Interlude:第4話


 森明日菜。

 1980年代を代表する国民的大スター。

 

 アイドルとして十分すぎるルックスと、磨き抜かれたファッションセンス、

 アイドル離れした歌唱力、見るものを引きずり込んで釘付けにしてしまう表現力、

 「実力派アイドル」という言語矛盾を成し遂げてしまった奇跡の女性。

 

 動画ごし、ブラウン管ごしにしか見たことがなかった、

 文字通りの雲の上の人が。


 いま。

 玄関で、俺の、目の前にいる。

 

 …ただし、とても地味な姿で。

 

 フードつきの黒のダサパーカー。丸眼鏡とボサボサの頭。

 化粧を全て取った姿だから、

 動画で見ていた時よりも、目が、すこし小さく見える。

 

 「……どう、して?」

 

 「ちゃんに聞いたの。」

 

 怜那。

 怜那は、本名で、明日菜さんと話していたのか。


 ……寒っ。

 

 「……上がられますか?」


 寒さで、意識が戻った。

 ほんと一瞬、呆然としちゃったよ。

 

 「うん。」

 

 10代で100億円以上を稼ぎあげ、

 1000億円級の版権を作り上げる人が、たった一人で。

 ごく、自然体で、飾り気のない言葉で。

 

 「つけられてないよ。

  撒いてもらったから。」


 あはは。先回りされたなぁ。

 ちゃんとやってるんだ、ファンシールドの皆さんは。


 「怜那ちゃんに悪いもの。」


 確かに。

 バレてしまうと、また引っ越さなければならなくなる。

 

 ……うわぁ。

 あの森明日菜様が、ホントに部屋にあがってきちゃったよ。

 

 「思ったより、小さなお部屋ね。」

 

 うっわぁ。

 ほんと、思ったことを正直に言うなぁ。


 「二人なら、これで十分です。

  それに、このあたりは地価が高いですから。」


 だから。

 山手線の南側、事務所から15分だから。

 自腹なら絶対に住まないわこんなトコ。


 「そう。」

 

 お金廻りの話には、

 資産運用ができる管財人をつけなければ破産するのは当然だ。


 にしても、カーペット上のちゃぶ台脇に座る森明日菜って、どうなんだろうな。

 仮住まいとはいえ、やっぱり買い替えておくべきだったか。

 ……って、こんなシチュエーション予想できるかっ。

 

 「ありがとう、いい歌ね。」

 

 あぁ。

 

 「どういたしまして。」


 あれは、怜那案件なんだけどね。

 明日菜さんの選曲会議は激戦だから、通らないことも当然ありえたけど。

 

 「『gare』はね、怜那ちゃんが歌ったほうが良かったの。

  あの頃だと、シングルにはならなかったから。」


 あはは。

 地頭いいっていうか、嗅覚が鋭いっていうか。

 なんてったって天下人だもんな。

 

 ……ん。

 ……え、きゅ、急に、パーカーを、捲りはじめ……

 あ、あぁ。

 

 「……これ、返すね。」

 

 やっ、ぱり。

 怜那は、打ち出したを、渡していた。

 なんて危なっかしいことを。

 

 「だいじょうぶ。

  だれにも、なにも、見せてない。

  でも、?」


 「何を、ですか?」


 明日菜さんは、硬質の紙束の入った事務所名の封筒を、

 人差し指の先で、とん、とん、と叩いた。

 たったそれだけの音なのに、うねるようなリズムが入っている。


 「。」

 

 ふふ。

 ほんと、直球で聞いて来るな。

 

 「僕は、貴方のファンですから。」


 「……君も、嘘をつくの?」

 

 あはは。

 ほんと、嘘が嫌いだったよな、この人。


 「嘘ではありません。

  貴方の、大ファンですよ、森明日菜さん。

  桜木聖さんのような可憐な曲を歌いたかったのに、

  大人が投影した小昏い世界を十全以上に表現できてしまう、

  真面目で、努力家で、完璧主義で、貴方の。」


 デビューわずか一年足らずで高音域が潰れたことも大きいが。

 あれは本当に天使の声だったのに。まったくもって他山の石だ。

  

 「……。」


 化粧を外しているのに、黒のダサパーカーの丸眼鏡なのに、

 じっと唇を噛んでいるだけで、不思議と絵になってしまう。


 さて、と。

 まぁ、こうするしかないか。

 

 「大岳文庫、というところがあるのは、ご存じですか?」

 

 「……ううん、知らない。」

 

 知らない、か。

 まぁ知らないな、ふつうは。

 

 「過去の雑誌類をカード式で収蔵している、

  雑誌の図書館のようなところです。

  貴方について書いてある記事は、すべて収集できます。」

 

 ネット上の記事検索のほうがずっと早いんだけどね。

 この時代はまだ、これが最先端だから。

 

 「集めた雑誌類に出ていた話のうち、

  辻褄が合わないものを捨てて、つなぎ合わせていったものから、

  何が起こり得るかを想定しただけです。」

 

 「嘘」だけどね。

 それだけで、正確にたどり着けるわけはないし、

 まして、行く末など分かるわけはない。

 ただ。

 

 「ご自身で、お調べになられますか?」

 

 多くの嘘や憶測に交じって、断片は、確かに、書いてある。

 明日菜さんに都合の悪い「真実」が。

 

 「ううん。

  ……じゃあ、君は、の仲間?」

 

 芸能記者、大っ嫌いだもんな明日菜さん。

 まぁ、無理もないけど。

 

 「僕は貴方のファンです。

  ただ、それ以上に、佐和田怜那のファンです。」


 「……?」

 

 「言いましょう。

  貴方、というよりは、あの当時の貴方サイドを警戒していたんです。」

 

 『gare』をめぐる一連の騒動の時に。

 明日菜さんサイドが、怜那に嫌がらせをしてくることは十分に考えられた。

 結局、杞憂に終わったが。

 

 「僕は、怜那のになり得る存在を、

  できる限り正確に知っておこうと思っただけです。

  貴方のファンでしたから、ある意味では楽しいお仕事でしたが。」

 

 「……そう。」

 

 「はい。」

 

 言い切った。


 明日菜さんは、睨みつけるような鋭い視線で俺を見据えてくる。

 俺は、ただ、心を無にして受け止める。

 どうしようもない。これしか、説明のしようがない。


 俺の全身を拘束していた不可視の鎖が、外れた。

 明日菜さんは、手狭な天井を見上げながら、ふっ、とため息をついた。

 

 「……うらやましいな、怜那ちゃん。」

 

 ダサパーカーなのに、丸眼鏡の、ボサボサの髪のはずなのに、

 かきあげる指が、仕草が、無性に美しい。

 なぜか、ちょっとだけ、ヨネさんを思い出した。

 

 「貴方を愛したい男性は星の数ほどいますよ。」

 

 某著名脚本家が依怙贔屓をしたのは有名な話だし、

 30年後でも、動画のコメント上で

 「結婚しようww」みたいなことを書いてるオッサンは腐るほどいた。

 半分以上本気な厄介なのも含めて。

 

 「そんなのっ」


 感情の爆発が、室内を覆いつくさんばかりに広がった。

 刹那。


 「……ううん。

  ………きっと、そうなんだろう、ね。」

 

 阿修羅の如き激情を瞼に封じた明日菜さんは、静かに、声を継いだ。

 少し壊れたちゃぶ台の上の、間に合わせの湯飲みが、ふらっと揺れた。

 沈黙の帳が、部屋の空気を枯らしはじめた頃。

 

 「……でも、君も、ちがうんでしょ?」

 

 「はい。

  僕は、怜那で手いっぱいです。」

 

 「……だよ、ね。

  好きになれる人は、先約がいる。」

 

 、か。

 相手がいたことを、うすうす知っていたということなのか。

 いつものように幕が開き……って縁起でもない。


 耳にまとわりつくような、重い溜息が響いた。


 次の瞬間、明日菜さんの華奢な指が、丸眼鏡のフレームに伸びた。

 地味な、安手の丸眼鏡が、整った鼻先から緩い放物線を描きながら、

 コトリ、と、ちゃぶ台に降りた。

 


 「…ねぇ、智也君。」

 


 

 潤んだ瞳の森明日菜さんに、名前を、呼ばれた。


 遮蔽していた薄い膜が粉々に砕け散り、

 の圧倒的な重みとうねりに飲み込まれてしまいそうになる。

 「俺」の存在が、かろうじて平衡感覚を保っている。

 

 「……わたし、やってける……かな?」

 

 「はい。」

 

 それは、もう。


 例の事件はなくなったし、少なくともあと2年間は表舞台が残されている。

 その後どうなるかは分からないが、後期桜木聖みたいな形は普通にありえる。

 ごく普通に大御所ディナーショールートを歩む世界線も考えられるだろう。

 

 「……だれの、ために?」


 家族のために、歌にすべてを賭けた。

 彼のために、自分のすべてを捧げた。

 本当に、情熱の人だ。


 家族は今やバラバラになり、彼氏はATMとしか見ていなかった。

 それでも。


 「日本中にファンがいます。

  怜那も。同期の方々も。ついてこられたレーベルの方々も。

  貴方を支えてきたすべての人達も。

  そしてなにより、貴方自身が、ここに、います。」


 ……ほんと、そうなんだよな。


 「明日菜さん。

  貴方が生きていて、本当に良かった。」


 史実通りなら、死んでいるか、

 スタッフを身ぐるみはがされて、入院費と家族の借金を背負わされ、

 公衆の面前で屠殺されるだけだから。


 「貴方は、歌に選ばれてしまった方です。

  歌は、そう簡単に離してはくれないと思いますよ。」


 歌っていない時の彼女は、抜け殻のようだったから。


 「……あは、は。

  でも、君の名前は、ないんだ。」


 「僕は、怜那で手いっぱいです。」

 

 同じ答えをしてしまった。

 眉毛にも返したやつだし、芸がないな。


 「……じゃあ。

  友達では、いてくれる?」


 悪戯気味に縋るような視線。

 ほんの一瞬だけ、迷った。


 「光栄です。

  でも、テレビ電話には、呼ばないで下さいね?」


 「……ふふ、ふふふ、あははは。

  どーしよーかなぁ?」


 忘れてた。わりと悪ふざけが好きな人だった。

 コント出演も喜んでやってたタイプだし。

 ……その笑顔、ほんと、やめてください。

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