第13話

 紫桜は七種がその場を後にするのを見送って、静かに深く息を吐くと、一度頭の中を整理するために目を瞑った。

 当然のことながら、紫桜は生市と言う人間について知っていることは何一つない。

 つい数週間前に出会ったばかりで、話をするようになったのはここ数日だ。

 ただそれでも、七種からの話を聞いて、何となく、亘・生市と言う人間が自分よりもはるかに遠い場所にいる人間であるように感じた。

 今まで囲碁しか興味も関心もなかった紫桜の世界にとって、そんな生市はとても異質で、不思議で、奇妙で、そしてとても興味深い人間だった。


 もしも七種・雨音と言う人に勝てたなら、少しでもそんな生市のことが理解できるのだろうか?


 そう思うと、なぜか今までになく、碁を打ちたくなった。

 それは不思議な感覚だった。

 今まで紫桜は、碁を打ちたいと思ったことは無かった。まるで呼吸をするように、あるいは睡魔に身を任せるように自然と碁石を握っていたから。

 そして同様に、強く誰かに勝ちたいと思う事もなかった。

 紫桜にとって、囲碁で勝利するというのは、殆ど囲碁をすることと同義だったから。

 呼吸をするように碁を打って、眠るように勝つ。

 そんな生活の中で、紫桜にとって勝てない棋士は父の弟子をはじめとするごく一部の人間だけで、それだってここまで強い実力の差を感じたのは、それこそ父である竜光だけだ。

 けれども、紫桜にとって生市は、初めて、父と同じかそれに近いだけの実力を持ち、そして初めて、勝ちたいと思える相手だった。

 七種・雨音と言う人は、そんな自分が越えるべき壁が一目置いている存在だ。

 そう思うと、沸々と七種への闘志が湧きあがり、自然とその場で居住まいを正していた。

 そんな紫桜の元に、七種が急須を手にして再び戻ってきたので、彼女が対面に座る成り、スマホに文字を打ち込んで差出した。


「改めて、勝負を挑みたいです。七種・雨音さん」


 そう言って頭を下げると、スマホの画面に撃ち込まれた文字と寸分たがわない言葉を、紫桜は頭を下げたまま言った。


「お願いします。北斗の神様にも認められたという七種さんの碁を僕に見せてください。僕と対局してください」


 決して彼女に聞こえていないと知りながらも、それでも頭を下げながらそう口にする紫桜の耳に、七種のスマホからの音声が聞こえてきた。


『ええ。勿論ですよ』

『と言っても、プロ棋士の立花君に、どれだけ敵うかわかりませんけど』

『私の方からお願いします』


 こうして、七種・雨音との対局が始まった。

 

 紫桜が雨音とと碁を打って気づいたのは、彼女が本当にまだ碁を打ち始めて数年ほどしか経っていないのだという事だった。

 彼女の碁石を握る手つきや、指先の爪の状態、碁盤への石の置き方と取り除き方。基本的な一つ一つの所作が、未だに碁を打ち慣れていない人のそれであり、そこだけ見れば単なる初心者だろう。


 だが同時に、そんな経歴の差を感じられないほどに、七種の打つ碁は洗練されていた。


 七種の打つ碁は、まるで音楽の様だった。

 例えるならば、バッハの音楽だ。穏やかで心地よく、気持ちの良いリズムで碁石が碁盤の上に並ぶ。

 パチリパチリと互いに碁石を置くさまと相まって、それはあたかも、楽譜の上に音符を描いているような錯覚さえする。

 戦局はやや紫桜が有利だろうか。しかし、油断はできない。まるで鍔競り合うように七種の占める地は紫桜の地を荒らしてくる。


 それらすべてが心地よい。

 その時、七種の打った手が、紫桜の地を大きく荒らした。

 一瞬で戦局は七種の有利に偏ったかのように見えた。

 しかし、その状況で、紫桜の繰り出した一手は状況を再び逆転させる。

 その盤面に至って手を止めた七種は、しばらくの沈黙の末に静かにスマホの画面に文字を打ち込んだ。

そうして差し出されたスマホの画面には、苦笑した絵文字と共に、投了です。の文字が書かれていた。

 絵文字と同様に苦笑を浮かべた七種は、そのまま流れるようにスマホを操作して、機械的な音声で続く文章が読み上げられる。


『流石ですね立花くん。私の負けです』


 少しだけ名残惜しさを感じさせる決着に、紫桜は思わず深々とため息を吐いた。

 余りにもきれいな決着に、わがことながら信じられない思いだった。

 ここまで理想的な碁を打てたことは、人生でただの一度もない。

 だからだろう。紫桜は七種の顔を見て、自然と再戦の申し入れを口に出していた。


「あの。すみません。できれば、もう一度だけ、僕と打ってもらえませんか?」


 スマホの画面を向けながら指を一本立てて頭を下げると、七種は声も無く微笑みながらスマホの画面に文字を打ち込んだ。


『ええ。構いませんよ』


 スマホの画面を向けながら浮かべる七種の笑みは、今までになくかわいらしく美しいものであり、思わず見惚れしまった。

 だが同時に、何故かその笑みを見た紫桜の背筋には、少しだけうすら寒いものが走った。

 一瞬、何か恐ろしい罠にかかったような気がして、思わず微笑みを浮かべる七種の顔に見入ったが、七種はただ小首をかしげてこちらを見るだけだった。

 その様子に自分が何か、とても重要で強烈な何かを見落としているような気がして、紫桜は何かを言おうと口を開きかけたが、何故かそれが言葉に出来ずに結局口を閉ざして、七種の体面に座った。


「それではよろしくお願いします」


 その文章を打ち込んだスマホ画面を七種に見せ、七種はそれにただ声も無くうなずいた。

 こうして、紫桜は七種と再戦したが、二局目は、少し様子が違った。

 まるで音楽を聴くような心地よさで勝負が進んだことは確かだが、初戦とはちがい、七種が有利な状況で終始進んだ。

 初戦の戦いがクラシックコンサートだとすれば、今度の対局はバレエの様だと思った。

 初戦で感じた七種の碁では、盤面は楽譜で、指揮者は紫桜。そして、七種は演奏者。紫桜の指先に従って、七種が旋律を奏でる。

 だが、二戦目に感じる彼女の碁のイメージは、初戦の時に感じた気持ちよさとは、やや違っていた。

 それはまるで、プリマドンナである七種に従う舞台。

 白鳥の湖を踊るように七種の指が碁盤の上を行き来し、徐々に紫桜を圧倒していく。

 それでも、紫桜と七種の間には隔絶した差はない。あくまで七種が優勢と言うだけで、紫桜にも押し返せるだけの隙はある。

 そう思いつつも、七種に翻弄されるように戦局は進み、結局はそのままやや七種が紫桜を上回る形で勝利した。


『どうです?私も意外とやるものでしょう?』


 得意げな笑顔で、そうスマホの画面を見せてくる七種に、紫桜は殆ど反射的に再戦を迫った。


「も、もう一回、もう一回だけ対局、お願いします!!」


 すると七種は少しだけ考え込むようにスマホを弄る手を止めて、どこか挑発的な笑みをうかべて、再びスマホを操作した。


『これで最後ですよ?』


 七種のその文章と共に、三戦目が始まった。

 三局目のそれはまるで、ハリウッドのミュージカル映画だった。

 気持ちの良い音楽が流れるように碁石が打たれ、役者が演じるように紫桜と七種の指が動き、まるで定石に従うように局面は動く。

 歌は台詞のように、台詞は歌のように。そんな言葉を過去に聞いたことがあるが、七種の碁はまさにそれだった。

 彼女の打つ一手一手が、歌が流れるように紫桜を追い詰め、時に台詞を語るように紫桜を苦しめる。

 気づけば、紫桜は七種に負けていた。


 その負け方は、まるで一本の名作映画を見ているかのように、巧みで、自然で、そして圧倒的だった。

 強いと言えばいいのか、凄いと言えばいいのか、紫桜の語彙力では到底表現できない七種の碁を残した碁盤に思わず見入っていると、七種のスマホから流れる人工音声で現実に意識が戻らされた。


『ここまでにしましょうか』

『どうやら外も暗くなっているみたいですしね』


 ふと気づくと、空腹で腹が鳴り思わず頬を赤らめたが、そんな紫桜の様子に七種は不思議そうに首をかしげるだけだった。

 そんな七種の様子に紫桜はその場を適当にごまかすと、そそくさとした態度で外に出た。

 すると、玄関の外には、待っていたかのようにコンビニの袋を手に下げた生市が立っていた。





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