第10話

 

 「…留学?」

 「はい。」


 これが最後の切り札である。渡米歴を本物にしてしまうのだ。

 この際、治安さえ良ければどこでもいい。

 一応、現時点で語学留学ができる程度の英語力はマスターさせている。

 史実のようなことにはならないはずだ。

 

 「それが、怜那のためになると?」

 「ええ。」

 「貴方、本気で言ってる?」

 「もちろんです。」

 

 ヨネさんは暫く、呆れたような顔で俺を見ている。

 解せぬ。


 「……まぁ、私にも、責任がまったくないわけではないけれど……。

  ほんとに、誰が誰に似たのやら……。」


 なんのこっちゃ。

 

 「わかりました。」

 

 分かってくれましたか。

 

 「怜那に、オーディションとやらを、受けさせましょう。」

 

 はぁっ!?


 「貴方って、時々、随分と迂遠なことを考えるのね……。

  歳を取らせなくても、アイドルにしない手は、いろいろとあるでしょ?」


 し、しかし……。

 

 「落ちれば、それでも良いわ。

  受かったとしても、製作期間とやらが長ければ、それで良いわけでしょ。

  古河君の目的は、怜那を、大学に入れることよね?」

 

 お、仰る通りですとも。

 それにしても、え、えらくお詳しくなられましたね……。

 

 「貴方の先輩と称する輩が、いろいろ話していったから。

  まったく、いい迷惑なのよ? 

  まぁ、怜那が元気そうだから、良いけれど。」


 はぁ。しかし……

 

 「貴方、怜那と、離れたいの?」

 

 え?


 「……まさか、一緒に留学するつもりなの?」


 え、俺? なんで?

 まずい、何も考えてなかった。

 俺のライフコースに留学の二文字はまったくない。

 と、いうことは……。

 

 「……貴方って、鋭いのか抜けてるのか、時々、分からなくなるわ……。」

 

*


 かくして。

 

 1985年、1月。

 第1回、ティーンズアーティストコンテスト。

 期せずして、今村由香が受けたものと同じ、

 大手外資系レコード会社主催の初回大会。


 史実では審査員特別賞だった佐和田怜那は、あっさりとグランプリを受賞する。

 史実より二年以上も早く、芸能界デビューが内定した瞬間である。


 これにより、佐和田怜那は、レコード会社関連事務所預かりの身になった。

 業界の仁義上は、他の事務所からは手が出せなくなる。


 と同時に、喜び勇んでマンションへと乗り込んだ

 レコード会社の海千山千の筈の社員達は、

 上品な外見と、おっとりとした話口調とは裏腹に、予想を遥かに超えて固く、

 理路整然たるヨネさんの契約態度にすっかり意気消沈させられたのである。

 

 「一年は、何もさせないわ。」

 

 ふんすふんす、と鼻音が出そうである。

 九州の名家を敵に廻すと実に恐ろしい。


 ヨネさんの統制通りならば、

 今村由香(という名前になるかは分かりようがないが)のデビューは、

 1986年、つまり、浪人しない限りは、大学一年生ということになる。


 契約によって縛られたのは、レコード会社と所属事務所のほうである。

 俺が彼らの立場ならば、絶対に、

 みたいな、寂しい男どもの前に突き出したいだろうから。


 佐和田怜那、旧府立高校二年生。

 花も恥じらう17歳。


 少し長めの睫毛、好奇心旺盛にキラキラと輝く悪戯猫のような瞳、

 妖艶さとあどけなさを併せ持つ魔性の唇、

 異様に整ったスタイルと、その象徴たる、見事としか形容しようのない脚線美。

 そして、何の脈絡もなく、性別を問わず発動される

 ボディタッチつき距離感ゼロ攻撃。


 今や学内外で絶大な支持を誇ってしまっている彼女は、

 今日も俺の席の隣で、無防備なまでにキラキラと輝く笑顔を浮かべている。

 中高の六年のうち、四年間もクラスが一緒になる、というのは、

 何らかの作為を感じざるにはいられない。

 

 ともあれ、彼女の『アーティスト』デビュー

 (『』を強調しておく)は確定路線となり、今や指呼の先となった。

 俺としては、この宙ぶらりんの状況をできる限り上手に利用していくしかない。

 

 まず、なにを持ってしても、

 将来の禍根、学歴詐称の件は、消しておかなければならない。

 一応、学内で上位2割程度には食い込んでいるわけだから、

 それなりの大学に通える程度の学力は備えている。

 上位1割まで持っていければ、詐称なく史実の大学名に押し込めるのではないか。


 と同時に、今のうちに、彼女の音楽性の幅を広げて置く必要もある。

 彼女が創作の源泉としていたフュージョンは、アメリカでは、1980年代後半には既に下火になってしまっており、90年代には、メジャーレーベルでは、メセニーなどのごく一部の例外だけが残っているのみとなる。


 ハードロック・ヘヴィメタル旋風が終わった後の英米圏は、21世紀に至るまでヒップホップが主流となる。90年代のメインストリームといえども、TLCのように、その洗礼を受けたものの影響が大きくなる。もちろん、ヒップホップに手を染める今村由香は想像ができないが、その流れに親しんでおく必要くらいはあるだろう。

 

 それよりも。主に日本国内で売っていく以上、

 国内だけに巻き起こる旋風を強く意識する必要がある。


 一つは、この時代に、既に片鱗が見えている。

 史実通り、北海道だけでは大旋風を起こしているTAMANである。

 今のところ、デュラン・デュランなどのブリティッシュ・インヴェイジョンを

 そのまま持ってきたような荒い演出だが、いずれシンセディスコ系に大化けし、

 90年代初頭には、レイヴシーンを日本に浸透させる一大立役者となる。

 

 もう一つは、もう少し後に片鱗が水面上に浮かぶが、後のパイド系である。

 サイケデリック・ロック華やかなりし1960年代のメロディアスな実験音楽を

 換骨脱退してポップに変容させた日本人好みの洗練されたサウンドは、

 北欧ポップスの流行と相まって国内シーンを席巻していく。

 

 この二つの流れが相まって、

 1990年代中頃から、ガール・ポップを解体させていくのである。


 とはいえ。

 そもそもこの時点では、ガール・ポップというジャンルは、存在していない。


 史実上は、ガール・ポップは、あからさまに言ってしまえば、バンドブームの煽りを受けて衰退するアイドルシーンの代替としての、いわば雑誌用宣伝文句としての位置づけが強かった。その女性アイドルシーン自体が、表舞台で本格的に壊れるのは、某放送作家を筆頭とした悪辣なる公開悪戯以降である。

 そう考えると、崩壊前夜の今に、現時点の佐和田怜那をぶつけてみたい気も、ほんの少しだけしないではないが、あんな線で戦ったら、数枚も上手な企画の悪辣さの前に潰されるだけだ。そもそも、今村由香にとって、テレビ出演は、地雷である。


 今村由香を、消耗品になど、させない。

 絶対にだ。

 

 「むー。」

 

 気づけば、5センチの距離に、今村由香がいる。

 

 「智也君、またなんか考えてる。」

 

 PCの画面を遮る悪戯猫の距離だ。

 近い近い。吐息が掛かる。というか、ここ、学校だから。

 

 「何度も呼んでたんだよ?」

 

 あぁ、高いのに丸い、少しだけ舌ったらずにも聞こえるのに、嫌味がない。

 あざといのに、温かみのある、耳に深く浸透する声。

 これで売れないわけがないじゃないか。


 別れの時は、着実に近づいている。

 でも、今は、もう少しだけは、天使の声を一番傍で聴いていたい。

 

 「あぁ、悪い。で、何だい?」

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