[1-3]ピアノと心の傷
――ざん、ざざあん。
穏やかな波音が聞こえる。
青い海がオレンジ色に染まって、波がキラキラ輝いていた。
後ろを振り返ってみる。
潮の香りは風にかき消され、目の前にはわたしの背より何倍もある杉の木がそびえ立っていた。
鳴き交わす鳥の歌。葉がこすれ合う音。
ぜんぶ大切な宝物だ。
日本ではありふれた、海と山に囲まれた田舎町。珍しいものなんてあまりないけれど、わたしにとって大切な故郷。
砂浜だった足もとが、湿った土と枯れ葉に変わる。
一歩足を踏み出せば、乾いた音をたてて葉っぱが粉々になった。
探しものがあるわけではなく、特に目的もなく。わたしは進み続けた。
まるで、なにかに引き寄せられるかのように。
「……ピアノ」
森の中を進んでいくと開けた場所に出た。
蓋付きのグランドピアノ。こんな湿った枯れ葉と土の上に運ぶだなんて正気じゃない。泥だらけになるし、傷もついちゃう。絶対おかしい。
そう思うのに、どうしてだろう。その黒く光るピアノは不思議なくらい自然に溶け込んでいた。
足を一歩動かす。枯れ葉が割れる。
ピアノに近づけば近づくほど、心臓の鼓動が大きくなる。
漆黒の蓋が開く。
――ポロン。
と、ひとりでに音が鳴った。まだ触ってもいないのに。
ドクドクと心臓の鼓動が早くなる。近づいてはだめだと、心臓が警鐘を鳴らしてる。
なのに、抗えないほどわたしの身体は、心は、ピアノに引き寄せられる。
やめてから、もう五年にもなるのに――!
椅子に座り背筋をのばす。
震える指を鍵盤にのせる。
久しぶりに触れたピアノは軽かった。
指が動きを覚えてる。リズミカルに弾いていく。高いトーンの音が森の中で響いていた。
不思議と心は穏やかだった。
まるで夢みたい。落ち着いた気持ちでピアノに触るのはここ数年なかったもの。
そう、わたしは小さな時からピアノが大好きだった。
物心がついた頃からお父さんはピアノの弾き方を教えてくれた。お母さんはピアノを弾くことはできなかったけど、わたしの演奏をいつも嬉しそうに聞いてくれていた。
片手だけだったのが両手で弾けるようになって。ぎこちなかった手の動きがなめらかになるたび、途切れ途切れだった音がリズミカルになるたびに。
うまくなるたびに、お父さんもお母さんも喜んでくれた。だからピアノを弾くのは大好きだった。
だれど、それも長くは続かなかった。最悪なあの事件が起きるまでは――。
「ギャアアアアアアアッ」
「きゃあっ」
耳につんざくような
やっぱり来てしまったんだわ。
ここは現実の世界なんかじゃなく、たぶん、わたしの夢の中。そう、現実じゃないの。なのに、どうして。
どうして、ピアノを弾くとやって来てしまうの――!
氷のかたまりが背筋を滑っていったかのように、身体がゾクゾクした。鷲づかみにされたみたいに心臓がいたい。今にもつぶれてしまいそう。
空から降り注いでいた木漏れ日はかき消え、森の中が闇に覆われる。
一面の黒の中、いくつもの赤い光が灯る。闇夜に光る人外の目が、わたしに狙いを定める。
「いやっ、こないで!」
躍り出る異形のモノ。それは九尾さんとおなじ〝あやかし〟と呼ばれる怪異たちだった。
耳障りのいいピアノの音に誘われたんだわ。
誘ったのはこのわたし。でも好きであやかしたちを呼んだんじゃない。ただ、ピアノを弾くのが好きだった、ただそれだけのことなのに!
わたしは物心ついた時から、あやかしを
だって、わたしがあやかしを
わたしのお母さんは普通の人じゃない。森の奥深くに住むあやかし、自然といのちを愛する
お母さんは穏やかな性格のあやかしで、一番の特技はいのちを癒やす薬を作ること。
鎌鼬の血が半分入ったわたしにも当然お母さんの
ピアノを弾くと、その音があやかしたちのからだを回復させ、癒やすことができるの。
だから、わたしのピアノはあやかしを引き寄せてしまう。誘ってしまう。
そのせいで十二歳の時に、わたしはあやかしに襲われ怪我をした。あの時負った傷はとうに癒えているけれど、記憶そのものは消えない。ピアノだって弾けなくなってしまった。
あやかしはこわい。
やっぱりだめ。こわくてこわくてたまらない。
どうして、わたしをそっとしておいてくれないの。
逃げようにも、
ふいに、木の奥から毛むくじゃらの怪異が飛び出してきた。鋭い爪を前に掲げ、じりじりと近づいてくる。
もうありもしない胸もとの傷がうずいた気がした。
やだ、こわい。やめて。おねがい。
だれかたすけて。
「もう、ピアノにはさわらないから――!」
三対の爪が目の前に迫る。顔をかばって腕を出したまま固く目を閉じた。
そのとき、力強い声がわたしの耳を震わせた。
「あきらめるな!」
知らない声。初めて聞くような……、ううん。違う。そうじゃない。
わたしは前に一度、この声を聞いている。
思わず目を開けると、真白い翼が目の前にあった。
やわらかそうな翼の向こう、高く結い上げられた雪色の長い髪が風でなびいている。
大きな両翼と広い背中がすぐ目の前にある。あやかしたちからわたしをかばってくれている。
足もとまである白と藍の衣装をはためかせ、ゆるりとその人は振り返った。
頭の上にある猫みたいな三角耳。眠る前に墨色だったそれは、雪のように真っ白になっていた。
意思の強い藍色の瞳を向け、その人はわたしに言った。
「あきらめるな、
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