第31話



 真っ暗な、歪み。

 あらゆる認識を拒む、漆黒と表現することすら生ぬるい、「無」。

 俺は、これを、どこかで感じたことがある。


 そして。


 (…やぁ。)


 おお。

 やっぱり、お前か。


 古河智也。


 (…あはは。何年ぶりかな?

  七年ぶり、くらいかな?

  すまないね、もう、時の感覚も、朧気でね…)


 お前が呼んだんだろう? こんなところに。

 話してもらうぞ。なにもかも。


 (ふふ。

  そうだね……。)

 

 あぁ、この話し方は、お前だったのか。

 

 (結論から言うね。

  今村由香の、晩年の結婚相手は、僕なんだ。)

 

 !?

 な、なんだと……っ!?

 

 (そう。君達に罵倒された、

  怜那を騙して結婚し、怜那から吸い取れるものを吸い取って殺した

  極悪非道な「あんな男」だよ。)

 

 ぁっぅぐっ!!??

 

 (ふふ。ありがとう。

  予想通りのリアクションだ。)


 お、お前ぇっっ……!!

 

 (あぁ、ごめんね。君の性格が移っただけだ。

  もともと、こんなことを言う感じじゃなかったんだけど

  どうもすっかり、言動まで君に浸透されてしまっているらしい。)

 

 ……。

 

 (いいかな?

  僕はね? そうだね……その前から話すよ。

  まず、僕にとって、怜那とは、初婚ではない。再婚なんだ。)

 

 ……。

 

 (君が気づいた通り、僕は、野球部なんかにいてね?

  小、中、高と、野球漬けの半生だったよ。

  で、まぁ、履歴書に書ける程度の中途半端な成績を残したけど、

  プロなんかにゃとてもなれない。

  それで、進学をして、就職をして、独立をして、

  まぁ、ひとしなみには身を立てて、ごく普通に結婚もしたつもりだった。

  けれど、離婚して……、はっきりいえば、寝取られてね?)

 

 をぉふ……。

 

 (ふふ……、僕のことはいいんだ。僕も不器用だったから、仕方が無いんだ。

  それで、まぁ、君の嫌いなうちの母がね、

  世間体が悪かったみたいで、僕のことを悪し様に言ってきたよ。

  『佐和田さんとこの怜那ちゃんと同じ半端者だ』、って。)

  

 !?

 

 (正直ね、その時まで、怜那のことを知りもしなかったんだよ。

  同じ中学で、同じクラスだったって知って驚いた。

  なにしろ部活に専念していたからね。

  クラスの女子のことを、覚えてはいないんだ。)

 

 ……。

 

 (寝取られたけど、甲斐性がなかったとは思わないでくれ。

  一応、体面を保つに困らない程度のお金はあった。

  

  彼女も、苦労してるんだな、って思った。

  ただ、それだけの理由で、勝手に親しみを感じた。逢ってみたいって思った。

  興信所に頼んで、なんとか見つけたよ。

  ただ、今から思えば、その時にはもう、手遅れだったんだ。


  僕が怜那にしたことは、君達が想像してるのと、だいぶん違う。

  僕は、はっきりいって、生活費を入れてただけの男だよ。)

 

 ……じゃあ、なんであんなに悪し様に言われたんだ?


 (怜那が、自殺したから、だよ。


  君たちが、僕に関心を持ったのも、それがきっかけだろう?

  出来事が悪ければ、悪いところばかりが見られるからね。

  取引先が最悪のタイミングでやらかしてくれたこともあってね、

  随分とあることないこと、悪く言ってくれたと思うけど。


  まぁ、今は、それはいいんだ。)


 ……。

 

 (君たちは、監禁だのDVだのなんだのと言ってくれたけれど、

  正直言うけど、生活に支障を来たさせたつもりはない。

  でも、あのときの彼女は、もう、だったんだ。

  どんどんと、狂っていった。僕の、目の前で、目も当てられないくらいにね。)


 ……後だった、ってこと、か。


 (……そうだ。

  僕が見つけた時には、お母様も、お亡くなりだったしね。)


 !


 (もちろん、精神科医や、専門家にも協力を仰いださ。

  医者をいくつ替えたか、向精神薬を、漢方を、民間療法を、

  嘘くさいと分かっているセラピーもどきを、どれだけ試したことか。

  でも、すべて、無駄だった。

  そもそも、僕を信用していない怜那に、僕が、何をできる?)


 ……。


 (お金があってもね、人は、助けられない。

  あの時、怜那の瞳には、僕も、いや、誰も映っていなかったと思う。

  怜那は、ただただ、寂しかった。

  そして、怜那の寂しさを、僕は、癒やしてやれなかった。


  僕が、安易な気持ちで怜那に近づいたことは間違いは無い。それは認めよう。

  でも、僕なりに、怜那に近づこう、理解しようと手は尽くした。

  足らないんだと言われるかもしれないが、それだけは誤解しないで欲しい。

  でも、野球だけしていた僕に、妻に逃げられるような男に、

  怜那の精神は、なにも、分からなかった。


  そして、怜那は、逝った。

  僕の部屋で、僕の目の前で。)


 ……。

 

 (落ち込んだよ……、砂を噛み続けるような無力感しかなかった。

  自分を支えていた足場が全て崩壊したような感覚だった。

  そして、気づいてしまった。自分の人生は、まったく、無意味だったって。

  どんなに物理的に豊かでも、気持ちを通い合わせられない限り、

  人は、人の傍にはいられないんだってね。)


 ……。


 (やりなおしたら。

  すべてをやりなおせたら。


  でも、やりなおせたとしても、何ができるだろう?

  僕は、怜那のことを、何も知らなかった。

  怜那の感性を、怜那の心を、怜那の望みを、何も知らなかった。


  どうしてやればよかったのか、いや、どうすればよかったのか。)

  

 ……。


 (僕が不適任だとすれば、じゃあ、あの時の怜那を、

  「誰が」救ってやれたんだ? 誰が怜那に手を差し伸べたんだ?

  あの時、誰が怜那の感性を分かち合うことができたんだ?


  怜那を捨ててこんな風にしたテレビ局やミュージシャン達なんかじゃない、

  御託を並べて責任だけはきっちり回避した役所や医者連中なんかじゃない、

  まして、あの爺じゃない、あの母じゃない、

  あの忌まわしい弟じゃ絶対にありえない。家の連中なんかじゃありえない。

  もちろん、詐称を理由に、怜那を罵り、蔑んだ、君たちみたいな奴らもね。


  時系列的には、あの時、怜那の前には、僕しか、いなかった。

  それなのに。そのはずなのに。)

 

 ……。

 

 (気がついたら、僕の命脈は、尽きていた。

  たぶん、餓死じゃないかな? って思ってるけど、

  どうなのかな? もう、分からない。

  

  そうしたら、奇跡が起こった。)


 ……。

 

 (中学生に戻った。怜那と、同じ中学に入っていた。

  信じられなかった。信じられるわけないよね?

  嘘だと思ったけれど、どうも、まったく「本当」らしい。

  夢でも嘘でも幻でも半分眠った世界でもなんでもいいと思った。

  もう一度、はじめから、すべてをやり直すチャンスを得たと。

  

  そうしたら、「君」も、「僕」に気づいた。)

  

 ……ん?


 (分からない? 分からないか。

  君は、僕が、からね。)

 

 ……どういうことだ?

 

 (君は、混乱してた。

  どうしてここにいるんだ、ここはどこだ、俺は「誰だ」? って。


  今だから言うけれど、僕が、君を「呼んだ」ところもあると思う。

  怜那の音楽活動や、その価値について、僕はまったく分からなかった。

  怜那が何を愉しむか、怜那が何を喜ぶか、怜那が何に感動するのか。

  ボールだけを追っていた僕に、分かるはずもなかった。

  だから、君の存在は、僕にとって、天佑だった。)


 ……。


 (ただ、君は、ほんとうに混乱していた。まぁ、混乱するよね。

  僕と違って、君は、僕ほどには絶望していなかったわけだし。

  君の混乱は凄まじくて、あっという間に僕の存在を脅かすまでになった。

  正直、君のほうが、この身体を統制したいという意識はずっと強かった。

  それはそうだね。僕は、もう現世から切れかかっていたんだから。

  僕の意識は混濁し、僕は、僕を、維持できなくなりつつあった。

 

  このままでは、僕は、怜那を助けられない。

  なんのために、僕はここに戻ったというのか。運命はもう、動かせないのか。


  だから、僕は、必死に抵抗した。

  そして、君の存在を、君の「名前」を奪った。)


 ……!!

 そ、そ……。

 

 (そんなことができるのかって? そうだね。

  でも、現に、君は、君の名前を思い出せない。そうだろう?)


 あ、あぁ……。

 

 (僕の中に、いくつか仮説はある。たぶん、君も納得してくれるようなやつもね。

  ただね、それはもう、君にとっても、僕にとっても、あまり意味がないと思う。

  再現ができるわけでも、君に名前を戻してやることもできないからね。

  僕は、あの時に、力の大半を失ったと思うから。)

 

 ……そう、か。

 

 (僕もね、必死だった。

  なんとか、君の混乱を制御して、僕の意識と生活慣習へ繋げた時には、

  肝心の、僕の意識自体は、だいぶん希薄になってしまった。

  だから、わかっていたはずの、怜那の父上の死を、防ぐことができなかった。

  それが、僕の意識にとって、致命傷になったんだ。)


 ……それで、怜那の父親が死んだあたりから、

 「俺」の記憶が妙にはっきりしてくるわけだ。

   

 (そうだね。こうして君の意識に安定的に繋げるのは、もう最後じゃないかな。

  君の意識が、僕に近接してくるまでは、

  僕は、ほとんど存在してないも同然だったからね。)


 でもお前、ずっと、怜那に話しかけてたろう?

 

 (……ん?)

 

 俺が怜那に話しかけている口調は、明らかに、お前のものだ。

 怜那に話しかけてる時の言葉も、俺が考えたものと、明らかに替わってる。

 

 (あぁ、それはね……)

 

 最初、ファンとして、気恥ずかしくて口調が変わるんだとばかり思ってた。

 でも、怜那以外に話してる時、俺は、一人称を除けば、

 ほとんど、社畜としての、外面の「俺」の、口調で話してる。


 (君、仕事でご婦人にあんな話し方をしてたんだ……)

 

 煩いな。そういう役回りだったんだよ。察しろ。

 ほぼ、怜那の時だけなんだよ。あんなあまったるい口調になるのは。

 つまり、怜那に話しかけていたのは、お前しかいないんだよ。古河智也。

 

 (そう、か……

  そうかも、知れないね。)

 

 姿形が消えても、精神を現世に留め得ないほど存在が薄れていても、

 「怜那を愛しく想う気持ち」「怜那を助けたい気持ち」だけは残っていた。

 言うなれば浮遊霊的ストーカー。そういうことだろうな。


 ひょっとすると、コイツの存在こそが、

 バタフライ・エフェクトの起点だったんじゃないか?

 そうだとすると、大ヒットロリコンがあの高校にいったことと

 時系列的には合うな。

 

 (ほんとにひどいことを考えてるね、君って。)


 あぁ。わかるのか。

 じゃあ、せっかくだから、答え合わせをさせて欲しい。

 

 (どうぞ。)

 

 お前、野球部のゲスどもの性質を知ってただろう。


 (ああ。

  あいつらは、初犯じゃなかったからね。)


 なんてこった。だからすぐに動けたわけか。

 えらい早かったもんな。いろいろ助かった。


 (どういたしまして。)


 …野球部なぁ。

 モテると思ってたが、そうでもないのか。


 (全然だよ。坊主頭で、ただただ朝も夕方も夜も練習してただけだ。

  絶対に許せないけど、あいつらの立場は0.0001ピコグラムくらい理解はできる。

  絶対に許せないけど。絶対に。絶っっっ対に。

  君が校長に宮刑にしろ、あいつらのタマを取れって言った時は

  まったくもってその通りだと思ったよ。)


 わかったわかったわかった。

 俺もいまだにそう思ってるから安心しろ。気が合うな同志よ。


 で、だ。

 怜那の爺様ってのは、どういう奴なんだ?


 (あぁ……あの人か……。

  じつは僕も、人となりを詳しくは知らない。

  僕が怜那の面倒を見ていた時には、もう、亡くなっていたからね。

  ただ、気性が激しい人だったみたいなのは確かだよ。)


 じゃあ、聞き方を変えるわ。

 中3の時、俺が怜那から貰った、あの絵葉書はわかるな?


 (あぁ。うん。)


 あれは、どういう意味だ? 


 (あれはね、君が悪いんだよ。)


 …は?

 

 (君が、怜那を賢くしたろう?

  だから、急に、婿養子を取れ、っていう話になったんだよ。)


 っ!?


 (元々の怜那は、こう言ってはなんだけど、

  音楽の才能こそ突出していたけれど、それだけの、ごく普通の娘だった。

  それが、受験勉強のためにと君が色々と教えたことで、

  本家の跡取りよりも、優秀に見えるようになっちゃったんだよ。

  それで、あの爺に目をつけられたのさ。)


 ……そ、そんなことが……


 (見た目も違ったしね。怜那は中学では地味目な子だったのを、

  花開かせちゃったのは君だし。)


 ……あ……あれも、あれは……っ。


 (たぶん、君、いろいろ気づいてないだろうなぁと思ってたけど、

  僕から見れば、いろいろ好都合だったしね。

  あそこで怜那が立ち直ってくれなかったらと思うとぞっとする。

  怜那が美容に目覚めたのも、君の「予定」通りなのかは分からないけど。)


 ! ……お前、まさか……野球部の……っ


 (ああ、それはない。正直、あれは僕も後手に廻ったよ。

  怜那がね、あそこまで変わるとは思わなかったんだ。


  で、話を戻すよ。

  今の怜那は、客観的に見て、才媛になった。すっかり才色兼備だよ。

  君のでね?)


 ……それは、つまり……。


 (そういうこと。

  あの爺は、生きている限り、怜那を己の野望に使おうとするはずさ。

  気をつけてね? 君、向こうの本家の跡取りから、すっごい恨まれてる。

  まぁ、あとはお母様に聞いたほうが早いと思うよ。苦労してるから。)


 た、他人事だなぁ、お前……。


 (他人事だもの、この件はね。)


 わ、わかった。考えとく。

 じゃぁ、最後に、もう一つだけ。

 お前、「俺」からわざと親を遠ざけたな?

 

 (あぁ。

  怜那をあんな風にした責任の一端はあいつらだし、

  何より、君のことがバレたら大変だったからね。

  

  もともと、仮面夫婦だった。世間体だけに縛られてた。

  だから、君の時代の常識を囁けば、そんなに難しくはなかったんだよ。

  家を売るタイミングは、単純に、『君が高校を卒業した時』さ。

  世間体の良い、あいつら好みのトリガーだろう?)

 

 なるほど。よくできた時限爆弾か。

 お主も悪のよぉ。


 (あはは……、君って、本当に楽しい奴だね。

  できれば、違う形で、違う人生で逢いたかった。

  

  君には、本当に申し訳ないことをした。

  僕は、君の存在を、君の独立性を、君の生存基盤を奪ってしまった。)


 お前は何を言ってるんだ?


 (……?)


 ひとの生き方として、

 『推し』を傍で愛でて生きられるほど、幸せなことがあるのか?

 

 (………。)


 俺は、前世で、今村由香を、人前で好きだと言えなかった。

 恥ずかしいと冷笑してしまった。好きなものを、好きだと言えなかった。

 お前の力が、深すぎる絶望があったから、俺はいられるんだよ、古河智也。

 

 (………。)


 あの曲を好きだった俺が、あの熱唱に魂を揺さぶられた俺が残ってる。

 あの動画を、DVDを貪るように見続けた俺が残ってる。

 俺の人生、他に、何がいるってんだ?


 (………。)

 

 お前は、律儀で、生真面目で、どうしようもなく不器用な奴だよ。

 そんな状況になったら、普通、

 怜那を捨てて他の女に移ったって、誰も何も言わないだろうに、

 最後の最後まで、怜那に寄り添って、怜那を看取ってくれた。

 そのせいで、悪し様に言われても、こんな状態でたった一人になっても、

 いや、、お前は、ただ、怜那のことだけを考えてる。


 だから。

 古河智也。

 俺が、お前を受け止めてやるよ。


 (………。)


 お前の人生も、お前の後悔も、お前の絶望も、

 お前の無念も、お前の執念も、すべて受け止めてやる。


 だから、安心しろ。

 が、怜那を幸せにするんだ。


 (………。)


 俺たちは、情けない、どうしようもない哀れな馬鹿野郎共だ。

 俺もお前も、ミュージシャンに寝取られることを怯え続ける運命なんだよ。

 だから、一緒にやることで、やっと大切な人を守れる可能性ができるんだよ。

 違うか?



 (………ふふ。

  そうだね。

  ほんとうに、そうだ。)





*





 あ。


 「……と、ともやくんっ!!!」


 ど、どこ、どこだ?

 知らない、天井だ…

 

 え?

 は?

 あれ? スタジオにいたんじゃ……

 びょ、病院?

 

 「……呆れた、元気そうじゃないの。」

 

 お、奥様……。

 いや、そんな顔されましてもですね、

 

 「一週間。」

 

 い、いっしゅうかん!?

 

 「目が覚めなかったのよ、貴方。

  もう、信じられる? 

  ほんと、どうにかしてくれないかしら?」


 は、はぁ……。

 

 「……事情は後で聞かせて貰います。

  今日のところは、怜那と仲良くなさい。」

 

 は、へ、え、ど、どうも……

 ……

 

 「と、ともやくん……

  ともやくん、ともやくん、

  ともやくんともやくん、ともやくん、ともやくん……!!

  よ

  よ、よが、

  よがぅぁあぅぇおぁぁぁ……」

 

 ……


 ありがとう、怜那。

 ありがとう、古河智也。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る