第9話

 

 まずい。

 本当にまずいことになった。

 

 「だって、アイドルとして見れば、怜那はにりゅ……」

 

 「なんだ?」

 

 二流じゃ、ない。


 あどけなさを残しつつも、見る者が息を吞むような可憐な容姿、

 少しスレンダーだが、異様なまでに整ったスタイル。

 未完成だが、伸びのある透明なバカラ・ヴォイス。

 そして、17歳。

 

 超一流アイドルができあがってしまっている。

 下手をしたら地上で全盛期を恣にしている森明日菜と一戦交えかねない。

 

 やらかした。

 うまく行き過ぎた。ほんの悪戯心だったのだ。


 確かにボーカルレッスンはデビューに向けた必須案件だった。

 しかし、井伏雅也の紹介ごときで、

 ベルカント唱法由来のものすら伝わっていない1980年代の日本で、

 マイクを前提とするポップス向けの、ロジカルなボーカルレッスンの意義を

 これほど人物がいるとは思わなかった。


 そして、自分の声に苦手意識のあった佐和田怜那が、まさか一年やそこらで、

 あんなに貪欲に技術を吸収するだなんて、想像を絶していた。

 前世に俺が得た効果の五倍くらいは余裕でありそうだ。


 中音域のマイク乗りに依然として不安定さがあるとはいえ、

 現役時代よりも遥かに精度が高い。

 全盛期を彷彿とさせる、心の奥底を浚うような、透明感溢れるバカラ・ボイス。

 いや、声の若さを加味すれば、それ以上の価値があるかもしれない。

 

 目覚めた高校生の成長は、大人達の想像を遥かに超えるものである。

 などとシュテファン・ツヴァイク流の一般論を言っている場合ではない。

 

 この高校は、公立であるにも関わらず、芸能界に多少の繋がりを持っている。

 ここで話題になれば、一足飛びにデビューが近づくことを意味する。

 それは確かに望んでいた。望んでいたのだが、時期が相当おかしい。

 

 1984年は、バンドブームすらまだ来ていない。

 時は依然としてアイドル最盛期(の末期)である。

 天才少女Aこと森明日菜以降、実力と容姿とセンスを兼ねたリーディングアイドルが存在しなくなり、1985年にサニーブルックがバンド旋風を引き起こすきっかけを作る。そして、狂人がポップに変身した1986年に第二次バンドブームが澎湃として全土を覆い尽くす。実際、ライブハウスなどの地下筋では、史実通り動きつつある。

 

 この状況で、こんな完成されたアイドルを放り込んでしまったら、

 日本の音楽シーンは劇的に変わってしまいかねない。

 

 史実が、狂いすぎる。

 素晴らしくまずいなんてもんじゃない。


 第一、アイドルなんてやった日には、怜那の精神が破壊されるに決まっている。

 90年代初頭の悪ノリアイドルもどきですら、嫌がりながらやっていたのだから。


 思い出せ。

 俺がここにいるのは、今村由香の自殺を避けるためだ。

 目の前にいる男――彼だけではないが――を説得しないといけない。

 

 「井伏さん、冷静に考えて下さい。

  怜那が首尾よくアイドルになったとして、何年、持つと思いますか?」

 

 井伏雅也は、喪われる運命の精悍な表皮に、初めて怪訝な表情を浮かべた。

 売れる、売り込めると思っている。それはまったく間違っていない。

 しかし、「いつまで売れ続けるか」はまったく分からない。


 「女性アイドル枠の寿命は、よほどの例外を別として、持って、20歳までです。

  今から彼女を売っても、長くて2年、僥倖が重なった最大で3年で、

  あとは見向きもせずに切り捨てられるだけです。


 「しかしだな。こんなチャンスそうそうあると思うか?

  大手だぞ? 販路もしっかりしている。3年も持てば十分じゃないのか?

  その間に路線転換だってできるだろう?」


 「アイドルからニューミュージックに転身して、

  大成した例がどれだけありますか?」


 役者になった例ならば多いが、ミュージシャンとしてはほとんど無い。

 ニューミュージックの巨匠、河上達仁の妻の山科万里は例外的だが、

 山科万里はもともとアイドルではないし、河上達仁がバックにいたからこそだ。

 それに。


 「アイドルとして売るならば、井伏さんのスペースはありませんよ。

  響平さん達が押っ取り刀で出てくるだけです。」

 

 洋楽を華やかにアイドル曲にアレンジする天才的職業作曲家の名は、

 自尊心の強い井伏雅也の顔を顰めるに十分だった。

 作曲家枠で怜那のプロジェクトに食い込もうとしていたことは明らかだ。

 であれば、これは致命的な一撃になる。


 「少なくとも、高校卒業、大学入学までは待つべきです。

  高校中退にさせてしまったら、怜那のお爺様やお母様は、

  貴方を死ぬまで恨みますよ。」


 井伏雅也の声が、うっ、と、詰まった。


 ここ一年で、ヨネさんはすっかり井伏雅也の天敵となっていた。

 ヨネさんはゴミでも見るかのようにサングラスの先を冷厳に射貫いてくるだろう。

 おっとりとした女傑の顔を思い出したのか、井伏雅也は、軽く、身震いした。


 とどめだ。


 「映像はMTV風に撮っておいて、デモテープは作っておきましょう。

  デビューした後では使えるように。」


 井伏雅也は、呆けたような顔を引締め、

 サングラスを掛け直しながら、雰囲気だけは重々しく頷いた。


 やれやれ。

 このターンは一応、終わりそうだ。

 でも、こんなことが、何回も繰り返されてしまったら。


*


 騒動の源流は、凡そ三週間前にさかのぼる。


 1984年、10月中旬。


 「うーん。あんまりうまくいかなかったんだけれど……」

 

 鮮烈なる文化祭オリジナル曲デビューをぶちかましたにも関わらず、

 本人だけは、少し不満そうである。

 

 まさか、こんな隠し玉を準備していたとは。

 あのデビュー曲が、この段階で、この完成度で出来ていたとは。

 レコーディングされたバージョンよりも、ずっと洗練されている。


 今村由香一流の、一本の瑞々しい樹木のような静謐に透き通る切なさを、

 倍音が豊かに広がる温かみを併せ持った歌唱法で、

 しかも、こんな若々しくハリに満ちた声で聴けるなんて。

 

 万座の聴衆を呆然と陶酔させながら、黄昏の光を浴びて、

 澄み渡った声で歌い上げる神々しいまでの姿。

 年甲斐もなく、とめどもなく溢れてくる涙を隠すのに精一杯だった。


 良すぎた。

 なにもかもが。

 

 「僕は、物凄く好きだよ。」


 ああ。 

 俺は、「この声」を、本当に聴きたかったんだ。


 「音楽性を深めていけばもっともっと良くなる。」


 早く天才アレンジャーの手で化けさせてやりたい。

 その日が来るのが、楽しみで仕方がない。

 

 えへへ、と、蕩けるような笑みを向けてくる怜那は、あまりにもあざと可愛い。

 ネット時代であれば、勝手に動画があがっていたって何らおかしくはない。


 この時、俺は、正直、1984年という時代を、舐めていたと思う。

 感動的ではあったが、たかだか公立高校の文化祭の一幕。

 そんな風に、物事は収まりはしなかったのだ。


*


 この高校は、公立なのに、芸能界にごく薄い繋がりを持っている。

 ということは、ちょっと話題になれば、忽ちに火がつきやすい環境なのだ。

 神○○界隈の店がそれほどでもないのに、

 雑誌社が近くに集中しているお陰で過剰に評価されるようなものである。


 そして、いまの佐和田怜那は、ちょっとどころの存在ではなかったのだ。


 1984年、10月下旬。


 「おい、載ってたぞっ!」


 かつての日本語ロック論争を仕掛けた反骨雑誌の名残があるものの、

 一応業界大手紙と言って良い音楽雑誌のコラム(出身者が執筆)に、

 文化祭バンドの様子が載ってしまったのだ。

 文化祭の(一応はよくできた)洋楽コピーバンドの、

 唯一のオリジナル曲をよくもピンポイントで捕まえてきたものである。


 ――秀逸なメロディセンス、

 音楽シーンに存在しない、透き通るような声が魅力的だが、

 なによりも、ニンフが舞い降りたような可憐な容姿――


 ……ほぼ手放しの絶賛だ。思わず顔が青くなる。


 作詞作曲、佐和田怜那。

 もちろん、名前まではすぐにたどり着けない。

 あの「ヴォイストレーナー」は、業界関係者の情報網からは、外れているはずだ。

 しかし、時間の問題である。

 

 計画が、根源から狂いかねない。

 素晴らしく不味いことなのではないか。

 唯一の幸いはバンド名として載っていたことである。

 しかし、時間の問題である。

 

 そして、時間は、案の定、大いなる問題を運んできた。

 

 1984年、11月上旬。

 遂に佐和田怜那の存在を特定した大手レコード会社が、六本木の某カフェ店員となった井伏雅也を通じて、アイドルとしてのデビューを予備的に打診してきた。

 それが、さきほどの俺と井伏雅也のやりとりに繋がる。

 

 ヨネさんが怖かったせいか、すっかり態度を豹変させた井伏さんの口八丁により、

大手レコード会社――今村由香が契約した会社とは別――の関係者は、しぶしぶと引き下がっていった。

 かくして、今村由香(という名にはならないだろうが)の

 84年組アイドルデビューは幻と消えた、はずだ。

 

 しかし、一社が打診してきたということは、

 数社が打診してくるのは、ただ、時間の問題である。


 これはもうだめかもわからない。

 まさか、最後の切り札にまで追い込まれるとは。

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