第3話:悪魔の心臓

 その悪魔は大した力もなく同族から馬鹿にされ、爪弾きにされていた。それで仕方なく魔界を出て、人里近くの森に居を構えて、人間相手に商売をし、細々と暮らしていた。

 しかし人間相手であっても、悪魔は嫌厭けんえんされていた。

それというのも悪魔は大層醜かったからだ。

見るだけでも身の毛がよだつ程醜い悪魔は、己の力を利用するために近付いて来る人間達を嫌悪しつつ、生活のために付き合いを続ける他なかった。

 ある日、くたびれた格好の人間の夫婦が悪魔を訪ねてやって来た。女の方は小さな子どもを連れていて、悪魔の前に立つよう促す。

 よたよたと子どもは悪魔の前に歩き出てきて、ぺこり、とぎこちないお辞儀をした。

 子どもの目は間違いなく悪魔の醜い顔を見たのだが、別段怖がるでも、嫌がるでもなくうろうろと視線をさ迷わせている。めしいているらしい。


「悪魔様。この子を貴方様に捧げます。どうか私達に富をお授け下さい」


 悪魔は人肉ひと食いだと思われているのに腹を立てたが、努めて平静に対応した。卑俗な人間にいちいち腹を立てていられない。

 生き物を捧げられたのだから、生き物を返すべきだろう、と七日に一度金の卵を産む蛇を与えてやり、毎日必ず生餌いきえを与える様忠告してやった。生餌を与えなければ餌になるのは飼い主だ。

 蛇の入った籠を大喜びで抱えて去っていった夫婦はそれきり二度と悪魔をおとなうことはなかったので、満足したのだろう。

 あとに残された子どもをどうしようか、と悪魔はその小さな姿を見下ろしていた。うろうろとさ迷う目とはやはり視線が合わない。


「あくまさま、きょうからよろしくおねがい、いたします」


 親に教えられたのだろう言葉を口にして子どもは深々と礼をした。小間使いくらいにはなるだろう、と悪魔は大して期待しなかった。


 子どもの名前はトスカといった。盲いていたが、それに慣れていたトスカは日々悪魔の住む小屋の間取りを覚え、仕事を覚えていき、悪魔の痒い所に手が届く、良くできた召使に成長した。

 ある日の食卓で、トスカはくふくふと我慢しきれない、という風に笑みをこぼした。どうしたのか、と悪魔が問うと、トスカは更に笑みを深くする。


「わたしって幸せ者だなぁ、って思ったんです」

悪魔おれのところに売られたのにか?」

「ふふふ。だって一日三食も食べられて、おやつも食べられるんですよ。お昼寝しても許してくれるし、お風呂だって入れるし、悪魔さんもやさしいから、わたしは売られてよかったって思ってます。

 悪魔さんが邪魔じゃなかったら、ずっと置いてほしいです」


 お父さん達みたいに痛いこともしないもの、とトスカは笑った。


「きっと、これが幸せって言うんですよね? 悪魔さんはどうですか? わたしといて幸せですか?」

「………」


 悪魔はゆっくりと瞬いて、トスカの言葉をよくよく嚙みしめた。

 幸せとはなんだろう。

 不幸せは分かる。

 魔界にいたころは弱さ故に虐げられ、食う物にも難儀していたから、寝る場所がない、腹が減っても食べられない、殴られたり蹴られたり、が不幸せだ。

 であれば、その逆は幸せと言っても良いのではないか。

 今は住む場所があり、柔らかな寝床で眠れ、食に困る訳ではないく、周囲の人間から遠巻きにされてはいるけれど暴力を振るわれることもない。

 なるほど、今の環境は幸せと言える。

 仕方なく始めた人界での暮らしだったが、悪魔はそれないりに幸せになっていたのだ。


「……うん、おれも幸せだ」

「よかったぁ!」


 トスカは頬を紅潮させて、美味しいものを食べたときのように喜んだ。

 それから何年かして、トスカは背が伸び、手足が伸びた。体力もつき、人間の住む近くの村まで買い出しに行けるようになった。悪魔が作った特製の杖を付いて、始めは二人並んで歩いた道を慣れたのちは、一人で行って一人で帰ってくるようになった。

 いってらっしゃい、おかえり、を言えるのと、行ってきます、とただいま、を聞けるのが嬉しく感じるのは何故だろう、と悪魔は最近温かく騒がしいことの多い胸に手を当てた。

 魔界にいたときにはなかった症状であったので、人間といるのが原因だろう、と悪魔は近くにいたトスカに思い当たる節がないかを聞いた。

 トスカはしばらく首を傾げていたが、あっ! と声を上げると悪魔の手を引き本棚の前まで連れて行く。


「似たような文章を聞いた覚えがあります! たしか題は『あたなの剣になりたい』……? 月だったかな?」


 本の題名には悪魔にも心当たりがあった。子どもにねだられて寝る前に物語を読み聞かせるようになってから、揃えたものだったが、なかなかどうして面白く、雨の日ややることのない日など時折昼間にも二人して読んでいる。

 本棚に収まっている背表紙を指でなぞっていって、目当ての本を探し出した。題は『私は星になりたい』だった。


「『貴方に恋をしているの。どうしてお疑いになるの? ああ、この胸の高鳴りを貴方に聞かせられたら。貴方を見るたびに、貴方と話すたびに、早鐘を打つこの胸はきっと今に破裂してしまうに違いないわ!』

 ──ふむ。恋、とあるな」

「そうですね」

「おれは君に恋をしているのだろうか」

「そうなのかも。それならわたしも悪魔さんに恋をしていますよ」


 お互いに手首に指を当てて脈を計る。トクトク、と少しばかり普段より早めの脈だった。


「君といるのは居心地が良い」

「悪魔さんの声を聞くととても嬉しくなります」

「君の笑顔を見られるなら何でもしたくなってしまう」

「わたしだって悪魔さんの好物ばかり作りたいです」

「なら今日の晩御飯は……」

「ダメです。ちゃんとバランスの良い食事をとらないと病気になっちゃうんですから」

「……うん。はあ。君には逆らう気が起きない。おかしいな。どこでこうなったんだろう。最初は便利な召使を手に入れたつもりだったのに」


 悪魔はおそるおそるトスカの肩に触れて、拒絶されないことに安堵し、やはりこわごわとトスカの背に腕を回した。

 トスカはそんな悪魔の恐れなど知らぬげに、悪魔の背にさっさと腕を回し胸に顔を埋め、頬ずりをする。くふくふとこぼれる笑みからは嬉しさしか読み取れず、悪魔はようやく強張っていた体から力を抜いた。


「わたしと悪魔さんは両想いだったんですね、嬉しいです!」


 くぐもっていてもトスカの声は悪魔の耳に心地よく届く。

 両想い、とオウム返しに口内で繰り返し、片手で掴める程小さいトスカの頭を撫でた。


「わたし、悪魔さんの手でなでられるの大好きです。やさしくて、おおきくて、とても安心できるんですもの」

「そうか」


 気味悪がられるばかりだった、枯れ枝のごとくひょろ長い手指もトスカが好きだと言ってくれるなら悪い物ではないように思える。


「両想いならわたしと悪魔さんは今日から恋人同士ですね!」

「こいびとどうし……」


 半ば茫然として悪魔は呟いた。知識として知ってはいたけれど、ただそれだけだった単語もの


「それとも、もう一緒に住んでるから婚約者でしょうか」

「こんやくしゃ……」


 やはり自分には一生縁のないと思っていた単語だった。少しばかり顔を赤くしたトスカが埋めていた顔を上げる。

 薄く色付いた頬は採れたての瑞々しい桃を思わせて、とても魅惑的に見えた。


「結婚式はしてないから、やっぱり婚約者、ですよね……?」

「けっこん……」


 トスカの甘えるような響きの声に、雷に打たれたかのような衝撃が悪魔の全身を走る。

 焦点の合わぬトスカの瞳にを、初めて惜しく思った。その瞳に自分の姿を映せたらなんと幸せだろうか!


「トスカ……。おれは君と結婚したい……」

「わたしもです! わたしも悪魔さんのお嫁さんになりたい!」


 新たな幸せの響きが悪魔の胸を突いた。生きてきた中で一番激しく心臓が鼓動を鳴らしている。


「お、おれは……君にお嫁さんになって欲しい……」


 トスカを抱きしめる腕に力がこもる。それが嬉しくて堪らないのだという風にトスカがますます体を寄せてくるものだから、悪魔はこの上ない幸せに包まれた。

 今、きっと、自分の心を満たしているのはトスカへの愛しさだ、と確信する。

 悪魔はしばし迷ってから口を開いた。


「おれは、君に、……おれを見て欲しい。君と、視線を合わせたい」


 ことり、と音がなるような仕草でトスカが首を傾げる。それに合わせて伸びてきた彼女の髪がゆれて、悪魔の指先をくすぐった。


「できるんだ。おれ程度の、力の無い悪魔にだって、君に光を与えるくらいは、できるんだ」


 情けない事に言葉を紡ぐ唇が震えた。同じように震える指先を握り込む。はくはくと開閉をくり返す口を真一文字に引き結んでから、意を決して続きを音にした。


「それをしなかったのは、する必要がないくらい君が有能だったのもあるけれど」


 トスカは黙って悪魔の声がする方を見ていた。自分の声を待ってくれているのだ、と理解して胸の締め付けられる思いがした。呼吸を整えて悪魔は言う必要のなかった、言えなかった、言いたくなかった、言葉を吐き出す。


「おれの姿を見られたくなかった。

 ──おれは、醜いから」


 言ってしまった、と悪魔は呼吸を忘れてトスカの反応を窺う。トスカは悪魔の背に回していた手を静かに外した。

 やはり醜い自分は心やさしいトスカにも疎まれてしまうのだ、と悪魔は絶望と共にトスカから離れようとした。けれど、トスカは放した手を悪魔の体に添えたまま、するすると上に滑らせていく。

 腰から脇へ、脇から肩へ、肩から首へ。最後に顔まで辿り着いた少女の手は触り心地を確かめるように上下左右を往復する。


「トスカ……?」

「悪魔さん。木は醜いですか?」

「き?」

「はい。樹木の木、です」


 いきなりの質問を不思議に思いながら悪魔は答えた。


「どうだろう。人それぞれだと思うが、樹木を見て醜いと感じる人間はいないんじゃないのかな」

「なるほど」


 さりさり、と悪魔の乾いた表皮を撫でながらトスカは感じ入ったようにうなずく。


「樹木が醜いのでなければ、悪魔さんも醜いだなんてことはありません!」


 太陽が東から登るのだから西に沈むのは当然、といった風にトスカが胸を張って宣言するものだから、悪魔の方が慌ててしまった。


「いや、でもおれは生まれてこのかた醜いと言われてきて……」

「誰ですかっ! わたしの大切な悪魔さんにそんなこと言ったのは! わたしがフライパンをお見舞いして二度とそんなこと言えないようにしてあげます!」


 雑用で培った力こぶを見せ、素振りするトスカを悪魔はどうどう、と宥める。自分のために怒ってもらえるのはいい気分だな、と思いながら。


「奴らは魔界在住だからもう会う事もないし、落ち着け」

「それならいいですけど! ……悪魔さんを悲しませるくらいなら、目なんて見えなくていいですよ、わたし。今のままだって不自由はないですし」

「ああ、うん。それはそうなんだろうけど。さっきも言った通り、君と目を合わせて話したいおれの我がままだ。それなのに君に拒絶されたくないんて、なんて……おれは自分勝手なんだ……」


 落ち込む悪魔の背を、まるで赤子をあやすが如くやわらかにトスカが叩く。


「好きな人に自分のすべてを受け入れてほしいって、当然のことですよ。『私は星になりたい』にも書いてありましたし。わたしだって、悪魔さんにわたしの丸ごと全部愛してもらえたらすごく幸せですもの。

 ……ところで、今さらなんですけど。わたしの見た目は悪魔さんにとって醜かったりします? がまんしてたりとか……」

「それは絶対にない。君はおれが生きてきた中で一等清らかでうつくしい生き物だよ」

「えっ、あ、ありがとうございます……」


 顔から火を吹かんばかりに照れを極めたトスカはそれを隠すために悪魔の胸に再びその顔を埋めさせた。ぐりぐりと頭を動かされるとむず痒くて仕方ない。

 照れ隠しの延長なのか、むくれた声でトスカはもごもごと言い募った。


「だいたい、生まれてからずっと暗闇しかしらないわたしにものの美醜なんてわかるわけがないんですから、『どうだ、初めて見るおれはうつくしいだろう、ふふふん』って言ってふんぞりかえってればいんですよ。わたしは悪魔さんの言うことならなんでも信じちゃうんですから」

「それもそうだった……」


 浮かんできた昔の出来事に悪魔は微苦笑を浮かべた。

 トスカが今よりもうんと幼かったころは、甘いぞと言って唐辛子を食べさせたり、苦いぞと言って岩塩を舐めさせたりした。ほんのイタズラのつもりだったが、悪魔の言葉通りに味覚を覚えていき、会話があべこべになりかけたので一切止めた。

 謝罪にとっておきのベリージャムを舐めさせ、トスカは甘味が好きなのだと学習したものである。

 それらを思い出して、ついさっきトスカといられれば幸せである、と気付いたくせに。落ちこぼれでもやはり自分は悪魔なのだな、と自嘲した。


「おれは、君にこの姿を受けれて欲しくなってしまったらしい」

「それならわたしといっしょですね!」


 明るくそう返し、改めて抱き着いてくるトスカに、悪魔は自分はなんて得難いものを得られたのだろう、と今までの巡り合わせに初めて感謝した。

 もしも美しく生まれ治せるとしても、トスカに会えるのなら醜い今の自分を選ぶ、と悪魔は強く思った。今なら何も怖くない。


「おれの姿を見てもここから逃げ出したりしないでくれよ」

「そんなことするわたしなんて食べちゃってください」

「しないよ。そんなことしたら君と話せなくなるじゃないか」


 談笑しながら悪魔は己の片目を抉り出した。トスカの片目に息を吹きかけ、痛みを感じさせない様にする。トスカの目蓋に魔術陣が浮かんで、すぐに消えた。


「悪魔さん?」

「少しの間、じっとしていて。すぐ済むから」


 言って、トスカの濁った瞳を取り出し、自分の目玉があった穴にはめ込んだ。視界が半分になっても、世界が薔薇色に見えるのは変わりなく、それがどうしようもなく愛しかった。

 トスカのぽっかりと空いた眼窩がんかに己の眼をそうっと入れ込んだ。少しの傷も付けぬよう、慎重に慎重を重ねて。

 薄い、雲海の広がる空のような、白が多分に含まれた藍色がトスカの瞬きと共に見え隠れした。

 もう少し、彼女に似合う眼の色をしていればな、と悪魔は気落ちし、瞳の色を変えられる新薬を開発しよう、と決意した。


「どうだろう、見えるかな」


 この醜い姿を嫌われたりしないだろうか、怖がらせたりしないだろうか、罵られないだろうか。

 不安に駆られながら声をかけた悪魔は、トスカの両の瞳から声もなく雫がころれたのを見ておおいに慌てた。


「ご、ごめん、泣くほど醜かったか」

「ちがいます」


 トスカの眉間にギュウ、と皺が寄ったのを目の当たりにし、悪魔はますます慌てた。怒りを感じてしまうほどの醜さだったのだろうか。


「悪魔さん、目が見えるようになったのは、嬉しいです。悪魔さんがきれいだとか、かわいいと思うものをわたしも見てみたいと思ってましたから。でも、悪魔さんの眼がほしかったわけじゃないです」


 はらはらと大粒の涙を落として、切々と訴えるトスカの気持ちをありがたく思いながら、まだまだ軽い体を抱き上げ、なんだそんなことかと笑って見せる。


「そんなことじゃありません!」

「そんなことだよ。忘れてるのか? おれは悪魔だぞ? 目玉くらい再生できる」

「ふえ?」


 間抜けた声を上げて、固まってしまったトスカの涙を舐めとると、それはそれは甘くて、悪魔はさらに笑みを深めた。こんなに笑ったのはおそらく生まれて初めてだろう。トスカは悪魔に初めてのものばかりをくれる。


「悪魔として出来損ないで格下のおれでも、体の一部くらいなら再生できる」

「本当ですか……?」

「本当だとも。さすがに心臓は無理だけど。目玉くらいお茶の子さいさいだ」


 自信たっぷりにそう答えてやると、トスカは安心したのか、へなへなと萎れた草の如く悪魔に体重を預けてしなだれた。


「もうっ、もうっ! びっくりしたんですからね!」

「ごめん」


 おそらく再生には百年単位の時間がかかってしまうだろうが、これから何百年も一緒にいると決まったのだから構わないだろう。

 悪魔にとって花嫁とはそういうものだ。婚姻とはそういうものだ。

 自分と生涯を共にするもの。自分よりも長命であろうと短命であろうと、その終わりを共にするもの。

 そんな悪魔に囚われてしまったトスカのためにも立派な花嫁衣裳を用意してやらねば、と悪魔は算段をつける。安堵と取り乱した恥ずかしさから、繰り出される彼女のやわい拳を甘んじて受けながら、ヴェールは、ドレスは、装飾品は、と要る物を脳内のメモ帳に記していく。


 ──それから再び数年が経った。

 ようやくあらかたの花嫁衣裳を用意し終えた悪魔は、いよいよ最後の最後、花嫁に送る指輪を飾る石を手に入れるため、依頼人の元へ出かけようとしていた。


「それじゃ、行ってくるよトスカ」

「はい、行ってらっしゃい。気を付けて行って来てくださいね」

「うん」


 婚約者からの口付けを頬に受け、上機嫌に悪魔はフードを被った。

 今日の依頼人は王族に仕える魔術師で、悪魔から見ても胡散臭く、信用するに値しない人格の持ち主だったが、報酬が破格であったので引き受けた。希少色の魔石ならトスカの指に輝くにふさわしい。


「私は貴方がくれるならどんな指輪だって構わないのに、もう」

「おれが贈りたいんだよ。おれの花嫁はとても美しくて、そのじょそこらの品では負けてしまって、引き立て役にすらならないんだから」

「もうっ! もうっ! 悪魔さんったら!」


 戯れの一撃を肩に受けてから、悪魔は愛しい彼女の未だ光を知らぬ片目の目蓋に口付けを落とした。


「我が命尽きしときは残りの光も汝の眼窩に納めよう」


 ふわり、と淡い魔術陣がトスカの目蓋に浮かんで消えた。


「もうっ! 心配性なんですから。こんな術を残していかなくても悪魔さんが帰って来てくれればそれでいいんですからね?」

「万が一だよ、万が一」


 怒ったように腰に両手を当てて、頬を膨らませるトスカに眉を下げてだらしなく表情を緩ませた悪魔は、いつものとおり美味しそうに丸々と膨らんだ頬を潰して空気を出してやった。元通りの可愛らしい笑顔に戻ったトスカを抱きしめる。


「今日中には帰るから」

「はいっ、待ってますね」


 この依頼さえ終わればようやくトスカを花嫁にできるのだ、と家を後にする悪魔の足取りは軽かった。


***


 騙された。騙された。騙された。

 何もかも嘘だった。依頼人の名前も、依頼内容も、報酬も。

 全部、全部、全部、嘘だった。

 魔力炉しんぞうを失った悪魔の身体はちっともうまく動かなかった。漏れ出る体液と一緒に魔力も体外へ流れ出ていく。


 トスカ。トスカ、トスカ。

 ごめん。帰ると言ったのに。約束したのに。

 動かぬ体に鞭を打って、悪魔はどうにか簡素な魔術陣を描いた。

 悪魔の血で描かれたそれは、悪魔が死に際のみに仕える呪陣だった。殺されたとしても、ただでは殺されてやらぬ、それが悪魔という種だ。

 下位の悪魔にできる呪などたかが知れている。だが、それでも。

 魔力炉を抜き取ったあとの悪魔ヌケガラなどに一切興味のない魔術師の背中を睨みつけた。


「呪った、呪ったぞ、魔術師! この腐れ野郎め! 我が呪い、解けると思うなよ! 絶望の中で死ね!」


 おれのように!

 最後の力を振り絞った叫びにすら魔術師には届かなかったようで、独り言を続ける魔術師は小動もしなかった。

 悔しさに、惨めさに、胸を掻きむしって泣き出したい程だったが、ひゅうひゅう、とか細い呼吸を続けるだけで精一杯だった。

 事切れる最期、悪魔の脳裏に浮かんだのは花嫁衣裳に身を包んだトスカの姿だった。


***


 トスカは未来の夫の帰りを待ちわびながら夕食の準備をしていた。

 今日でようやく花嫁衣裳の準備が終わるのだ。待ちかねていた花嫁になれる、と思えば自然口角は上がったし、小躍りしてしまうくらい心が弾んだ。

 数年がかりで嫁入りの支度をしてくれた悪魔に、感謝と慰労を精一杯伝えるために、今日の夕食は彼の好物ばかりを作り上げた。

 喜んでくれるかな、と味見をして、悪魔が作ってくれた保冷庫にひとつ、またひとつ、と出来上がった料理を入れていく。

 料理が全て出来上がり、薬草を取りに行こうと、籠を手にしたトスカはピタリとその動きを止めた。籠を床に落としてもそれを拾おうとせず、ゆっくりと恐ろしいものがあるかのように、震えながら手をその片目に翳した。

 その目は悪魔が今朝がた魔術をかけた方の眼だった。

 いつもなら見えないはずのその眼は今やはっきりと少女の手のひらを映していた。

 少女は声もなくその場に崩れ落ち、顔を覆って肩を震わせた。


「目なんて見えないままで良かったのに」


 どうして貴方が生きていると信じ込ませる事すらさせてくれないの、とトスカは声を嗄らして泣き続けた。

 トスカの耳にあの日の約束が遠く木霊する。


「ずっと、一緒だよトスカ」

「はい、悪魔さん! このままずっと一緒にいましょうね!」

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ずっと、このまま 結城暁 @Satoru_Yuki

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