終 章 消えた足取り、そして、その向こうに

 二〇一二年四月二十二日、日曜日。昨日の豪雨とは打って変わって、非常に天気のよい晴れ晴れとした空だった。時効前に十四年前の事件の犯人は捕まった。でも、那智ご夫妻から請けた俺の依頼の本当の始まりは今日からなのかもしれない、朱鳥さんを探すと云う依頼を。

 仁科秋葉のあの遺書で、朱鳥さんはどこかに消えてしまったとなっている。考えられる事はたった一つ。それは仁科の乗用車から、どうにかして逃げ出す事が出来た朱鳥さんは偶然通りかかった〝誰〟かに救出された。まだ、彼女に息があった事を知ったその誰かは病院に連れて行ったはず。だから、その後の生死に係わらず、東京都内の総ての病院を探し回って彼女の事を聞きまくれば彼女に辿り着けると思った。

 でも、何か腑に落ちない。若し、治療に間に合わなくて朱鳥さんが既に亡くなっている場合は警察に届けられているだろうし、最も可能性の低い方の生存であればこの十四年間一体何処に行ってしまっているのだろう。色々な憶測が俺の頭の中を巡らすけど、今は行動してその結果を見つけよう。俺は意気込みつけて、事務所から飛び出そうとした時に携帯じゃなくて事務所の電話が鳴りだした。気を削がれてしまったけど、聞えてるんじゃ出ない訳にはいかない。

「お早う御座います。草壁法律相談所の草壁剣護です。どの様な御用件でしょうか?」

「草壁先輩、お早う御座います、であります。本官、田名部であります。鞍名署長がもう、非常に、大変、大喜びしているでありまして直ぐに先輩に会ってお礼を申したいそうであります」

「僕は今それどころじゃないんです。まだ、僕の依頼は完遂していないんですから・・・」

「事件は既に解決したでありますが他に何かあるんでしょうか?」

「僕の元々の依頼は消息不明の那智朱鳥さんを探す事で塩見事件の究明はその手がかりになると思ったから調べていただけです」

「ハッ、そうでありましたか。なら、本官も其れに協力する、で有ります・・・、・・・、・・・、署長も先輩の協力の許可をくれたであります。本官だけではありません。本官以外にも幾らでも人員を割くとも言われてる、であります」

「有難う。でも、これは僕の請負った物です。警察が動く訳にはいかないでしょう」

「先輩、其れは違うで有ります。行方不明者を探すことも我々警察のお仕事であります。以上!」

 田名部はそう言い残して電話を切ってきた。彼の言葉だと深川署も捜査をしてくれるだろうね。とても有り難い事なんだけど、彼等より俺が先に見つけ出さなくちゃ意味が無くなってしまう。そうなってしまっては俺の依頼は失敗に終わってしまうからね。まあ、体の良い競争相手だと思って奮闘しよう。そして、新たな意気込みを見つけた俺は其れと共に本当に事務所を後にした。

 

 四月二十九日、日曜日。あの日、朱鳥さんを探し始めてから、もう一週間も過ぎる。しかし、俺はいまだに彼女に辿り着く事は出来ていなかった。田名部や深川署の職員も全面的に協力してくれているけど、そちらの方からもてんで朗報は入ってこない。

 今日までずっと俺は東京都内の個人病院で大きな外科手術のできる場所を一軒一軒訪れていた。それに、日本医師会東京支部に赴いて一九九七年七月二八日午後十時以降に整形手術で後頭部の治療をした医者がいないか調べて貰っていた。その結果、数人の医者が出てきたけど、その誰もが朱鳥さんとはまったく別の人の手術を行っていた。整形を受けた患者と医者の人物関係は田名部に調べてもらっていて既に朱鳥さんとは無関係だと解かってしまっている。

 どの場所をどう移動して来たのかしら無いけど、今、俺は運河の見える芝生公園の中を歩いていた。そして、その公園の中にあった教会の入り口階段付近に腰を下ろすと陽が沈みそうな運河の先の海の方を一瞬だけ眺め、下を向いて頭を掻き毟りながら大きな溜息と吐いてしまっていた。

 公園の中を見渡すと俺の背にある教会のシスター二人と小学生前の少年少女達が遊んでいる光景が目に映っていた。俺はそんな光景を見ながら、この後どうし様か考え始めた時に背後から声がかかってくる。

「迷える子羊よ。我々等が主に代わりまして、汝の悩みを聞き届けて差し上げましょう。サア、何なりと私にお聞かせください」

「残念ですけど、僕に神も仏もありません。はっきりといって無神論者です。その様なモノを信じる貴方達に語る事など何一つとして有りはしませんね」

「哀れな・・・」

 何が哀れだ。そんないもしない物を信じて、祈って事件が解決してくれるのだったら刑事や其れに准ずる職種なんて要らないですよ、まったく。本当に其れで叶うんなら、死ぬまで俺は祈り続けて上げますよ。でも、そんな事が現実に有りもしないから、起こり得ないから、警察と言う組織や其れに准ずる機関があるんじゃないですか。

「私の対応が貴方の心を不機嫌にしてしまったようですね。其れならば言葉を変えさせて今一度貴方にお尋ねします。悩み事を抱えていそうな私の愛しき隣人よ。同じ人として、私が手助けできる事も有るでしょう。ですから、貴方の胸の内を私にお聞かせ願えないでしょうか?」

「見ず知らずの僕にそこまで言っていただけるなら、口にするだけ、口にしましょう・・・。僕は十四年前から行方知れずとなっているこの少女を探しているんですけど・・・。その時に怪我を負っていてもう生きている可能性は希薄です。それでも・・・」

「十四年前ですか・・・」

 俺に話を掛けてきた蒼い瞳をした神父はその言葉の後に目を閉じて暫く黙ってしまい。長い沈黙が訪れてしまった。その神父がただ、俺に答える言葉がなくて黙っているのだと感じてこの場を後にしようと立ち上がった。

「愛しき隣人よ、何処へ行くのですか?私はまだなにも貴方に言葉をお返ししては居ませんよ」

「其れでは聞かせていただきます。何か僕に返してくれる言葉があるんですか?」

「私のこの教会は孤児院も兼ねています。十四年前に私の友人から一人の少女を預かりました。その女の子は日本人です。ですが、手術の後遺症で記憶喪失になってしまった様で、しかも、彼は医者では有りますがこの国の医師免許を持っているわけではありませんでした。要するに無断無許可の施しです。それはひとえに彼が医者としてその少女を救いたかったから行った事で・・・、しかし、この国の法では私の友人は罰を受けてしまいます。それ故にその記憶喪失を理由に私のこの教会に預けたのです。ここは治外法権の領域ですから・・・。其れと、丁度私の教会は人手不足で彼女が来てくれてとても助かりました。私は主のご慈悲に大変感謝しております」

 俺はその言葉を聞いて何を意味しているのか、こちらが聞き返さなくともわかる事だった。そのまま俺は神父の声を聞き続ける。

「アスカーっ!私の所に来てくださいっ」

 神父は子供たちと遊んでいた方角に居る一人のシスターに澄んだ声で呼びかけると、その名前の女性が振り返り、淑やかにこちらに小走りしてきた。

「お呼びでしょうか、ミリアルド司祭さま?」

「アスカー、こちらの方にそのベールを脱いでお顔をよくお見せしてあげてください」

「はい・・・」

「・・・、・・・、・・・、・・・、・・・、・・・」

 沈黙してしまった。アスカーと呼ばれたその女性は写真の中の朱鳥さんの面影を残していた。しかし、何かが違う、何かが・・・。

「確かに彼女は僕が貴方に見せました。写真の面影を残しています。似ています。ですが・・・、瞳の色が日本人では有りません。それにこの髪色はどう見ても自然のものです。混血で無い限り日本人であの髪色を持つ事は可能じゃない」

「その事ですか・・・、アスカーは怪我の所為で視力を悪くしてしまっていまして、それと、色々と事情がありまして日本人である事を隠しておきたかったので、クロの瞳を隠せるカラー・コンタクトレンズを着用させているのです。それに現在、ヘア・カラーの技術は貴方が思っている程ロー・レヴェルではないのですよ」

「アスカーさん、でしたね?これにどの指でも結構ですので触れていただけ無いでしょうか?」

 俺はそう言って指紋採取用の小さな特殊紙を彼女に差し出した。

「これは僕の名刺です。明日の午前十時にこちらのオフィスまで来て頂け無いでしょうか?」

 彼女は困惑しながら俺の方ではなくて神父の方を見ていた。そして、彼は何かを目で語っている様だった。それから、神父が何を言わんとしているのか理解したシスターは再び、子供たちのところへと戻って行く。

「まだ、経験も浅く若輩ですが、これでも僕は弁護士をしております。確かに貴方の友人は過去にこの国が決めた法に背く罪を犯しました。しかし、其れは人を助ける為に已む無く行った事。その行為に罪はありません。それで本当に人が救われたのですから尚更です・・・。それに現在この日本の医師、彼等は手術ミスで患者の命を奪っておきなが何の罪悪感も持たずに平気な顔をして居る者も少なくないんです。その様な者達から比べたら、貴方の友人は本当の医者と呼べる方なのでしょうね。ですから、僕はその事実を聞かなかった事に、知らない事にします。貴方のその手術を行ってくださった方に深く感謝していたとお伝えください。それと、彼女を隠匿したままではなくて、僕に隠さないで教えてくれた貴方にも感謝します。有難う御座います、ミリアルドさんで宜しかったですよね?それでは失礼」

 俺は深々と頭を下げて、教会を後にした。そして、今日くらいは本当にあの神父が言う神というものに感謝した。

「田名部君、ここに居たんですか?これを科研に提出して那智朱鳥さんであるかDNA鑑定してください!それと両親の遺伝因子鑑定も。結果は出来れば今日中にお願いいたします」

「そんな無茶を言わないでほしいであります。それに本官あそこに人間、本官等を見下すから嫌いで有りますから、顔を合わしたくないで有ります」

「無茶でも、嫌でもお願いいたしました。結果が出ましたら僕の所に来てください。それでは」

 田名部に言うだけいって別れてきた俺は完全に陽が暮れた頃に事務所に戻って着ていた。午後七時を回っている。那智ご夫妻は自宅に居るだろうか?

「もしもし、草壁法律相談所の草壁剣護です。そちらは那智さんの御自宅で宜しいですよね?」

「アッ、はい、私、あの時に草壁弁護士様の事務所にお伺いさせてもらいました鈴佳です。主人ならまだお仕事からお戻りになられていなくて・・・」

「いいえ、奥様の方で結構です。ご夫妻からお請けした依頼の件で連絡をさせていただきました。既に新聞やニュースで事件が解決した事は存じていると思いますが、明日はその依頼終了の手続きと、最終報告を執り行いたく思いますので、必ず愼一郎様と僕の事務所に参られてくださらないでしょうか?」

「草壁弁護士様、お時間の方は何時ごろでも宜しいのでしょうか?」

「可能であれば午前十時、とさせて戴きたく思っております」

「はい、その様に主人にお伝えしておきます」

 不安の色を声に載せたまま那智夫人の方から電話を切ってきた。明日この場所にご夫妻がこられて記憶喪失だけど生きている朱鳥さんと対面した時、いったいどの様な表情をしてくれるだろうか。そんな事を考えながら今日の報告書を纏め上げ始めた。

 四月三十日、月曜日、午前二時過ぎ。俺はまだ眠っていなかった。昨日の分の報告書を書き上げた後は那智ご夫妻から依頼を受けた五日から二十九日までの二十五日分のそのファイルを一通り確認していた。そして、それが読み終わった頃、一本の電話が掛かってくる。

「もしもし」

「あっ、草壁先輩。まだ起きていたでありますか?本官、田名部であります。起きてるなら、今からそちらに行であります」

 彼はそれだけ言うと俺の返す言葉も聞かないで切ってしまった。そして、受話器を下ろした瞬間、事務所のインター・フォンがなった。

「お晩であります、先輩」

「なんですか、田名部君?若しかして、扉の向こうから電話を掛けていたのですか」

「ハハッ、流石は先輩でありますね。先輩が無茶を言うでありますから、科研じゃなくて本官の友達の薬学研究機関に頼んで鑑定結果を貰って来たであります。・・・、・・・、・・・、これがその結果の紙であります」

「無理言ってすみませんね、田名部君」

「いいであります。今月先輩には二つも手柄を頂いたで有りますから」

 それから、俺は田名部の話を聞きながら渡された物の中身を確認していた。DNA鑑定の方は俺が持ってきた指紋から採取されたケラチンと深川署内の保管されていた彼女の髪の毛、血液がこびりついていた物から照合したとされている。そして、その結果朱鳥さん本人である確立は93・6666%、那智ご夫妻からの遺伝因子継承の合否は〝合〟と書かれている。

 紙面上では間違いなく彼女は朱鳥さん本人と断定された。俺もその結果を疑いたくない。

「本当にご苦労様でした、田名部君。動き回っていたキミのことだから、お腹空いているんじゃないのかい?外にいこうか・・・」

「恐縮でありますっ!」

 田名部は俺の言葉に嬉しそうに笑みを零し、そう言葉を返してきた。俺はコンピューターが置いてある机の引き出しを開けて、奥の方から最後の現金が入った財布を取り出すと、彼と一緒に深夜も営業しているレストランに向うのであった。

 彼と別れた後は三時間だけ横になり、普段通りの時間に目を覚まして、事務所の中を隅々まで掃除してから、スーツを着て何日ぶりかに弁護士徽章をその襟に留めた。

 まだ午前九時半ちょっとすぎ、那智ご夫妻も朱鳥さんもくるにはまだ暫くありそうだ。新聞でも読んで時間を潰そうと其れを広げようとした時にインター・フォンがなった。

「はい、どうぞ」

「お早う御座います。弁護士のくさか・・・、アッ、貴方が草壁様で宜しいのでしたのよね?」

「はい、間違い有りません、僕が草壁です、朱鳥・・・、アスカーさん。でも、どうして時間よりもまだ早いですよ」

「あの、貴方にお会いして色々とお聞きしたい事が有りましたので」

「それでは、どうぞこちらへ」

 昨日逢った時との修道女服じゃなくて、洋服を着た那智朱鳥さんが俺に一礼をしてから、中に入ってくる。今日は髪の色も日本人特有の黒で、眼鏡をかけていた。眼鏡をかけて黒髪の彼女はだいぶ雰囲気が別に感じてしまうのは俺の気のせいじゃ無いだろう。彼女をパーティションで区切った応接室に通すと、暫くそこで待ってもらい教会に十五年間近くいた彼女が日本茶なんか飲むか解からないけど、それを注いで持っていった。

「こちらをどうぞ・・・、それで僕に聞きたいこととはどの様な事でしょうか?」

「はい、それはわたくしがプロテスタンテの教会に引き取られてもうすぐ十五年になりますが、その間、ずっと私は記憶喪失のままでした。勿論今もそうなのですけど。私は教会に預けられてからずっとアスカーと言う名前を頂、何不自由なく、昨日に草壁様がお話になられていたミリアルド司祭様に育てていただきました。私はそこに預けられた時から司祭様は私に私が〝両親に捨てられたのではありません。何時かきっと必ずお迎えが来ます。ですから、恨む様な事はしてはいけません〟と言われ続けました。そして、昨日になって草壁様が訪れた時に、ミリアルド司祭様に、呼ばれましたときに私はすべて理解しました。司祭様の言葉が、私の願いが叶ってくださったのと・・・。草壁様、お願いいたします、お答えください。私は一体誰なのでしょうか?」

「アスカーさん、昨日僕がお会いしたあの神父さんから貴女が日本人で有る事は聞いていると思います。そして、本当の貴女の名前はナチ・アスカ、漢字でこの様に書きます」

「これが私のファースト・ネーム・・・。ナチ・・・、これが私の両親のファミリー・ネームなのですね?」

「はい、ですが、今はそれだけしか教えられません。もう十数分時間を下さい」

 俺は壁にかけてある時計を確認してそんな言葉を彼女に向けていた。しかし、那智ご夫妻も、朱鳥さんと同じで、十時少し前に訪れてきた。俺は朱鳥さんを奥に隠すとご夫妻をほんの十数秒前まで座っていた応接椅子に座らせた。お茶を用意してから話を始めた。

「那智愼一郎様、鈴佳様。お二人とも御存知だとは思いますが、既に事件は解決しました。そして、もとよりご夫妻の依頼でした朱鳥さんの行方ですが・・・、・・・、・・・、・・・、・・・・」

「草壁殿・・・、口にしなくても解かっております。もう、事件を解決してくださっただけで結構です。それ以上望んだら・・・、・・・、・・・ウグッ」

 愼一郎さんの歯を食い縛るように涙を堪えていた。それは鈴佳さんの方も同じ。なんだか、黙っている方の俺が罪悪感を覚えてしまいそんな気まずい雰囲気が空間を支配する。

「僕はまだ何も答えては居ませんよ。その様なお顔をされては困ります。お二人とも確りとお聞きください。お二人の御息女、朱鳥さんは生きていました。ただ、今でも記憶喪失ですが・・・、・・・、朱鳥さんこちらに来てください」

「あすか?本当に朱鳥なのか?本当に朱鳥なんだなっ!うぅぅぅぅううううううううぅ、見違えるように綺麗になって、若い頃の鈴佳ソックリじゃないか。うぅうぅううううう」

「朱鳥ちゃん、本当に御無事で、今まで、貴女を見つけられなかった私たちをお許しください」

「お二人が本当に私のお父様と、お母様なのですね?」

 感動の御対面って奴です。ご夫妻もその娘も涙を流しながら、抱き合っていた。そんな姿を見ると俺まで嬉しくて貰い泣きしてしまいそうだ。

「ご夫妻、さっきも口にしましたように朱鳥さんは今も記憶喪失です。ですが、僕には其れを直して差し上げる力はありません、ただの一介の弁護士ですから。これから先は貴方達しだいですよ。無くしてしまった十五年間の記憶と、親子の空白の十四年間はこれから埋めていってください」

「くぅっぅぅ、私は草壁弁護士殿にナッ、なんてお礼を言ってよいのやら・・・」

「草壁様、娘が記憶喪失でも、こうして生きて会うことが出来れば些細な事です。本当に、本当に感謝の気持ちでいっぱいです」

「朱鳥さん、このお二人が本当の貴女の両親です。十四年間ずっと貴女を探し続けていた両親です。これから、先どの様にするかは朱鳥さん本人が決めてください」

「鈴佳、何時までも泣いていないで草壁殿にあれを」

「それはあなたも、ですわ。・・・、草壁様、こちらが今回のお仕事をお願いいたさした報酬です。是非、お請け取りください」

 厚手の封筒を鈴佳さんから手渡され、その中身を確認すると白帯がついた茶色の紙が三束。三百万。その束の内一つを取り出して数を数えること五十四枚。それだけ抜くと残りはまた封筒に戻して那智ご夫妻の方に向ける。

「一日の人件費一万二千円、必要経費七千二百円。行動期間は二十五日間で小計四十八万、それと特別出張経費で六万円を頂き合計五十四万を依頼報酬としていただきます」

「いいえ、その様なことを言わず、草壁殿すべて受け取ってください。この様な結果を私達が頂いて草壁殿がそれでは顔向けできません」

「主人もこういっております。草壁様、どうか、どうか、お受け取りください」

「受け取るわけにはいきません。確かにこちらの希望以上の報酬をいただける事は大変に嬉しい事です。ですが、僕はお金の為にこの仕事をしているんじゃありません。偽善の様で、格好をつけている様ないい口かもしれませんけど、僕は請け負った依頼が成功達成できて、その仕事を下さった方の、ご夫妻の様な喜びの顔が見たくて弁護士になったんです。ですから、必要以上にお金を貰う事よりもご夫妻のその心だけで十分です。残りは朱鳥さんのために使ってあげてください」

 凄く自分でも青臭い事を言っているけど、その言葉に嘘はないです。

「本当に、本当に、有難う御座います、草壁殿」

「愼一郎様、今回の依頼の簡易捜査記録は数日後に領収書と一緒に同封いたしますので。サア、ご夫妻、何時までも僕のところに居ないで朱鳥さんと一緒に外でお話ししたらどうですか?」

 俺がそう言ってやると最後、三人は満面な笑みを向けて事務所を出て行ってくれた。

 すべての事が解決出来てしまったら何だか急に眠気が差してきた。その眠気に逆らえずに現金を応接に室のテーブルに出しっぱなしで、無用心のままそこにあるロングソファーに眠りこけてしまった。そして、俺が再び目を覚ました時は当たりは真っ暗で、太陽が沈んだ後の事だった。しかも、自分で目覚めたのではなく、起こされて。

「はぅ、せぇ、せっ、先輩、神無月先輩っ!何時から、そこに居たんですか?住居侵入罪で訴えてしまいますよ」

「ほぉ~~~、私にその様な言葉を口に出来るとは立派に成りましたネェ、草壁君。刑法第十二章第百三十条ですか?出来るものならどうぞ御自由に・・・。それと私は四十五秒ほど前からです。しかし、貴方いったい何を考えているのですか?まったく信じられませんよ、テーブルにこれを出しっぱなしにしているなどと・・・、不謹慎極まりないですね。それで良くその様な口が聞ける物です。それとそのしまりの無い顔を直ぐに正してください。私の雇い主が一緒に来ておりますから」

 先輩の雇い主?って一流企業の社長さんって奴ですか?そんな人が何でまた・・・。神無月先輩は俺の今の姿を見て小さな溜息とその時ずれてしまった眼鏡を直していた。俺は部屋の照明を点けてブラインドをすべて降ろすと、先輩のお連れしてきた人を今まで寝ていた場所に呼んで貰った。

 大企業の社長と言うから其れ相応の歳なんだろうと思ったけど・・・、・・・、・・・、どう見ても俺とそんなに変わらない。でも、そんなコトよりも俺はその隣に立っていた女性の方が気になってしょうがなかった。美人とか、綺麗とか、可愛いとか、もうそんな言葉なんかじゃ飾れないそんな女の人が俺に笑みを向けている。絶頂してしまいそうだ。

「草壁剣護君、いい加減そんな表情をしていると殴りますよ」

「焔先輩、那智主任の事件を解決してくださった方だ。それに俺は今、会社の社長として来ているのではない。藤原貴斗と言う一個人として、その礼に来ている。ああ、俺の事は呼び捨てで構わない。堅苦しいのは嫌いだからな」

「焔先輩?神無月先輩どういう関係なんですか?」

「藤原君は学部は違いましたがね、私の大学の一つ下の後輩です。其れと藤原君の隣にいる彼女、藤宮さんは私と一緒で藤原君の秘書を勤めている。藤宮さんもまた、私の後輩で同学部でした」

 俺と同じ年?とてもそうは思えない程、冷静で毅然としている。大企業の社長ともなると自然にこんな風になってしまうんだろうかね?でも、なんか羨ましい。

「剣護さん、話は那智主任から既に聞いている。娘が見付かってその嬉しさの余り、頓挫していた研究が今日になって完遂となった。其れによる我が社の利潤は貴方が受けた報酬の何千倍以上だ。それだけの物を我々の方が受け取ったと言うのに貴方が其れに見合わないのは公平ではない。これを受け取って頂きたい」

 神無月先輩の雇い主はそういうとごっそりと札束が入ったスーツケースではなく紙切れ一枚しか入っていなさそうな白い封筒をテーブルの上に乗せて俺の方へ押してきた。中を確認すると紙ではなくて一枚のカードが入っていた。それは銀行などのATMなどのカード口に挿入して自分の口座番号を指定するとお金が自動的に振り込まれる物だった。

「暗証番号は頭に三、次にここの電話番号下四桁、最後は剣護さんの誕生日を四桁の合計九桁」

「とてもありがたいですけど、何の理由もなしに受け取る事はで来ません。お返しします」

「・・・、・・・、・・・」

「ハぁ~ッ、貴斗。貴方は幾ら言いましても、何年経ちましても、どれだけわたくしがお願いいたしましても、相手に説明するお言葉が足りませんのね。神無月先輩、私の方から御説明して宜しいでしょうか」

「藤宮さんが言葉にしたいのでした。私は口を閉じていますよ」

 その後、秘書から理由を色々と聞かされ、目の前の彼がどれだけ気苦労をしていたのかを教えていただいた。間接的にでも其れが解消されたと言うのが俺に報酬を呉れると言う理由だった。そして、最後、秘書の清楚で至高な笑みでのお願いと、神無月先輩の睨みに負けて其れを受け取った。

「受け取ってもらえて感謝する。それではまたいずれ、弁護士としての貴方に仕事の依頼を持ってくるかもしれない。その時はよろしく頼む。では失礼・・・、先輩、詩織、帰るぞ」

「はい、その時は可能な限りお受けいたします」

「草壁君、仕事が無い時は私のところに連絡を下さい。幾らでも斡旋して差し上げますから」

 大企業の社長はテーブルに彼の名刺を置くと毅然とした態度で去り、先輩はそんな風に俺にささやきながらその後を追って、最後に藤宮秘書が俺に笑みを向けたまた頭を下げると三人とも俺の事務所をあとにした。

 俺は三人が帰ってからそのカードを持って一体どのくらいの金額が入っているのかじっと眺めていた。眺めたからって解かる訳じゃないんだけどね。

 翌日、那智ご夫妻から頂いたお金を銀行に収めにいった序に藤原君から渡されたカードをATMに差し込んで通帳を入れてから暗証番号とやらを入れた。暫くすると、記帳が終わった通帳は信じられない金額を羅列させていた。ろッ、ろぉろろろぉあぅろく、六千万だあぁあ?俺の去年の年収の約十倍を軽く超えている。これは僕には貰いすぎのお金。でも、もう銀行にはこの金額が振り込まれている。この金額を見てから返すなんって言ったら神無月先輩が良い顔し無いだろう。そうだっ!今まで朱鳥さんを保護してくれていたあの教会に寄付しよう。

 そう思い立ってその教会に寄付を終わった頃に一本の電話が入る。その電話を掛けてきた相手は紀伊武雄と言う人物だった。そして、刑事訴訟のために弁護を図って欲しいとお願いされた。其れが何の刑事事件なのか、聞かなくても解かっている。無論、電話の主の奥さんから既に先約されていた事だったから依頼を断る理由は無い。

「解かりました。その依頼をお受けします。すべての手続きは僕に任せてください。公判の時には必ず御家族で僕の所に来てください。遅くても三日で片を付けさせていただきます」

 俺はそう強くいって電話を切る挨拶をしてから携帯を閉じた。

 五月五日、土曜日、子供の日。

 俺は東京地裁の第三法廷室前の扉に立ち、その中で戦うための武器の最終確認をしていた。それが確認し終わった頃に扉の両脇に立っていた警備員の一人が入廷時間だと告げてくれた。確かにこの場所に俺を弁護人に立ててくれたのは紀伊家族達だが、今は橘家、明智家、橋場家の遺族たちの方も来られている。那智ご夫妻の所は朱鳥さんが無事だった為に新田彰を告訴する事はなかった。

 襟に弁護士徽章がちゃんと着いているか指で確認し、一度瞼を下ろして精神統一してから、気合を引き締めて、自らの手で観音開きの戸を空け堂々と法廷の中に入って行く。

 ここからが俺の弁護士と言う立場の本領を発揮する真の戦いの始まりだった。そして、その場所で俺は誰もが考えた事のない新たな旋風を巻き起こす。

「それでは新田彰被告人に判決を下します。昭元定次、洋平、紀伊さとみ、明智肇、以上四名の殺人罪、橋場雅巳の過失致死傷罪、那智朱鳥、及び来栖勝彦、以上二名の傷害罪、並びに明智肇と紀伊さとみの死体遺棄隠蔽罪、それらをすべて現法律に基づき審理した結果、貴方を有罪として、その刑罰として死刑を申し渡します。・・・、・・・、・・・、それではこれを持って本日の法廷を閉廷とします。以上・・・」

「『バシンッ!!!』死刑判決?津嶋判事っ!その程度の刑で、残された遺族たちの為になると本当にお思いなのですか。それでは不十分ですっ!僕はその判決を却下、異議を申し立てますっ!」

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