あやかしぴあのリサイタル
依月さかな
1章 傷を抱えた少女と夢喰いあやかし
[1-1]あやかしを拾った朝
小さい頃から、もふもふした動物が大好きだった。
猫だったり犬だったり、タヌキ……はさすがに触ったことないけれど、見ているだけで気持ちが癒される。
だから、それが大きな三角耳とふわふわな翼をもつあやかしだったとしても、助けない選択肢なんてなかった。
それなのに、どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
☆ ★ ☆
「え……?」
ある朝、目を覚ましたら、男の人がわたしの上に覆い被さっていた。
蝉の鳴き交わす声が、右から左に流れていく。一瞬で頭の中が真っ白になる。何が起こっているのかすぐにわからなかった。
まるで時が止まったかのように、わたしたちは見つめ合っていた。
つり目がちな藍色の瞳には、目を見開いたわたしが映ってる。
雪みたいな真っ白な髪の、きれいな男の人だった。
髪の間からは、墨汁で染めたような黒い三角耳が見える。
着物みたいな前合わせの白い衣装。背中から見える大きな白い翼。どれを取っても、普通の人間じゃない。
(おとこのひとが、わたしの上にいて。それで、ここはわたしの部屋で……)
つまり、どういうことなの。
わけがわからない。今、わたしの身に何が起こってるんだろう。
「……お前」
形のいい唇が動く。
目と鼻の先にいる男の人が喋った。
緊張で身体が固まる。
顔が近づいてきて、心臓がバクバクうるさく鳴り始める。生ぬるい吐息が顔にかかる。
どうしよう。今、この家にはわたし一人しかいないのに。叫んだって誰も助けには来てくれない。
これってもしかして、貞操の危機というやつなんだろうか。
逃げなきゃ。でも、この人を
「えっと、あの……」
「お前、おれの女になれ」
「はい!?」
待って。ちょっと待って。
ほんとにこれどういう状況なの!?
なんで初対面の男の人に組み敷かれた挙句、迫られてるの!?
魚みたいに口をパクパクさせるわたしを見て、彼は唇を引き上げて笑う。
ぐ、と肩に圧力がかかった。
「契約成立、だな」
「ち、ちが……っ」
違うの。さっきの「はい」は同意したわけじゃないのよ。
疑問系というか、他の人で言う「は?」を丁寧にした形っていうか!
ああっ、こんな非常時にわたしってば何考えてるんだろう。
夜空みたいな藍色の瞳が細くなって、彼はふっと笑った。
その途端彼の背後から見えていた白い両翼が溶けて、霧散する。
真夏の夜に見る蛍みたいな光が部屋いっぱいに満ちていく。すごくきれい。
——って、何を悠長に考えているんだろう。
「なにが違う? お前はもうおれのものだろ」
黒い三角耳が少し下がる。形のいい唇が迫ってきた。
——キスされちゃう。
思わず目を閉じて身構えていたら、そんなわたしの予想とは反してなにも起こらなかった。
のしっと肩に重さを感じたあと、たった一言。
「はらへった……」
今にも消えそうな小さな声。でもたしかに、そう聞こえた。
「え?」
ふいに、ぽんと何かが破裂するような音がした。
今度はなにが起こったの!?
いつの間にか肩にかかっていた圧力が消えている。
急いで目を開いて起き上がると、さっきの男の人はいなくなっていた。その代わり、お腹の上には小さな動物が寝そべっている。
墨を垂らしたような色の、大きな三角耳。先端が黒い長毛の尻尾をもつ真っ白なからだ。猫みたいだけど、その背中には鳥のような翼が生えている。——昨日、玄関の前で拾ったあやかしだった。
「えっ、うそ。もしかしてさっきの人はこのあやかしだったってこと?」
答える声はない。
そのあやかしは赤い舌を垂らしてぐったりとしていた。固く目は閉じられていて、呼吸が荒い。さっきまでわたしを押し倒していたとは思えないくらいに弱々しい姿だ。
昨日拾った時よりも辛そう。怪我してるようには見えないけれど、もしかして身体の調子が悪かったのかな。
おかげで貞操の危機は脱したけれど、——って、そうじゃなくて!
「早く病院に連れて行かなきゃ!」
でも病院ってどこに?
一応動物っぽくはあるから、動物病院でいいのかな。でもいくら猫に似てるからって、普通の動物病院で診てもらえるのかしら。
そっと、白いからだに触れてみる。手のひらを通して、じんわりと熱が伝わってくる。まだちゃんと生きてる。
どうすればいいのかわからない。男の人に変身しちゃう翼付きの猫だなんて、普通の病院では診てもらえない。
それなら——。
あやかし専門の薬屋さんに頼むしかないわ。
「待ってて、あやかしさん。絶対に助けてあげるから」
起き抜けに組み敷かれて、挙げ句の果てに「俺の女になれ」だなんて迫られて。
ろくな目に遭ってないのに、どうしてだろう。わたしはこのあやかしを放っておくことができなかった。
適当な服に着替えて、四つ足を投げ出している白いカタマリを両腕に抱き上げて、家を出た。
外は快晴。眩しい日差しがまだ容赦なく降り注ぎ、蝉たちが忙しなく鳴き交わす夏の真っ盛りの季節。
この弱々しいあやかしがわたしの今後の運命を大きく変えることになるなんて、この時はまだ予感さえしていなかった。
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