第8話


 結論から言おう。


 Richard Ten Rykの難解なソロパートを、楽しそうに、弾けるように、ピアノと一体になって演奏する、距離感ゼロの童貞キラー今村由香の笑顔は、業界人被れの井伏雅也の胸をあっさりと打ち抜いた。彼はもう童貞ではないはずだが。


 「こんな子を軽音に渡すわけにはいかない。うちで預かる。」


 おい。

 お前は一体どういう立場で言ってるんだ。

 後に気の強い小学生を騙す男になる片鱗が窺える発言ではある。


 とはいえ、井伏雅也は将来一流のアレンジャー兼敏腕プロデューサーになる男だ。

 ひょっとしたら、佐和田怜那の本来の希望通り、

 フュージョンバンドでデビューするための道筋すら描いてくれるかもしれない。


 本当にそうであれば、俺のこちらでの人生の目的はこれで終わりである。

 今世での今村由香のデビューを見られないのは残念だが、

 俺の目的は自殺を止めることだから、私欲を捨ててしまえばいい。

 あの曲は、あの歌は、俺の記憶の中だけでも生き続けられる。


 となると、隠れファン活動を隠密裡に続けられるなら、

 正直これでデクレッシェンド状態でも良いのだが、

 ここで佐和田怜那を置き去りにしてしまうと、あとでヨネさんが地味に怖い。


 「佐和田さん、どうする?」

 

 佐和田怜那は一瞬、不満そうな天野春子顔を浮かべたが、

 次の瞬間には、思案顔でなにやらを考えている。

 

 「うーん……」

 

 思案顔すら耳目を惹くというのは本当にどうかしている。

 瑞々しい唇に人差し指を自然に充てる姿がすっかりピンナップそのものである。チャートを諳んじていそうなアイドル研究会のムッツリな男共が、雑誌の影に隠れながら、ちらちらと視姦してくる。ちょっと居たたまれないと思いつつも、コッソリと割って入ろうとしたとき。

 

 「あのね、その……わたし……」


 逡巡しながら述べた言葉を、俺は、まったく想像していなかった。




 「う、うたってみたいかな? なんて。」




 初々しく頬を染める佐和田怜那に当てられた童貞どもが連鎖的に顔を赤らめる。

 俺も激しく動揺した。まったく違う意味で。


 1983年、4月。

 史実より、4年以上も早い。


 高校のサークル内であっても、

 声にあれほどのコンプレックスがあった佐和田怜那が、

 まさか、人前で「歌いたい」などと言うなんて。

 

 身体の奥底が、がたがたと、震えてくる。

 

 盲亀浮木。無上のチャンスだ。

 俺は、このために、ここに「いる」のかもしれない。


 「井伏さん。

  クラシックではなく、ポップス向けの

  プロ歌唱指導ができる方を、ご存じありませんか?」

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