽子が完璧にリセエンヌ。

 にしても急になにしてるのヤッパリ君。

 

 しかも、なんか寄ってって耳打ちしてる。

 俺の時代の基準だと絶対にセクハラ扱いされるだろうな。

 

 ……うわ。

 なんか、リセエンヌの頬が、めちゃめちゃ赤らんでる。

 

 「……ファン食いしてるって、石澤さんに言いましょうか。」

 

 「失礼だなぁ。そんなことしてないよ。

  ね?」

 

 コクコクコク。

 俺を見ながら、もの凄い速さで頷いてる。

 

 「ははは。

  ま、出待ちが多いっていうのは、ありがたいよね。」

 

 ……そういえば、他の演者の方の出待ちは?

 

 「ん?

  今日、こっちは、由香ちゃんだけだよ。」

 

 は?

 そんなことあるの?

 

 「あれ、君、そこは聞いてなかったんだ。」

 

 え、誰かから説明されたっけ。

 文字通り、聞いてないけど。

 

 「ま、いいけどさ。

  と共演する、っていうのは、

  他の演者にとってはメリットないでしょ?

  どうしても比べられっちゃうから。

  『だいじなのは』の時に脛に傷持ってる人もいるしさ。」


 あぁ……。

 楮さんみたいな人から、そう聞かされると、凄く納得してしまう。


 の今村由香は、全盛期の頃には、

 ジョイントセッションのイベントによく呼ばれていたし、

 学園祭などで共演するアーティストも男女問わず多かった。

 今にして思えば、あれは、だったのかもしれない。


 勿論、アイドル的な可憐さや、

 ゼロ距離コミュニケーションに惹かれることはあったろうが、

 相手方にだったことは確かだろう。


 今世は、まったく違う。

 ……俺は、怜那に、孤高を強いてしまっているのかもしれない。

 

 「まぁ、明日菜さんが一緒に出て、

  フルコーラスで3曲やってくれるから、

  それで絵持ちはするみたいなんだけど。」

 

 あ、そうなんだ。それは有難いなぁ。

 あれ、じゃあ、明日菜さんのファンは?

 

 「明日菜さんは別収録。

  フェスティバルホール。大阪。」

 

 ……うっわぁ。そういや、スポンサーの本社、そっちだっけ。

 なんていうか、そういうこと、か……。

 

 「明日菜さんは一緒に出たかったみたいだけどさ、

  各方面側に配慮があったって感じらしいよ?」


 あぁ……。 

 芸能界に嫌われてるなぁ、今村由香……。

 ドブ浚いや夜伽を駆使してのし上がろうとしている連中からみれば、

 潰したい欲望しか湧かないんだろうなぁ。


 今村由香が、このタイプの孤独に陥ることを、考えたことはなかった。

 北米進出に向かったアーティストやディレクターは、

 きっと、こういう心境だったんだろうな。

 

 まぁ、こっちからすると、辞めるつもりなんだからちょうどいいんだけど。

 基本、30年後の版権収入しか考えてないし、

 北米は日本の一流アーティストの墓場だから。


 っていうか、楮さん、ほんと、ペラッペラなんだから。

 素人さんがこんなにいるのに、あっけらかんと一杯話してて…。

 あっちの男性なんて、耳、めっちゃこっち向けてきてるんだけど。

 まぁ、俺もホントはそっち側なんだけど、不安になるわ、いろいろ。


 ぁ。

 

 い、た。

 あの不審者そのものの姿は。

 

 どうしよう。

 いま、ここで、話すべきか。

 

 「あ、そろそろ来るよー。」

 

 ん?

 

 え。

 怜那? 早くない?

 

 ……うーわっ。

 

 ちゃんと着替えてからでいいのに、

 あのぴっちりな、レオタードを彷彿とさせるステージ衣装のまま、

 みどりちゃん達と一緒にスタジオの外へ出てきてる。

 

 周囲から、男女問わず、ため息が漏れていた。

 なんてったって、スタイル、めちゃめちゃいいから。

 異様に整った身体のラインがしっかり出てるから。


 なんていうか、来〇瞳をリアルにしてピッチピチにしたような感じになってる。

 若干胸はちっちゃめなんだけど、鍛えてるから、形はめちゃくちゃいい。

 ……って、何言ってるんだ、俺は。

 

 事務所の人達やテレビ局側の警備員が人垣を捌いている。

 軍事訓練されている宝塚ほどではないけれど、

 今村由香のファンは元々お行儀が良いほうなので、絶叫や暴動は起こらない。

 ただ、怜那に歓声をあげて、力強く手を振るだけだ。

 

 怜那は、笑顔で手を振り返しながら、キョロ、キョロと見渡してる。

 おそらく、俺を探している。

 

 どうしよう。

 

 出待ちは、悪手だったかもしれない。

 もう少し、出てくるのが遅いと思っていた。

 怜那が着替える時間や挨拶廻りを省くとは思わなかった。

 

 まぁ、これを

 引き合わせるチャンスとみ……

 

 

  っ!?

 

 

 「!

  ふ、古河君っ!!!」

  

 気づいたら、身体が、動いていた。

 

 不審な人影が、警備員から見えない角度から、

 怜那に、突進していっている。

 

 恐怖よりも、激情が先に立った。

 鼓動が脈打つ音が、足音と合わさって、鼓膜を激しく振動させる。


 どくん、

 どくん、

 どくんっ

 

 !



 人を掻き分けた先に、

 腕を振り上げた人影を、捉えた。

 

 飛べっ


 怜那が、人影を


 飛べぇぇぇぇぇぇっ!!

 

 

  「怜那ぁぁぁっ!!」

  

 

 「!」

 

  がこんっ!

 

 暴漢の背中に、当て身の一撃が、確かに入った。

 のけ反った暴漢を、捕まえるべきだった。

 でも、

 


  「怜那っ!!!」

 

 

 怜那の確保を、優先した。

 

 「……と、ともや、……くん……っ」


 精霊が現前したような神秘的な怜那の四肢に、

 眼を、奪われているうちに。

 


  ぎゃっ!

 


 耳元で、怜那が、ひゅっと舌を巻く音がした。

 

 鈍い音とともに、地響きが鳴り響いた。

 耳を劈く、絹を切り裂いたような叫び声が四方から上がる。

 

 暴徒が、視界の外へ、音もなく駆け去っていく。

 鴉の背中ががくりと落ち、スローモーションのように、膝から崩れ落ちた時、

 意識が、、覚醒した。

 

  

  「プロデューサーと楮さん、を車にっ!

   みどりちゃん、救急車っ!!

   茶谷君、会社に電話っ!」


 

 「あ、ああっ!」

 「わ、わかりましたっ!」

 

 みんなが、一斉に走り去っていく。

 魂の抜けた怜那を、楮さんが引き寄せて、駐車場側に連れ去っていく。

 

 声を掛ける暇も、なかった。

 怜那を励ましたい、怜那を抱きしめたい、怜那の震える身体を支えたい。


 でも。

 

 「……無茶を、しましたね。

  あぁ、絶対に喋らないで下さい。」

 

 どの程度の傷かは、まだ、分からない。

 ただ、血が、どく、どくと、流れ、

 アスファルトに滲みを作っていく。

 

 「名誉の負傷、ですね。

  だ。」

 

 として、怜那を、守った傷だから。

 

 「……へ、へ……っ。」


 って。

 

 「……塔子、さん?」

 

 怜那のほうに、行くべき人が。

 

 「プロデューサーがついてますから。

  現場保存をしないと。」

 

 現場保存、って…。

 

 「犯人は確保しました。

  警察への連絡、手配済です。」

 

 ぶっ!!

 っていうか、すっかり忘れてた。

 最初にやるべきは、まずだったわ。

 うわぁ、なんていうか、ほんと抜けてるな、俺って。

 

 「ファンの皆さんが、退路を塞いでくれましたから。」

 

 あぁ……。

 さすが今村由香のファン。マニアというか、もはや信者。

 ……考えるまでもなく、これって、大事件だよね。

 

 んでもって、応急措置もさらっとできちゃう塔子さん。

 ……ほんと、貴方って、何者なの?

 

 「救急車、呼びましたっ!」

 

 あぁ。

 みどりちゃんも、この衣装だったかぁ……。

 身体の線がはっきり見えるから、怜那に比べると、やっぱりちんちくり


 「……智也先輩、いま、失礼なこと考えませんでした?」

 

 「いいや、ちっとも。」

 

 …はは。ははは。

 なんか、いろいろ、わらけてくる。

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