[1-2]あやかし専門の薬屋さん

 田んぼの畦道あぜみちを、わたしはひたすら走った。


 普段なら徒歩で三十分くらいかかるところだけど、今回は十五分くらいで着きそう。

 まだ午前中なのにジリジリと強い日差しが肌を焦がす。

 いつもなら日焼けを気にするのに、今はどうでもよかった。たったひとつの命が消えそうになっているのに、他のことなんて考えていられない。


 大きな杉の木を背負うように建った小さな一軒家。ログハウスみたいに丸太を組み合わせた、いかにも手作り風のお家。

 普通の人なら素通りしてしまいそうなこの家があやかし専門の薬屋さんだった。


雪火せっか、助けてっ」


 呼び鈴も鳴らす時間さえ惜しくて、ドアを開けて家の中に入る。礼儀もなにもあったものじゃないけど、緊急時だから仕方ない。叱られたら、ちゃんと雪火せっかの怒りは受け止めるつもり。

 でもきっと雪火せっかは怒らないだろう。物心がついた時からの長い付き合いの中で、怒ったところをあまり見たことないもの。


紫苑しおん、どうしたの? なにかあった?」


 足音がすぐに近づいてきたあと、雪火せっかがひょっこりと顔をのぞかせる。

 朝ごはんの時間だっていうのに、彼はジーンズに紺と白のボーダーラインのTシャツに着替えていた。丁寧に切り揃えられた黒髪にひとつの乱れだってない。雪火せっかはいつも清潔にしていて身だしなみも完璧だ。小さい頃から彼はそうだった。


「えっと、起きたら男の人がいて。いきなりポンっていって、猫みたいなあやかしが倒れててっ」


 ああ、もう頭の中ぐちゃぐちゃ。うまく考えがまとまらない。わたしってば何言ってるんだろう。

 訳のわからないこんな話を聞かされて、雪火せっかがわかるわけない。


 暑さのせいなのかな。頭がクラクラしてきた。


 わたしは要領が悪くて不器用だ。

 腕の中にいるあやかしは今も苦しそうに息してるっていうのに。この子を救う手段がわからなくて、今も右往左往するだけ。あまりの不甲斐ない自分が腹立たしくなってきて、目頭が熱くなった。


「どうしよう、雪火せっか。このままじゃこの子が死んじゃう!」


 幼なじみとはいえ、朝一番に突然やってきた挙げ句、目の前で泣かれて。普通の男子だったらきっと困り果ててしまうと思う。

 だけど雪火せっかは嫌な顔をひとつもせず、玄関で立ち尽くすわたしに近づいてにこりと笑ってくれた。


「泣かないで、紫苑しおん。大丈夫。あやかしはそう簡単に消えることはないから。とりあえず診察してみるから上がって」



 ☆ ★ ☆



 板張りの廊下を進んでいくと、ツンとした香りが強くなっていく。

 庭で育てたハーブを室内で干しているからかな。

 ラベンダーやタイムといったわたしでも知っているものから、聞いたことのない名前のものまで色んな種類の薬草を雪火せっかは扱うことができる。


 いつだったか、自分は魔女だと雪火せっかは言った。


 ハーブや薬草を扱う知識と技術を持ち、あと不思議な力を少し入れて、普通のお医者様には作れない特別な薬を作れるんだとか。

 わたしたち人間にはもちろん、人外といわれる存在、あやかしたちによく効くんだよね。


 わたしが住むこの田舎町ではあやかしを見かけることが多い。

 そのせいかカッパさんとか豆ダヌキさんが怪我をしては雪火せっかの家に押しかけてくるのが日常茶飯事だったりする。

 だからわたしは、雪火せっかのことをあやかし専門の薬屋さんと呼んでいるの。もしかしたら、本人は不本意かもしれないけど。


「おや、紫苑しおんちゃん。いらっしゃい」


 通してもらった部屋は居間だった。

 外観は洋風なログハウスなのに、内装は純和風だったりするから雪火せっかのお家は面白い。

 やっぱり朝ご飯の途中だったみたいで座卓にはご飯とお味噌汁が一人分置かれている。


 その向かい側に座っている男の人が、頬杖をついてにこにこと笑いかけてくれた。


 オレンジと白の前合わせの着物、なのかな。平安時代みたいな和装がとてもよく似合う男の人。

 くせひとつない真っ白な髪と頭の上あたりにある大きな三角耳、そして背後で絶えず揺れる九本の尻尾。鋭いきんいろの瞳。一目見ただけで、彼が人ならざるもの――あやかしだとわかる。


九尾きゅうびさん、ごめんなさい。今日はおいなりさんないんです」

「うん? 別に構わないよ。雪火せっかに油揚げをもらったからね。それより、なにか悲しいことがあったのかな」


 九尾、というのは名前じゃない。彼は九尾の狐というすごく有名なあやかしなの。でもあやかしって普通は名前を持たないんだって。

 だからわたしも雪火せっかも、「九尾」と呼んでいる。


 九尾さんは雪火せっかと居候しているあやかしだ。

 雪火せっかのことが大好きで、まるでお父さんのように小さい頃から彼の面倒を見ている。


「んんー? 珍しいものを連れているね。この子はばくの子どもじゃないか」

「バク?」

「夢喰いのあやかしだよ。獏は真っ黒な子が多いんだけど、この子は白いね。私とおそろいだね。かわいいね」


 やっぱりあやかしだったんだ。

 でもおかしいな。子どもではなかった、と思うのだけど……。


 窓から朝日が差す部屋の中で見たのは、紛れもなく精悍な顔つきの男の人だった。

 強くつかまれたあの感触はまだ肩に残ってる。

 吐息がかかる至近距離で言われた、あの言葉も。


 ――おれの女になれ。


 思い出した途端、顔がまた熱くなってきた。

 わたしってば、こんな時になに考えてるの。


「ほら、九尾どいて。その子診るから」


 いつの間にかいなくなったと思った雪火せっかは、大きな鞄を抱えて戻ってきた。たぶん、仕事部屋に置いてある道具を取りに行ってくれてたんだと思う。


「うん? 診るまでもないよ、雪火せっか。まあ多少は怪我をしているようだけれど、この子は病気じゃない。お腹を空かせているだけさ」

「あっ、そういえば倒れる直前にお腹すいたって言ってたかも」

「え、そうなの? 見るからに獏っぽいし、しばらく食事にありつけてないのかな……。まあ、いいや。九尾、この子に少し妖力分けて、食べさせてあげて」

「うん、いいよ」


 一つ返事で快諾すると、九尾さんは尻尾のひとつをつかんで、先っぽをぶちんとちぎってしまった。

 痛そうと思ったけど、血は出てないし尻尾は欠けていない。手のひらには蛍の光のような球体が浮かんでいるだけだ。

 一体、どういうカラクリになっているんだろう。


 雪火せっかが出してくれた座布団に真っ白な猫(獏さん?)を寝かせる。

 すぐ近くに来た九尾さんは光の球体を猫のからだに押しつけた。みるみるうちに球体はからだの中に吸い込まれていってしまう。

 食べさせるといっても、口からじゃないんだ……。


「これでしばらくは大丈夫なはずだよ。呼吸も安定してきたみたいだし」


 口元に手を近づけてから、雪火せっかはにこりと笑ってそう言った。

 よく観察してみると、だらんと出ていた舌は引っ込んでいたし、呼吸も規則正しくなっている。


「よかったあ」

「とりあえずはね。それよりも紫苑しおん、朝ご飯食べてないよね? 聞きたいことは色々あるけど、とりあえずなにか食べて」

「うん」


 お薬を作る仕事をしているせいか、雪火せっかはよくお医者さまみたいなことを言う。

 言われてみれば、落ち着いてきたせいかお腹がすいてきちゃった。慌てて出てきてしまったせいで、今日はなにも手土産を持ってきてない。ただご馳走になるのは心苦しいけれど、今日だけは少し甘えちゃおうかな。


 やだ、ちょっと気分も悪くなってきちゃった。急いで走ってきたせいかな。


「じゃあ、紫苑しおんは座ってて。大したものはないけど、ごはんと味噌汁くらいは用意できるから」

「えっ、そんな、悪いよ。お手伝いくらいさせて。突然押しかけたのはわたし――」


 立ち上がった途端、頭に鋭い痛みが走った。

 まるで鈍器で殴られてるみたい。ガンガンする。頭が割れそうに痛い。


紫苑しおんちゃん……?」

「ま……しおん……! ……ぶ?」


 あ、れ。おかしいな。九尾さんと雪火せっかの声が遠くて聞き取れない。どうしてかな。

 どうして朝なのに、こんなに暗いんだろう。


 ぐにゃりと足もとがくずれたことに気づいたのは、ずいぶん後のことだった。


 目の前が、世界が、闇色に染まっていく。


「……紫苑しおん!!」


 わたしは自覚がないまま意識を手放した。


 倒れる寸前。

 雪火せっかでも九尾さんでもない、力強い声がわたしを呼んだような気がした。

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