第六章 追 跡

 那智ご夫妻から依頼を受けて九日目の四月十四日の土曜日。俺は東京弁護士会本部がある霞ヶ関の裁判所隣にある弁護士会館に足を運んでいた。そこで、過去の刑事裁判と民事裁判の記録から定次が訴えた被告、或いは被告人を知る為だ。

 弁護士会館に訪れるのはスーツの襟につけている弁護士徽章をいただいた時以来だね。

「お早う御座います。草壁剣護と申しますが、資料室を使いたいのですけど・・・」

「はい、それでは、今一度お名前の方を宜しくお願いいたします。其れとバッジ及び、免許の御提示をお願いいたしますね」

 俺が名前を告げ、弁護士免許証と襟についている徽章を見せてやると、受付嬢はPCのキーボードを叩きながら、俺の確認と資料室の使用登録をしていた。

「お待たせしました。此方を所定の係員に提示してください。館内規則に従った御利用をお願いいたします。それではごゆっくりとどうぞ」

「ありがとう」

 俺は軽く手を上げて応対してくれた彼女に挨拶をしてから、手渡されたカードを持って資料室に移動した。その中に入ると俺と同じ職業の連中が結構いた。彼等、彼女等は判例を調べながら、受け持っている訴訟をどう解決したら良いのか、思案しているのだろう。多分、俺と同じ様な目的でこの場所に出向いている人間は居ないだろうね。

 ここでは自分で調べたい資料が直接探せないようになっているみたいだった。係員に必要な資料請求を告げて其れを出してもらうという形式を取っているみたいだね。

 何時の頃にそんな裁判があったのか俺は知らなかったから、名前とその大まかな告訴内容だけを告げて探してもらう事にした。何と、同姓同名で似通った裁判が三十件近く出てきたみたいで、その記録書を一冊一冊目を通す羽目となってしまったんだ。

「ぬぉ~~~、これもちがう・・・。はぁ・・・、二〇〇一年九月十一日・・・、もう死んでいるって僕が探している定次は・・・九七年前の物を出してくれって言わなかった僕が悪いんですよね・・・、早く探さないと」などと、小さく口に出してテーブルの上に重なって何列にも置いてある分厚い記録書を見て、頭を掻いてしまった。

 今しがた見ていた物を閉じて表紙の年を確認して、定次生前の頃にあった物だけを選出し始めた。それでもまだ三分の一も残っている。それからまた良く考えると、定次が生まれる前のと、東京地裁管轄外の物も交ざっていた。其れ等を省くと・・・、何とか五冊にまで減らすことが出来た。

「よぉっしっ、これからが本番だ。俺が推測している人物が載っていると良いんだけど・・・」

 俺は記録書に手をかけて中身を開く。それから、事件の概要と被告人と告訴人だけに目を通して行く。ここも本庁と一緒で資料の持ち出し、複製禁止となっているけど、今回は書き写しや、ヴォイス・レコードする必要も無いだろう。

 必要な部分だけのことだったから、五冊読み終えるのにたいした時間はかからなかった。その五冊の内、三冊が昭元洋平の訴訟に関する裁判だった。そして、その内二冊に九年の時間の差があるけど、被告人側に同じ人物の名前が三人も書かれていた。更に、俺が睨んだ人物の内の一人がその中に顔を見せていた。それと、これ等の資料を見てはじめて解かったことなんだけど、元々梶木組は東京に元からあった団体じゃなくて、九年前くらいに地方から流れ着いてきたようだ。組を大きくするには多くの金は必要だった。だから、当時は定次の様な人物は重要だったんだろうね。

「見つけた、やっと僕が追うべき人物の姿が・・・、直にでも動き出そう」

 出してもらった資料を係員に片付けて貰うようお願いすると、急ぎ、受付で借りていたカードを返すと会館玄関先で、田名部に連絡を入れる。

「はい、こちら深川警察署。どういった御用件でしょうか?」

「弁護士の草壁剣護と申します。刑事部捜査課の田名部巡査部長をお願いします」

「刑事部捜査課の田名部ですね?はい、少々お待ちくださいませ・・・、・・・、・・・、それではお取次ぎします」

「はいっ、田名部であります。先輩ですね?本官にお仕事でありますか」

「今から僕はそちらに向います。詳しい事は署で話しますから、何処にも出かけないで待っていてください」

「ハッ、それでは待っている、で有ります。安全運転できてくださいであります」

 田名部に用件を伝え終えた俺は走って駐車場まで向かい、車に乗り込むと深川警察署へとそちらへと移動する。そして、その場所に到着すると彼が外で待っていた。

「ずっと外で待っていたんですか?」

「いえ、今さっき外の顔見せしたばかりであります。先輩、何か解かったで有りますか?」

「その事は食事をしながら、でも話をしましょう・・・」

「今日も草壁先輩のおごりでありますか?本官は凄く嬉しいであります」

「あっ、えぇっ、ああ、うん・・・」

 しまった、財布の中身が瀕死だというのに了解の返事をしてしまった。

「先輩、どうかしたでありますか?」

「何でもないよ、それじゃ、行こうか・・・」

 署の近くの飲食店に入ると、俺は注文しながら重要な手がかりを見つけ出し、そこから被疑者に成り得る人物を三人程彼に伝えた。

「ソッ、それはホントでありますか、先輩?本当にそうなら、えらい事になるであります。先輩はたった数日の間でいまだ持って確固な容疑者を上げられていない事件の其れ等を見つけてしまうで有りますから・・・」

「まだ、直接有ったわけじゃないですから、確証はもてませんが有力である事は間違いないと僕は思っています。ただ、その三人が現在身元不明となっているのが・・・」

「そこまで来たのであれば本官は警視庁捜査本部にも応援を頼んだ方が良いと思うのでありますが・・・、いかがでありますか?」

「時効まで其れほど時間が無いですから、若し警察がだいたい的に動いて、それに気付いた被疑者が逃げてしまっては元も子もありませんから・・・・・・」

「だったら、内の署だけでも・・・、いえ、本官だけでも」

「そうしてくれるなら、その制服を着たままじゃなくて、私服か何かに着替えて捜査してくれると嬉しいですけど」

「ハッ、解かった、で有ります。それではその容疑者の名前と現在わかっていることを本官にも聞かせて欲しいで有ります」

 俺は昨日彼と一緒に深川署で調べたファイルにあった三人の名前を教えて、他の事は署に帰って彼の目で確認しろと言って聞かせた。

「僕はその内の初めに言った人を追うから、田名部君、キミは残りのどちらかを調べてください。お願いしましたよ」

「それでは、本官は一度署に戻って草壁先輩が言ったことを確認してくる、で有ります。ごっそうになりました」

 田名部はそう言うと即行で食堂を去って行く。俺もじっとなんてしていられない、行動しよう。

 俺が今から追いかけ様と思っている人物は篠田喬平しばた・きょうへい。若し、彼が事件の犯人であれば当時、三十九歳。三十八の時に定次傷害事件で告訴されていて、訴えられた中で一番長い一年間の懲役を判決で下されている。なぜなら、その事件で複数居た犯行人の首謀者だった見たいだからね。そして、懲役に服してから、定次と洋平が殺される半年前に再び、喬平は定次を亡き者にしようと画策した様だったけど、未遂に終わってしまう。勿論、この時の判決も懲役判決が下されたんだけど、何故か多額の保釈金で解放されている。その出所は分かっていない。そして、偶然にも、潮見事件が発生した事を利用して定次を殺ってどこかに姿を消したと言うのが、弁護士会館で見た資料と今までの事を整理して現在の俺の考えとなった。

 俺は車を走らせないで、椅子に座りながらそんな事を考えていた。そして、当時まで篠田喬平が住んでいたはずの場所へと向った。

 世田谷区梅丘神社近くのアパート・斉場荘。若し、そこの住人が十五年以上前から住んでいる人達だったら、被疑者について何か解かるかも知れない。この時間、誰か居てくれるといいな。

 玄関の扉を一軒一軒叩きながら中の住人を呼び出してみた。でも、殆どの所が留守で十五軒目にしてやっとそこの住人と会話をする機会を得た。

「はい、はい、どなたですかぁ~~~」

「僕はこういう者ですけど、以前このアパート三〇三号に住んでいた篠田喬平さんと言う方を御存じないでしょうか」

「ハァ、これは御丁寧にどうも・・・、弁護士さんですか?どうしてまた、弁護士さんなんかが・・・。知っていますよ、篠田さん。もう何年も前に引っ越しなされてしまいましたけどね」

 対応してくれた主婦に俺は丁寧に喬平の事で知っている事を色々と伺っていた。彼の近所での人柄、近所付き合い、事件当時の状況などを。主婦の潮見事件があった頃の記憶は大部前のことなのではっきりと思い出せない様だったが、彼の人物像はかなり正確に聞く事が出来た。

「最後に、この写真に写っている子なのですけど、その頃この辺で見ていないでしょうか」

「あらぁっ、この子の制服・・・」

「もっ、もしかして何かご存知名のですか?」

「もしかして、わたくし、何か期待させるような事言っちゃったのかしら・・・、実は私、海星高校の卒業生でしたのよ。ただ、写真のこの制服を見て昔を思い出しちゃっただけなんです・・・」

「・・・、・・・、・・・、・・・、・・・、そうだすか」

 彼女が一瞬考え込む様な動作を見せたから、何かあると思ったんだけど、俺の期待は大きく裏切られた。

「ごめんなさいね、なんかがっかりさせちゃったみたいで・・・。でも、これだけはハッキリと言えますわ、私はその女の子を見ていません。私に聞くよりも管理人さんにお聞きになった方が宜しいと思いますよ・・・、・・・?あら、また私、余計な事を言ってしまったのでしょうか」

「そんなコトはありませんよ、御協力に感謝します。何か気が付いたことや、思い出した事がありましたら、僕の所まで連絡を下さると、たいへん嬉しく思います。連絡先は先ほどお渡しした名刺を御確認ください。それでは・・・」

 俺の話を聞いてくれた主婦に深々く頭を下げて、礼を言うと、彼女が言っていた管理人の住む部屋に足を運ぶ事にした。そして、そこでも被疑者のことを伺っていた。

「ああ、喬平君の所の家族じゃな?彼なら、その事件が起きる数ヶ月も前にここを出ておるよ。二度も警察の御厄介になってしまって、ここのみなに合わせる顔が無いからといってじゃ」

「それは間違いないんですか?」

「無論確かな事じゃ。賃貸期間の記録もちゃんと残っておる」

「そうですか・・・で、どちらにいかれたか、御存じないでしょうか?」

「ああ、それならわかっちょる。ちとまて・・・、・・・、・・・、ああぁっ、あった、あった。これじゃよ、このはがき・・・」

「神奈川県川崎市幸区幸町か・・・、消印は・・・??でも二〇一一年か。あの、すいませんけど、この年賀状、毎年きているんですよね?」

「ああ、そうじゃよ。それがどうかしたんかい?」

「これって一昨年の見たいなんですけどね、今年は送られてこなかったのですか・・・」

「そういえば、ああ、そうじゃ、今年はこんかったのぉ・・・。まあ、忙しくてだせんかったんじゃろうて。弁護士のアンタさんが、どうして喬平君の事を爺に聞いたのか知らんが、潮見の事件とは何の関係も無いと思うんじゃがのぉ」

 普通に潮見事件の事を覚えている人なら、喬平が被疑者だとは誰も思わないだろう。だけど、それが落とし穴かもしれないと俺は思っているからこうして聞き込みを始めたんじゃないか・・・。最後に管理人にも朱鳥さんの写真を見せて彼女の事を尋ねて見たけど、何も知らないと素で返されてしまった。

 それから、俺は他の住人から喬平の事を聞き出しても同じ答えが返ってくるだろうと判断して、斉場荘を後にした。現在の住所も解かったことだし、後は直接、本人に会って話をすれば良いだけの事だからね。

 カー・ナヴィを頼りに斉場荘の管理人に見せて貰った年賀葉書には消印が押されないから、本当にそこの住所から出したかどうか、確定できないけど、今は行って見るしかない。帰省ラッシュの渋滞に巻き込まれながら、幸町三丁目五五四に到着したのは午後六時半をちょっとすぎた頃になってしまった。最近では景気が良くなって多くの中小企業の残業が頻繁になっている。若し、喬平がそんな会社に勤めていれば、まだこの時間は帰っていないかもしれない。だけど、既婚者だから、その奥さんか、子供くらいはいるだろう。・・・、子供の方は外で遊んでいてまだ帰ってきていないかもしれないけどね。共働きで、誰も居なかったら、帰ってくるまで待つしかない。

 車から降りて、目的の住所の場所を見るとマンションだった。玄関口には警備員らしき人物が立っていて、出入りする者達を管理している様だった。その警備員が住居人の事を知っているか、どうか俺は解からないけど、取敢えず聞いてみる事にした。

 愛想の良い警備員だった為に、俺の話を直に答えてくれた。彼はあくまでも玄関口の警備だけであって誰がこのマンションに住んでいるのかは知らない様だった。その彼から管理人が居る場所を教えて貰うと、そちらの部屋へとお邪魔させてもらう。マンションやアパートの管理者が同じ場所や近場に住んでいてくれるとこういう時は非常に助かる。

「篠田の家族ですか?確かにここに住んでいましたが、去年の暮れに引っ越してしまいましたよ。・・・えぇっ、何処に移られたかって?えぇええぇとどこだったけっかなぁ?旦那さんの方が律儀な方で引越し先を教えてくれていたような気がするんですけど・・・」

「凄く、重要な事なんです。お願いしますから、思い出してください!」

 俺がそう頼み込むと、マンションの管理人は腕を組みながら必死に思い出そうとしていた。

「確か、実家に帰るとかどうとか・・・」

 実家?篠田喬平の実家?確か記録しておいたよな、アレに・・・。管理人も必死に思い出そうとしている間に、俺も喬平の実家を記憶の内から探り出そうとした。東北・・・、宮城・・・、ああ、そうだ、確か仙台市。

「若しかして、その実家って宮城県仙台市ではないでしょうか?」

「そんなでしたかなぁ~?いやそれは違うと思いますよ」

「そうすると奥さんの方の実家になりますね・・・」

「ああ、そうだ、それだよ。奥さんの実家、長野。そうだ、そうだ、長野の諏訪だ。でも、それ以上は思い出せないで、すみません・・・・・・。エッ、奥さんの名前。ちょっと待ってください帳面を見ますから・・・、・・・、・・・、・・・、・・・、・・・、・・・、・・・、・・・、あぁ、あった、あった。若宮慧子」

 若宮慧子わかみや・さとこかか、夫婦別姓を名乗っていたようだ。長野の諏訪。諏訪市、それとも、下諏訪?諏訪神社がある茅野市?こうなったら現地行って調べるしかない。あとは向いながらその調べる手段を講じるしかないね。はあぁ、事務所に帰ってから、所持金確認しないと。

「管理人さん、御協力大変感謝いたします。それでは失礼させていただきます」

 俺は愛想の笑みを浮かべながら、管理人の前から立ち去った。車に乗り込む前に、田名部に連絡を入れて、明日から長野に行く事を伝え、俺が帰ってくるまでは独自に動いて欲しいとお願いをしてから携帯電話を切った。

 事故を起こさないように急ぎ、事務所まで戻ってくると、事務室にあるPCを立ち上げ、オンライン・バンキングで現在銀行口座に幾ら預金が有るか調べてみる。そこに表示されている金額を見て、これから後どのくらい行動できそうか、計算してみた。出てきた結果から、俺はつい両腕の肘を机に押し立てて頭を抱えてしまった。

「・・・、もって十五日か・・・、非常に厳しい。僕の懐は具合は切実のようだね・・・。何とか、やりくりしないと。でも、仙台じゃなくて良かった。今日は外食を自粛するしかないみたいだ、僕・・・、スタ麺か・・・、そんな物買って有っただろうか」

 俺は事務所の玄関の鍵をかけると事務室のコンピュータを点けっ放しで私室に向った。それから、台所をくまなく探すと・・・、食べられる物が一つも見付からなかった。当たり前だった。よく考えてみると、インスタント食品なんかここを借りてから、一度も買った覚えが無い。

 どんどこ亭とか言う近くの牛丼屋で安く夕食を済ませると、今日は報告書だけ作ってから、事件の推理はしないで直に寝る事にした。

 翌日四月十五日、日曜日。俺は朝六時半ちょっと過ぎに事務所兼自宅を出発していた。ステーションワゴンのラゲージ・スペースに必要な荷物を積み込むと、カー・ナヴィゲーションを弄くって、取敢えず長野県諏訪市の市役所を目的地にセットして、音声の指示に従って車を動かし始める。

 音楽やニュースを聞きながら、首都高速都心環状線から四号新宿線に乗り換えて、そのまま西に進み、中央自動車道で長野県諏訪市まで走り続けること大凡二時間半、市内を数分走って諏訪市役所近くまで来ていた。

 車の中で、篠田喬平が何処に住んでいるのかどうやって探そうか考えていた。市役所が教えてくれるはずも無い。仮に弁護士の権利を使って其れを請求しても出て来るまでに時間を食われてしまう。諏訪署に行って尋ねて見ても良いんだけど、簡単に教えてくれそうにも無いだろう。色々と聞かれたくないから、警察署を使うのは最終手段で、今日はJPS(*)を利用させてもらう事にする。

 市役所からそれほど離れていない所にJPSの営業局がある。そこへ向かうと郵送関係の窓口の事務職員に話を掛けて、喬平の現在の住所を教えてもらった。ただ、教えてといって教えてもらえるほど甘くはないんだよね。どうやって聞き出すのかは悪用されると困るので、言葉にはしない。企業秘密って奴だ。でも、この聞き出し方はとっても簡単な事で、説明を聞けば、ああ、そんなコトかと直に納得できてしまうような事。

 それから、偶然にも篠田喬平と言う同姓同名が複数人居ると聴かされたので、若宮慧子と言う人物と同じ住所の人が居ないか尋ねると、該当者が一人に絞られた。それから、俺はその住所を教えてくれた人に丁寧に挨拶をすると、プリント・アウトされた喬平の居る住所が載っている紙を持って車に向った。現在居る場所の土地勘の無い俺にとって書かれている住所が何処にあるのか解からない。そんな時、カー・ナヴィが有るととても便利だな、ってつくづく思うよ。しかし、何処をどう見ても住所に諏訪と言う文字は見当たらない。

 カー・ナヴィを頼りに中央自動車道を少し北に走って長野自動車道に乗り換え、だいたい半時間その上を走る。松本インター・チェンジで降りろと音声が聞えてきたので高速道路の標識を確認して、その場所から一般道へと出た。更に、それから糸魚川街道を北上して一時間。

JPS(Japan Postal Services)日本郵便、郵政公社の完全民営化後の呼称。





「ここが北安曇郡美麻村きたあづみぐん・みあさむらと言う場所か・・・」

 俺は車を運転しながら、村の様子を眺めた。長閑な田園風景だ。その風景の中で俺は生まれて始めて実物の水車を目にした。何となく感動して、嬉しくなってしまった。

 カー・ナヴィがあと少しで到着だと知らせてくる。その時前方の方を見ると何かの建物の前にずらりと長い列を作って人が立っていた。こういってしまうと悪い気分になるけど、こんな田舎であの行列はちょっと異常だ。一体何のために並んでいるのだろうか?そして、その行列の場所が到着予定場所だった様だね。

 駐車場も車で埋め尽くされていた。何とか一台分だけ、車を停める事が出来る空間があったので、俺はそこに他人の車にぶつけない様に慎重に駐車した。それから、車から降りて他人の車のナンバー・プレートを見ると・・・、広島、京都・・・、福島?結構遠くから来ているようだ。俺以外に東京都内から来た連中も居るようだった。

 正面まで来ると〝蕎麦屋・諏訪楼〟と言う文字と燕の形をした家紋らしき看板が目に入ってきた。確かに・・・、諏訪だ。腕時計を見て時間を確認する。丁度お昼時だった。しょうがない俺も列に並ぼう。移動しながら大体の人数を確認すると二百人近くも並んでいる。最後尾まで来ると俺は前の人にこの店について尋ねてみた。

「あの、済みませんけどちょっとこのお店について聞かせていただいても宜しいですか?」

「なんや、あんさん?スワロウをしらんちゅうのか?まったく何しにきとんねん。ここのそばとうどんをくわにゃ、死んでも死に切れんっちゅうほどの美味さや。わては長野市に出張があるときは必ずここへよってから家に帰る事にしとんねん。蕎麦は初代から、うどんは三代目から始めたそうやわ。それとなぁ、わて、まだ口にしておらんけど今年から五代目に替わったてなぁ、それがまたえろう評判が良いみたいなんですわ。ほんま、たのしみやなぁ」

「その五代目と言う人のお名前を御存じないでしょうか」

「勿論、知っとるがな。ナンセ、贔屓にしてる店やさかい。キョウヘイ、篠田喬平、其れが五代目を引き継いだもんの名前やて。ホンマ、アンさん、なんもしらへんな・・・。スワロウはホーム・ページとかにも一押しの店って告知されてまんねん」

「僕、ここへ足を運ぶのは初めてでして。大変、勉強になりました」

「おおきに・・・、ああ、そうそう、一つ言い忘れてた事があんねんけど、蕎麦も、うどんも玉数限定や、喰いッぱぐれん様注意せえぇ」

 関西弁を話すおじさんとそのまま会話を続けていると、俺の裏にも大分列が出来ていた様だね。それから、俺は自分の順番が来るまで、どんな風に喬平に話を切り出そうか、考えていた。仕事中は無理だろう。すると、ヤッパリ品が切れて、営業が終わってからしかないようだね。

 それから、丁度午後二時を回った所で俺も店内に入ることが出来た。何代も前から続いているだけあって建物に古さを感じるけど、とても雰囲気がいい。俺が日本人であるって言う事を認識できる様なそんな気分にさせる内装だった。

「御注文をお受けいたしますが、どちらになさいますか」

「この、特製鴨ネギそばを大盛で一つお願いします」

 中高生くらいの女の子が元気な感じで注文を受け取って其れを厨房の中に伝えていた。頼んだ物が来て、それが食べ終わった頃、外にはまだ陳列客が居たけど、蕎麦の方は今日はもう終わりみたいだった。別に食通って訳じゃないから何がどうゆう風に美味しいのか詳しく言えないけど、味の方は確かに美味い、大盛で頼んだけど、まだお代わりしたい気分だった。

 開けっ放しの軒先で、まだ、そばを食べたそうな風な事を口にしている人たちがいた。俺が大盛を頼まなかったら一人多く食べられたのんだろうね、ゴメンしてください、ってな感じにそんな連中を見て、店から出る瞬間に心の中で謝っていた。

 それから、店から客が全員遠退くのを長閑な自然を眺めながら待っていた。そして、食べられずに並んでいた客も散り散りになった頃に再び、店の中へと入らせてもらった。

「お客さん、申し訳に御座いませんが、本日はもう閉店です・・・?あら、先ほどのお客様、何かお忘れ物でもしたのでしょうか」

「先ほどのお蕎麦とても美味しく食べさせていただきました、御馳走様です。僕はこう言う者ですが、喬平さんにお会いしたいのですが」

 さっき俺の注文をとってくれた人とは別の品の良さそうな人物に名刺を渡し頭を軽く下げていた。その女の人は俺が手渡した物を見て困惑した表情のまま奥へ消えていった。少しも経たない内に、名刺を渡した女の人が再び姿を見せて、調理場まで通された。そして、その場所に出ると、一人の男が一生懸命そばを打っている姿あった。

「弁護士さんが私に一体どの様なご用件で?」

「昭元定次。篠田恭平さん、貴方、定次を知っていますね?」

「ああ、あの男か・・・」

「あなた、私は奥へ下がっていた方が宜しいのかしら・・・」

「別に聞いていても良い。慧子に聞かれて不味い事など一つもありはしないから・・・。ひじり志穂しほお前達は部屋に戻っていなさい」

「えぇええぇっ、なんでお母さんだけ良くて、私たちが駄目なのよッ、おとうさん!」

「聖おねえちゃん、向こういこっ。パパ、怒ると怖いんだから・・・」

 姉が妹に引っ張られる感じで、その姉妹は厨房から出て行った。その二人が完全に居なくなった事を確認してから、俺は再び、話を始めた。

「今から約十四年前に昭元定次とその息子が殺害されました。しかし、未だにその犯人の行方が解かっていないんです」

「ああ、知ってますよ、その事は。若しかして、弁護士さんは私がその犯人だとでも言いたいのですか?確かに私は二度ほどあの男を殺してやろうと思った事があります。ですけど、二度とも失敗してしまいました。確かに、私がやりうる動機は十分にありました。しかし、三度目のチャンスは訪れる事はありませんでした。何故って?私が日本に帰ってきた時にはあの男は勝手に死んでいたからです。当時、私はそのニュースを知ったときにほくそえみましたよ。誰かが、私達の代わりにあの男に罰を与えてくれたんだって。こんなことを言うのはいけない事なんでしょうけど、それを殺ッた方に感謝しています」

「日本に帰ってきたときに?若しかして、喬平さんは海外にでも出ていたのですか?」

 若し、それが本当なら堅実なアリバイになってしまう。ここまで来て、其れは勘弁して欲しい。

「弁護士さんが今何を思ったのか当ててあげましょうか?私のアリバイを証明できるのかって思ったのでしょう?慧子、まだあの時に使っていたパスポートを残してあったな。持ってきて弁護士さんに見せて上げてください・・・」

 喬平の奥さんがそのパスポートを探しに向ってから暫く、彼の事を聞かされた。勤続十五年働いていた商事会社が定次の罠に掛かり、当時の不景気の悪さも煽って、倒産してしまったという。そして、その会社の社長は多額の借金を抱えたまま、社員に払えるだけの給料を払うと首を括って自殺してしまった。倒産の理由を知っていて社長に深く恩を感じている喬平を含む五人はその社長の無念を晴らそうと定次に人誅を下す事を決意した。でも、其れは二度も成功を見なかったみたいだ。

 二度目の未遂事件の時の保釈金の出所は奥さんの慧子から条件付で出仕されたみたいで、彼女には絶対に頭が上がらないような事を口にしていた。それと、娘さん二人は喬平が二度も傷害事件を起こした事を知らないらしい。

「見付かりましたわ・・・、こちらです」

 話の途中で慧子さんがカバーつきの赤色のパスポートを俺に見せてくれた。中を拝借すると確かに査証の所に〝出国6、MAY、1997〟と言う四角の印と〝18、AUG、1997〟とう丸い形の印が押されていた。これの真偽は入国管理局に問い合わせれば確認できるけど、これが嘘でなければ喬平は犯人でなくなってしまう。

 俺が其れを確認し終えた頃、喬平は更に俺が彼以外に犯人候補としていた人物のアリバイを立証してしまう。田名部が追っている一人も、若し、喬平が被疑者じゃなかった場合に追跡し様としていた定次傷害事件に関係していた男は喬平達と一緒に同じ日に海外に出ていた。理由は海外支社の閉業とその後始末をする為だったと言う。

「若し、弁護士さんがまだ、私を疑うというなら、これだけは言葉にしておきます。手を血で染めた人間が人様に美味しいと言って頂ける物を造れるとお思いなのですか?私は無理だと確信しております」

 今の時代、人殺しをしても捕まるまで、何食わぬ平気な顔をして生活している連中が多いし、殺人現場に態々、野次馬として戻ってくる者や、気付かれるまで逃げもせずに殺害現場とそれほど遠く無い場所に住み続ける者だって居る。真面目な顔した奴だって簡単に事件を起こす世の中、喬平の言葉を鵜呑みにする事は出来ない。だけど、どうしてなのか彼のその言葉が嘘だと思えないのは何故なのだろうね。

「弁護士さん、あの事件が定次の息子の関係者の殺害事件では無くて、定次の方の怨恨の線から私のところに来たのでしょう?たぶん、私もその路線は間違っていないと思います。あの男に恨みを持つ人間は多く居ると思いますが、一人一人、当たっていけば見付かるのではないでしょうか。どうして弁護士さんなんかが刑事さんの様な真似事をしているのか私には解かりませんけど、まあ、頑張ってください」

 喬平の言葉に俺は鼻で小さく溜息をついてしまった。俺はそこで直に退かないで、成美さんに喬平が海外へ行ったのが事実かどうか電話で確認を取ってみた。

「ええ、ソウちゃん其れは確か見たいね。その時の監視映像もちゃんと残っているみたいよ。エア・ラインの搭乗手続きも間違いは無いみたい・・・。ところで、ソウちゃん、今は弁護士よね?いったい何をしているの?刑事みたいなことしてちゃってさぁ・・・」

「それは仕事上の守秘義務って言う物でして、幾ら成美さんでも教える事はで来ません。許してください」

「フフッ、解かってるわよ。ちょっと悪戯で口にしただけだから気にしないでね、ソウちゃん。アッと、いけない、お仕事に戻らなくちゃ・・・。ソウちゃん、私との約束を絶対守ってくれないと許しませんからね。それじゃ、バァ~~~イッ」

「篠田さん、アナタのアリバイが今完全に立証されました。疑って申し訳御座いません。僕の話しに付き合ってくださって有難う御座いました。それでは失礼します・・・。アッと、またこちらに出向いた時はここへ寄らせていただきます」

「それはありがたい事です。是非、またの御来店を・・・。その時はネタの数がある内にお願いいたします」

 実際に人殺しをやった人間は普段の表情を崩す事はないが心のそこから笑顔を作ることは出来ない。それは今まで俺が刑事だった頃の経験や大学時代習っていた犯罪心理学からそんな風に思っている。でも、別れ際の彼の俺に向けた笑顔を乗せた帰りの挨拶は・・・、自然で、とても健やかな物だった。残念だけど、彼はシロ。

 俺は車の中で何度も溜息を吐きながら、諏訪市まで戻っていた。そして、そこに到着した頃は山の向こうに沈みかけていた。昨今では東京都内でも簡単に温泉に浸かれるけど、せっかく長野まで来たんだから、頭と体の疲れを癒すべく、車を路肩に停めて、ラップトップの電源を入れてネットワークに接続すると諏訪市近辺にある温泉を検索した。

「上諏訪温泉街か・・・、あとはその場に行って、湖が眺められそうな所を直感で選ぼう・・・」

 車をそちらに走らせ、その場所に到着すると目に入った有料駐車場に車を停めて歩き始める。地元の人達だろうか、それとも観光客等だろうか?結構多くの人間がその街路地を行き交っていた。

 俺は気の向くまま、足の向くまま、日帰り入浴できる温泉を見つけるとそこへ入って行く。俺は運が良かったんだろうね、選んだその温泉は露天風呂で完全に陽が沈む前の諏訪湖を眺める事が出来た。

 大きな石を背に諏訪湖を眺めながら、定次の金融被害や詐欺に遭った人物リストから被疑者に成りえそうな人物を新たに搾り出すか思考し始めた。其れを始めてからどのくらい経ったのだろうか、風呂桶を湯船に浮かべ、その中に入れていた携帯電話が揺れだした。誰からか、連絡が入ったようだ。表示画面に掛け主の名前が表示されている。田名部の様だね。

「草壁先輩???何でありますか、その姿は?本官は必死に頑張っているのでありますのに」

 しまった、彼は俺と同じリアル・タイム画像通話型の携帯だった。俺が温泉に浸かっている映像が彼に見えてしまったようだ。でも、俺は言い訳をしないで素で流す。

「こっちでの仕事が終わりましたので、その疲れを癒す為に・・・、で?田名部君、僕に何か報告をする為に連絡を遣したのでしょう?」

「ハッ、そうでありました。本官が追っていた舘博志たち・ひろしでありますが、身元が判明して事情徴収にうかがった所、当時かなり有力なアリバイがあって容疑をかける事は不可能であります」

 そのアリバイについては既に篠田喬平から、聞かされている。俺の方もどうなったのか田名部に聞かせてやると残念そうな表情を画面向こうに見せていた。

「今日中にそっちに帰ります。明日、九時ごろに深川署に向うから、田名部君、キミもその時間には署の方に居てください。宜しくお願いいたしますよ」

「先輩、本官は甘い物が好きであります。明日と言うことでありますね?それでは本官、これにて失礼いたすであります」

 田名部は嬉しそうな表情を作って、そう言ってから電話を切ってきた。しょうがない、帰りに温泉饅頭をお土産に東京に帰る事にしよう。ああ、そうだ成美さんも、美琴先輩にも・・・。

 温泉場から出ると近くの商店で土産を見繕うと夕食になりそうな物も序に買って車を停めてある所まで戻った。

 今朝、東京から長野まで来た道を使って事務所まで帰って行く。帰り道は少し遅めの速度で運転していた為に自宅に到着したのは午後十時少し前だった。郵便受けに入っていた郵便物を手に持って事務所の中に入って行く。手に持っていた郵便物を確認しないで、それを事務室のテーブルの上に置くと部屋の明りを点けて、直に報告書作りに取り掛かった。

「こんな感じで、今日の分は良いでしょうかね・・・。明日からは別の種別で当たって見るしか無いようですね。其れが、吉と出るか、凶とでるか。さてとっ、推理する事も無いし、もうお風呂にも入っているし、明日の為に寝ましょうか・・・」

 ディスクトップPCの電源が切れたことを確認し、事務室の明りを消して、寝室に向かい就寝する事にした。

 四月十六日、月曜日。那智ご夫妻から依頼を受けてから十一日目。捜査の方針を取り決めて三日目。まだ、被疑者となりうる犯人は特定できず。でも、今はこの方法で進めていくしかない。

「お早う、田名部君。昨日はご苦労様でした。これ、たいした物じゃないけど・・・」

「草壁先輩、おはようで有ります。本官感激であります。早速ですが、今日はどうなさるお積りでありますか?先輩、ここでの話もアレでありますので、資料室を使うであります」

 彼とその部屋に入ると、ここに来るまで考えていたことを伝えた。

「ずっと僕の中で聞き込み検証していた時から気になっていた車について・・・。犯人が車なしで、二人の女の子を連れ去るのは不可能でしょう。ッて言う事であのリストの中から身長168センチくらい。そうだねぇ、誤差は前後1、2センチという事で車の免許を持っている人物を洗い出して、事情をうかがう事にしましょう。共犯者が居て殺害した人物とは別の物が車を運転していたら意味がないですけど、調べないよりはましでしょう」

「其れで有りましたら、交通課に有るコンピューターで検索を掛ければ直に出るであります。本官は其れをお願いしにいってきますので、先輩、ここで暫く待っていてくださいであります」

 田名部が俺のそばを離れている間、深川署の署長が俺のところに現れて事件の状況を聞かれていた。その署長は隠さないで本庁にその事件の捜査を持っていかれたことを愚痴っていた。何でも、俺の依頼人ご夫妻の娘といっしょに姿を消したもう一人の少女は署長の親友の娘だったそうだ。

「我が署は君に協力を惜しまない。出来ることがあったら、何なりと言ってくれたまえ」

 そう言ってくれるのは嬉しいけど、確実な被疑者が見付かるまでは警察には大々的に動いて欲しくはないんだ。本庁が麻薬関係や暴力団関係と睨んでいる内は若し、俺が思っている路線上に犯行を行った人物が居るのなら、其奴は多分、自分が追われているとは思っていないだろう。だけど、警察の動きには過敏に成っているとは思う。どこかで、こっちの捜査方法が変わったと言う事が世間に漏れてしまえば、時効前に犯人に逃げられてしまう可能性は高い。

 だから、それだけは避けたい。そんな訳で、今しばらくは田名部が力を貸してくれるだけで十分。加えて所轄署と本庁の立場って物もあるしね。

「その様なことをしたら、本庁が黙っていません。署長の立場が危うくなるだけですよ・・・」

「それでも構わん・・・・・・。田名部君が戻ってきたようだな。それでは私は失礼する。田名部、草壁君の命令には従う様に、それと管轄外の移動も許可する」

「ハッ、勿論であります、鞍名署長・・・、草壁先輩、先ほどの条件で調べたでありますが、十二人以下に絞り込めたであります。其れがこの結果であります」

 田名部から手渡されたプリンター印字の用紙を確認するとどの住所も東京都内のようだった。女性が二人とも居る。彼女等がシロだとは限らない。それに身長168センチの女なら洋平も吃驚して油断するかもしれないかね。

「田名部君、この二人の女性はこの近辺だから、君に任せましたよ」

「ほっ、本官がでありますか?そっ、それはちょっと・・・。この歳の女の方を相手にするのは本官には難しいであります・・・」

「お願いします。僕は23区外の場所に出向きますから、残りは田名部君にお任せします。それでは行動しましょうか・・・」

 渋顔を作っている田名部の背中を叩いたつもりだったが、なにぶん背が高い為に、彼の腰の部分を押す様な感じになってしまった。

 俺は車に乗り込むと、ここから一番遠い八王子市弐分方町。八王子って場所は知っているけど、ニブカタチョウか、そんな地名が有るなんって今まで知らなかった。直にそう読むことが出来なかったからカー・ナヴィに場所を指定するのにほんの少しだけ手間取ってしまった。椙田雅史すぎた・まさしこの人物が今から会いに行こうと思っている人だ。大型書店を経営していた男で不動産関係で損害を被り、その当時の多発していた本専門万引き屋の連中の被害も相まって、経営生命を断たれてしまったようだね。その万引きも定次の差し金だと椙田は思い込んでいると記録には書かれていた。

 車で甲州街道を西に走り、途中八王子市の本郷横丁から、陣馬街道(上野原八王子線)に移って十分くらいで椙田家に到着する。車から降りて、呼び鈴を鳴らすと出てきたのは本人ではなくて、彼の奥さんの様だった。彼女から彼の居場所を聞くと、先週、交通事故にあって入院していると聞かされた。病院はここからそう遠くには離れていない陵北病院と言う所に居るみたいだ。

 其れが判ると俺は彼女に軽く頭を下げて、その場を後にした。

「俺が、あんなヤツを殺したって?いい加減にしろよっ!確かに俺は数え切れないほどの恨みがある。だけど、そんなだからって、恨んで人殺しをするほど俺は腐っちゃァいねえよっ!ちっ、不愉快だっ、ここからでてきやがれ!」

「疑って申し訳御座いませんでした。それではお体をお大事に・・・」

 駄目だ、この男も被疑者にはなりえない。崩せないアリバイがあった。当時、重度の神経性胃炎でここに入院していたようだ。ここは個人病院とは違うし担当医も彼と親しかった訳でも無いから、グルになってアリバイを作った様には思えない。勤続二十年になるベテラン看護士の証言も加わって椙田に疑いをかける余地はなくなってしまった。

 仕方がなく、次の場所へと向う。東京都清瀬市中里に在住の地村由隆ちむら・ゆたか。小規模の配達業を経営している。

「エッ、社長はどこかって?今外回りしてるよ。えっ?何時帰ってくるかって?そんなのわからないよ。何、俺が何時からここで働いてるかって?さっきから質問ばっかしてるけどお客さんじゃないのか?お客じゃないんなら忙しいんだから、仕事の邪魔しないで呉れよ・・・」

 地村は現在、外出しているらしく、営業所は居なかった。そこの作業員一人を捕まえて、色々尋ねてみると十五年以上前からここに働いているその若者がハッキリと一九九七年七月二十八日の地村の行動を明言していた。

 当時、落ち込みかけた経営と、定次の所為で、自棄になっていた地村は俺と話している従業員を含む何人かを道連れに愚痴酒をしていたらしい。そして、丁度その時に撮った写真が存在していて、それを見せてもらった。故意的に写真機の日付を狂わしていなければ、正しくその写真は定次や洋平が殺された夜に撮られた物だ。

 本人に会って聞かなくても、それだけで容疑をかける事は不可能になってしまった。

「クッ、ここも駄目ですか・・・」

 会話を終わらせ、独りになると小さくそんなコトを口走っていた。でも、別にいらいらしているわけじゃないんだ。気分は至って平常。彼が駄目なら、次に当たるだけだ。今は可能性のある人物を一人一人当たって行くしか方法はない。

 西東京、三鷹、世田谷区、大田区・・・、誰も容疑をかけることの出来る様は人は居なかった。ここのアリバイも犯行を誤魔化す為に作られた様な感じは全くと言っていい程に無かった。

 俺は車内でペットボトル入りのスポーツ・ドリンクを喉の中に流し込むと、軽くした唇を噛んで、鼻でため息を吐いていた。現在、田名部から連絡を貰っていない事を考えると、彼の方も俺が望むような結果は得られていないんだろうね。

「・・・、ああ、そういえば、今僕は大田区にいるんですよね?ここにはもう一人、容疑を掛けられそうな人がいたような気が・・・」

 助手席に置いてあるラップトップを立ち上げると、記録していたリストから、その人物を検索して、住所と名前を確認した。ここから、そう遠くなさそうだ。行ってみよう。それと、それが終わったら、確か松永雄太もこの大田区に住んでいるはずだね?どんな人物かあってみよう。それと思い出したくないだろうけど当時のことも尋ねて見よう。このまま捜査を進めていく上で何か、見落としがあるかもしれないからね。

 大田区久が原に新田正孝にった・まさたかと言う人物が住んでいる。彼は定次の強引な融資と不当な利息でその頃、不況の煽りにも負けないで続けていた同区内になる町工場を潰されてしまったようだ。だけど、そのあとの事は一切、調書には明記されて居なかった。

 その住所に到着すると・・・

「アレェ、僕、記録した住所を間違えてしまったんでしょうかねぇ?僕の目が可笑しくなっていないのならこれは空き地と言う場所ですよね?・・・、近所の人、誰か在宅だろうか?取敢えず、尋ねてみるとしましょうか・・・、・・・、・・・、こんにちはぁ・・・」

「はい、こんにちは、どちら様でしょうか?ハアァ、弁護士さんですか。弁護士さんがワシになんかようかい?はあ、新田さん?ほら、弁護士さんの後ろの空き地、新田さんの家が有った所さ。えぇ?何で今は無いのかって。あんまり話したくないんですけどねぇ・・・。もう、アレから十五年も経ってしまっておるんだなぁ・・・。とっても暖かい本当に良い家族だったというのに旦那が持っておった工場が潰れちまってなあ、多額の借金で一家焼身・・・、自殺しちまったよ・・・」

「それは何時の事ですか?」

「ああ、よく覚えておるよ。なんたってワシが消防署に連絡を入れたんじゃから。たしか・・・、七月の中ごろ・・・、ああ、そうだ、海の日だったはずジャから、二十日の日じゃな。うん。ウン間違いない・・・」

 これは何かの偶然か?それって塩見事件が起きた日じゃないか・・・。

「つかぬ事をお聞きしますが・・・、新田さんは家族全員・・・、その・・・、お亡くなりになられたのですか?」

「可哀想に、旦那の正孝さんも、それはとても気立ての良い奥さんの夏月さんも、高校生の彰君と中学生になったばかりの梓紗ちゃんも・・・」

「そうですか、有難う御座います・・・」

 哀しそうな表情を浮かべている初老の人に悼みの気持ちを表情に現してから、頭を下げお礼を言ってから、その場を立ち去ろうとした。だけど、

「ただ・・・、ただ、なぜか、彰君の遺体だけは・・・見つからんかったそうなんじゃよ・・・」

「それは本当なんですか?」

「そう面と向って聞かれると、ただのワシの覚え違いじゃったかも知れんで、自信がなくたってしまう・・・」

 その人は困惑と申し訳なさそうな顔を同居させ、視線を俺からずらしてしまった。高校生か・・・、偶然、彰君だけが生き残って、焼身自殺に追い込んだ定次を・・・。だが、車を持っていない彼がその犯行を可能にするのは難しいだろう。仮に、運転技能を持っていたとしても、その頃、事件が起こった日に盗難車が有ったと言う報告は無いとファイルには書かれていたし、俺自身でも調べたことだから・・・。車?

「あの、その火事があった日に、新田さんの家の車庫には車があったのでしょうか?」

「二台とも有ったよ。消火が終わった後はもう乗る事の出来ない形に残っていたがね」

 彰君が後から、自分の家に戻ってきて自家用車を使ったって線も消える。それに、何より、彼が生きているって保証は何処にも無い。もう一度、その老人に礼を言ってから久が原を後にした。

 生きているって可能性も無くは無い。可能性が微塵にでも有るのなら、調べておいた方が良いだろうね。もし、田名部が今日、頼んだ事で何も得る事が出来ないようだったら、彰君の事を調べてもらう事にしよう。

 新田家の事を老人に聞き終えた頃はとっくに日が呉れていた。車に乗り込んで、それを発進させようとした時に、田名部から連絡が入った。

「草壁先輩、田名部であります」

「ああ、田名部君か。そっちのお勤めの方はどうだったかい?何かつかめましたか」

「一人だけ、非常に疑わしい人物が居たでありますが・・・、アリバイがまったく崩せないで有ります」

「どう、田名部君から見て、その人は?」

「今のところは何ともいえないでありますが・・・、疑わしすぎる事は明白であります」

「そうですか、僕もその人物と会ってみる事にしましょう。で、どなたなんですか・・・、はい、江岸さんですね・・・。僕は、まだ、回らなければいけない所が有るので、失礼しますよ」

「ハッ、頑張ってくださいで有ります。何か本官に協力できる事がありましたら、そちらにうかがうで有りますが」

「今は大丈夫。田名部君、今日はもう上がっても良いですよ」

「ハァ~、そうでありますか・・・、残念であります。それでは・・・」

 電話向こうの田名部の声は本当に残念そうだった。まあ、気にしていてもしょうがない。サア、松永雄太に会いに行くとしよう。

 中小零細機械工場、町工場と呼ばれる工場が数多くある大田区の東海道本線沿い、六郷地域。その仲六郷に彼は住んでいると田名部が調べていた。そして、雄太がいると思われる工場の明りはいまだに灯っていて、中からは機械が忙しく動いている音が聞える。その場所だけじゃない。周りの工場の大抵の場所からも聞えてくる。

 政府のこの地域のてこ入れによって今では数年前までの不景気の時とは打って変わって、非常に活気に満ちているって聞いていたけどこんなに煩くちゃ、この近所には住めないね。

「あの、すいませぇ~~~ん・・・、あのぉ~~~、す・い・ま・せぇ~~~んっ」

 駄目だ、全然俺の声が届いていないようだ。聞えていないんじゃしょうがない。仕事の邪魔だって解かっているけど、中に入らせてもらう。

「すみませんが、尋ねたい事が有るのですけど宜しいですか?」

「はい、なんでしょうか?」

「こちらに、松永雄太さんと言う方が勤めていると聞いてきたのですが」

「工場長?松永工場長が何か?」

「僕はこういう者なのですが、松永雄太さんにお会いしてお話したいことがありまして」

「弁護士ですか?奥に居るんで呼んできますから、ここでお待ちください」

 俺が声を掛けていた作業員は俺をその場に残して行ってしまった。待たされること数分、油まみれの作業着を着た一人の男が、さっきの作業員と一緒に俺の前に姿を見せた。

「私にお話があると言う弁護士の方は貴方ですね?」

「はい、僕は草壁剣護と言うものですが、少々込み入った事で時間を取らせてしまうかもしれませんが宜しいでしょうか?」

「どうぞ、それでしたら、奥の休憩室でうかがいましょう」

「それでは、お邪魔させていただきます」

 休憩所に通されて、そこの椅子に座り、彼に十四年前のあの事件の事について尋ねる事にした。

「十四年も前のことを思い出させてしまうのはとても恐縮してしまうのですが・・・」

 俺が雄太にそう口にした時、彼の表情は翳り、俺から顔を少しだけ背けていた。その翳りが憎悪から、悲哀からか、それとも憐憫から来るものなのか解からないけど、そんな表情をしていた。でも、彼が口にする言葉に何故、その様な顔を作ったのか理解するのは難しかった。

「聞きたいのは親父と兄貴の事ですね・・・。草壁さん、私が二人を殺したのだと思っているのですね。・・・、私が二人を憎んでいたからと言う理由で・・・、私が第一発見者でもあるし・・・」

 雄太が定次と洋平を憎んでいる事は調書にも書かれていて、俺もその事は知っていた。当時、第一発見者であったが二人に対してその様な感情を抱いていた為に一度、容疑者として疑われるが、二人が殺害された時間には学習塾に出席していて、アリバイはその時に同じ場所にいた受講生も講師も証明している。

「正直、あの頃、私が親父と兄貴をあんな姿で発見した時に悲しみよりも先に嬉しさがこみ上げてきた。だって、そうでしょう?憎んでいた相手を自分が手を汚さずに勝手に死んでいてくれたのですから・・・・・・。病弱だった母さんは親父の所為で命を落とし・・・、私は兄貴や親父が暴力団だったからそんな理由で学校で苛められたりもした」

 ・・・、親が暴力団だと知っていたら、普通、怖くていじめなんか出来ないぞ。苛めはよくないけど相当屈強な精神の連中だったんだねと、何故か心の中で苦笑してしまっていた。

「でも、彼奴がいてくれたから私は、苛めにあっていたけど、二人が死ぬまで、普通に学校に通えたんですけどね・・・」

「あいつって言うのはどなたですか?参考までに聞かせて戴ければありがたいのですが・・・」

「小学生からの親友で橋場雅巳はしばまさみって言って今でも親友づきあいさせてもらっていますよ。先日、久しぶりに会ったんですけど、一緒に飲んでいたときの事ですけど、とにかく凄く上機嫌でした」

「・・・?僕のお話してもらいたい事と、話しがずれてしまったようなので、戻させていただきたいのですが、ハッキリと断言しておきますけど僕は貴方に容疑を掛けに来たのではなく、その時の状況を聞きたくて足を運んだわけです」

「ハァ、私なんだか先走ってしまった様で・・・、では、私に聞きたいこととは何なのでしょうか?答えられることは答える積りです」

「雄太さんは二人が殺されてから、大凡、一時間後の帰宅となっていますが、塾から家に帰る途中に車を見かけませんでしたか?三好町付近で」

「えぇっ、車ですか?其れがどうかしたんでしょうか?確かに見ましたよ。車にはその頃から好きだったので車種も覚えています。日本では珍しいクライスラーではなくてダイムラー・ベンツ。色は街灯が無い場所だったのでハッキリとは特定できませんが暗めの色です。その時、一緒に雅巳もいたから・・・、ウぅン?確かあの時、雅巳の奴その車を見てどうしてか不思議そうな顔をしていたな・・・」

「その、橋場雅巳さんと言う方は何処に住んでいるのか、出来ればお教えしていただけ無いでしょうか?」

「雅巳?彼奴が何時大田区に移って来たのか聞かされて無いですけど、蒲田の駅付近に住んでいるって・・・、ですが、ちゃんとした住所までは教えてくれないんですよ・・・」

「其れではしょうがないですね・・・。では、最後にこの方の事ですけど・・・、どんな些細な事でも良いです。何か知って居ればお話してください」

 俺が言って朱鳥さんの写真を見せた時、雄太の顔は俺が始めて話を切り出した時に見せたのと同じ翳りを見せていた。そして、彼は拳を握り壁に突きたてながら、口を動かし始める。

「私がもっと早く気付いていれば、那智さんも、橘さんも、救えたかも知れないのに・・・、悔やんでも、その事だけは悔やみきれません。兄貴は極道だけど、それでも親父と違ってまだ、ましだった。だけど、親父は外道でした。事件後に親父が二人をどこかに売り飛ばそうなんて事を企んでいたのを知って私は酷く自分を恨みました。親父等が殺される一週間前から、家に女の子の靴が二足も有ったのに、不審にも思わないで・・・、見過ごしてしまった。其れさえなければ・・・」

 それから、暫く延々と、雄太の悔やみの気持ちが彼の口から出されていた。そして、朱鳥さんも、もう一人の少女も同級生だったと言葉にしていた。

「その様な訳で、私は海星に入学して一年も満たない内に東京から少し離れた所にある母親の実家に引き取られ、大学を卒業するまではずっとそこに置かせて貰ったんです。・・・、・・・、・・・、・・・、・・・、・・・、・・・、・・・。草壁さん、若しかして、草壁さんは親父等の事件を追っているのですか?犯人を捜しているのですか」

 雄太の目が何かを俺に訴えている。其れが何なのか、理解する事はそう難しいことじゃない。

「ええ、そうです」

「親父らの事なんてどうでも良いですけど、無関係な同級生を巻き込むなどと言う事は絶対許せない事です。草壁さん、お願いします。捕まえてくださいっ、其奴を・・・」

「無論、その積りですよ、僕は・・・。お話してくださって御協力感謝します。また、何か尋ねたい事がありましたら伺いますが、その時はまた宜しくお願いいたします」

「私のほうも出来る事なら、話せることなら協力します」

「そうですか、有難う御座います。では、お邪魔しました」

 思っていた以上に色々と複雑な事件ですね、これは。工場の中を外に向って歩きながら、時計を確認していたら、もう午後八時になりそうだった。どうしようか、蒲田に行って橋場雅巳と言う人物を探してみようかな?ここからそれほど遠くないしね。

 そう思ったら早速、蒲田駅前まで車を移動させて、近くの駐車場に車を預けると自分の足で、駅の周りにあるマンションやアパートなどを回って橋場の住んでいる場所を探り始めた。駅の周りって言っても住む場所はいっぱいある簡単には見付かりそうも無い。この時間は最寄りのJPS事務局は閉まっていて、長野で使った手は利用できないし、住民の管理をしている区役所は当の昔に終わっているし、警察に言って聞いたって、橋場が警察に厄介になったことが無いのなら、そこを尋ねても意味が無い。そんな訳で、俺足での聞き込みしか選択肢がなくなってしまう。

 本当は都内の事なら成美さんに連絡を入れれば、ちゃんと住居を持っている人物なら直に特定できるんだけど、貸しを作りっぱなしだと、後が大変だし、美琴先輩にも〝どうして、私ではなく、成美なんかに頼るのよ〟等と文句を言われそうなので・・・。

「はぁ・・・。もうこんな時間か、どうしよう・・・」

 言いながら時計を確認すると午後九時ちょっと過ぎ。いつの間にか蒲田の繁華街に出ていた。俺の目には多くの飲み屋らしき看板が見える。少しくらい、飲んでも良いかな・・・。落ち着けそうな店を外見で判断して中に入って行く。

「いらっしゃい・・・。初めてのお客さんですね。どうぞ、カウンターへ」

 こじんまりしたその店の中は客は少なかったけど、楽しんで酒の入ったグラスを口につけているようだった。俺を呼んでくれたカウンターのマスターらしき人も、とても良い感じの人だった。

「何にいたします?」

「カクテル出来ます?」

「何なりとどうぞ・・・、クウォーター・デッキですか?少々お待ちください」

 頼んだものを造って貰うと、それを少しずつ、呑みながら、静に何の気なしに、周りの会話をじっと耳に入れていた。聞えてくるのはマスターと他の客の世間話や、点けっ放しで誰が見ているのか解からないテレビ放送、誰かの愚痴や独り言など・・・。どれを耳に入れても、俺が追っている事件の解決になる様な手がかりなんかあるはず無いよね。

 アルコールの耐性は強い方じゃないけど、何杯目のカクテルを口に運んでいた時の事だろうか。

「其れでは午後十時のニュースをお伝えします・・・。先日から相次いで起こっている荒川区の連続通り魔事件はいまだ解決を見ず・・・」

「アァ、聞きたくない、聞きたくない。厭な事件ばかりだ。警察は一体何をやっている・・・刑事辞めて、弁護士なんかになって僕は一体何をやってるんでしょうね・・・」

 アルコールに体を支配されているからって言って、今負っている依頼が思うように進展して無いからといって、そんな事を理由に愚痴なんかを零したくなかったけどテレビから聞えてくるニュースの内容を耳にしちゃって、俯いたまま、ブラック・ルシアンが注がれていたグラスを割れちゃうんじゃないかってくらいに強く握り締め、そんな愚痴を零していた。

 そんな俺の気分をよそに、ニュースでやっている報道や天気予報なんか気にもしないで他のお客さんは楽しそうに他の誰かと会話を交えている。

「なんか最近、・シバ、お前景気良すぎないか?」

「そよぉ~、ハ・バぁくぅん。調子のりすぎぃ~~~ってかんじかなぁ」

「まぁさちんが〝あの時、奢ってやったんだから奢り返せ〟って言ってもあたしゃぁ、やだかんねぇ~~~だぁっ」

「おれぇのほぉはきぶんしだいかなぁって事よハッシー」

「てめえぇら勝手言いやがって、良いだろう。奢りたくて奢ってんだから、一山当てたんだ。独りで遣うのもなんだって思ってこうやってお前等と飲んでるってぇのに・・・・・・、まっ、別に良いけどね。へっ、言いたい事、云ってくれよっ!」

 俺の聞き違いだろうか、会話中の客の中にハシバ・マサ・・・が居るみたいだ。・・・?ハシバ・マサミ・・・・・・、橋場雅巳。そんな偶然あるわけ無いか・・・。単なる気のせいだと思って、俺は最後の一杯と決めて注文した今グラスを握っているカクテルをゆっくりと飲み干していた。

「おぉぉ手前等、お開きにしようぜ。マスタァ~~~、会計たんまぁ・・・」

「ハシバ君、お帰りですか?」

 バーのマスターは今確かにハシバって口にした。そして、俺はその呼ばれた男の顔を相手に気付かれない様に視線だけを動かして目の中に移す。あの男が橋場雅巳なのだろうか?俺がそんな風に思っていると、その男は会計を済まして、店を出てゆく。見当違いでもいい。取敢えず、俺はあの男を追って見る事に決めた。

「マスター、お金ここにおいて起きます」

 そう言って財布から一万円札を取り出して、テーブルに置くと酔いを払うように頭を振ってから急いで表に出た。結構まだ外には人が居て、周囲を見回しても、直にその男を見つける事はで着なかったけど、何とか見失わずに済んだ。

 俺が今やっている行為は尾行。刑法に属するストーカー対策法と、民法の中にあるプライバシーの侵害の強化から現法律では特殊機関及び、法曹や警部補以上の地位のある警察官等以外の一般人がこの行為を犯すと、刑法として扱われ、刑罰もそれなりに厳しい。

 だけど俺はこれでも一応法曹界の人間だし、現在は十四年前の事件の手がかりになる物を追っているだけで、あの男の秘密を暴いてどうにかしようって訳じゃないから、何ら問題はないだろう。そんなコトを心の中で思いながら、彼を追った。

 店でハシバと呼ばれていた男は俺が探していた駅東側じゃなくて、西側の方に向かって歩いてゆく。酔っ払いを装って彼を追跡して、だいたい、徒歩で十分程度だろうか?結構あの店から近くに有る高層マンションに住んでいる様だった。男はマンションのエントランスに入ると直にエレベーターに乗り込んでしまった。だけど、俺は慌てない。彼が乗った其れの階数表示をしている物を見て、停止する階を確認した・・・。六階、十八階、それと二十七階か・・・。エレベーターが一階まで下りてくるまでに停まった階はその三箇所。

 今は俺もまだよいが冷めない状態だ。彼に会うのは明日にしよう。そう思った俺は車を停めている駐車場まで戻ると酔いが完全に冷めるまでその中で眠る事にしたのだった。

 四月十七日、火曜日。俺は一度事務所に戻ってから昨日分の報告書を纏め上げて、身支度を整えてから、橋場が住んでいると思われる高層マンションへと戻っていた。だけど、俺がそこに行った時には既に彼は仕事に出ていてマンションの中には居なかった。

 橋場雅巳の住んでいたのは六階の非常口近くの部屋だった。彼の隣人でまだ仕事に出ていない人達を捕まえ、彼のこの辺の評判を聞く事にした。口は捻くれていて性格は真面目な方では無いらしいんだけどね、結構人付き合いは良いみたいで、周りの人は気軽に接触をしているようだった。昨日のあの店での彼の態度を考えればそれなりに理解できる事だった。

 しかし、聞く人皆に橋場はどんな仕事をしているのか聞いて見るとその答えは返ってこなかった。どんな職種なのか聞く人全員知らない感じ。夕方には一度帰ってくるらしいけど、何かと最近は直に出かけてしまうようだと住人の二、三人から聞くことが出来た。

 夕方までには、まだ、だいぶ時間が有る。時間を無駄にしたくは無かったから、その間に出来ることをして、再び橋場のマンションに戻ってきていた。現在、午後四時半を少し回った所だ。彼の部屋の様子を確認したけども、返ってきた様子も無いし、居留守を使っているような感じでもない。

 俺は非常口階段の影に隠れて、橋場の帰ってくるのを待っていた。物陰の階段に座りながら、今日までの事を整理しようと思った時にマナー・モードにしていた携帯電話が振動し始めた。俺は其れに小声で対応する。

「はい、草壁法律相談所の草壁です・・・?ああ、田名部君ですか」

「ハイッ、本官であります。江岸について報告がありましたので連絡を入れさせてもらったで有ります。先輩の言いつけどおり、車関係の事で彼について身辺調査を行ったで有りますが、どうやら、数日前に轢き逃げをしてしまったらしく、その事で我々に対する応対に挙動不審な所を見せたと言う事であります。今現在、本官が彼を署まで連行したしだいであります」

「それでは十四年前の事件とはまったくの無関係と言う事ですか?」

「其れに関して江岸は一切否認しております。残念ながらそうなってしまうで有ります」

「残念な事は無いよ、田辺君。僕達が追っている事件と関係はないかもしれないけど、君はそれでも一つ手柄を立てた事になるんですからね」

「恐縮であります」

「江岸がシロだったなら、僕が頼んでおいた事を調べて置いてください」

「了解であります・・・。草壁先輩は今張り込み中のはずですからこれにて失礼するで有ります」

 言って田名部は携帯画像越しに何べん言っても止めてくれない敬礼を俺に向けていた。しかし、彼との会話中に橋場が戻ってこなくてホッとした。

 それから、何度と無く腕時計で時間を確認しながら、橋場の帰ってくるのを待っていた。外はすっかり暗くなっている。そして、もう一度時間を確認しようとした時、気の抜ける様な独り言を呟く男の声と一緒にこちらの方に足音が近付いて来るのに気が付いた。

 彼が扉を開けて部屋の中に入って行く。直には彼を尋ねない。少し間を開けないと怪しまれる。そんな訳で、俺は腕時計で一分過ぎるのを待って橋場を尋ねる事にしたんだ。

「今晩は、僕はこのような職の者ですが、橋場さんの家はこちらで宜しいでしょうか?」

「弁護士だぁ?あんた何処に目ぇ付けてんのさ?表札にちゃんと書いてあるだろう。ハシバ、橋場ってなぁ。で、その弁護士さんが俺に何の用さ?」

 橋場は俺に疑いの眼差しを向けながら、腕組みした格好で言葉を返してきた。この手の相手は変に刺激すると何も言ってくれそうの無いし、逆切れを起こしかねない人物だって事は既に調べ済み。穏便に運びたい所だけどうまくいくだろうか。

「随分と前の事になりますので、橋場さんが直に思い出していただけるかわかりませんが・・・、十四年前の昭元家のことなのですけど」

「なぁっ、ななあぁぁ何言ってるんだ、あんた。オッ、俺は何も知らないぜ。雄太の親父が殺された事件なんか、きっ、聞いたことも無いぜ」

 俺は一言も事件とは言って無い。口調はどもり、表情が慌てふためいている。非常に解かり易い対応だ。こんな彼が二人の男を殺して逃げ回れるはずが無いんだ。彼が被疑者に成り得ない事は既に分かっている。だから、俺が今最も知りたがっている車の事だけを尋ねる。

「橋場さん、慌てないでください。僕は君を疑っているって訳じゃないんです。ただ、その当時に一台だけ不審車について聞きたいだけなんです」

「弁護士さん、アンタ、草壁っていったっけ?ンでそんなコトを聞くのさ?って言うか、なんでそんなコトを俺に尋ねるわけ?何にもシラネェ~~~ッテ言ってるでしょうが。俺は忙しいんだよ。今から出かけなくちゃなんないんだっ!話しにはもうこれ以上付き合えねえよ。かえんなぁ」

 あからさまに隠してますって表情を橋場は俺に向けながら、玄関の戸を閉め様とした。だけど、ここで引き下がる訳には行かない。俺は扉のノブを掴み其れを静止させて、空いている手でスーツから一枚の写真を取り出して彼に見せながら言葉を投げかけた。

「この写真の女の子の御両親に頼まれて、僕は十四年前の事件を追っているんです。未だに行方不明の彼女の為にも是非御協力してほしいんです」

 俺がその写真を見せると橋場はほんの僅かだけ悲しみの表情と憎しみの表情の顔の形と目の色を変えていた。

「うぜぇよっ、何にも知らねぇって言ってるだろうがっ!とっとときえやがれっ」

 橋場は怒声と一緒にありったけの力で俺が抑えていた扉を閉めてしまった。あの態度、絶対彼は何かを隠している。でも、今の状態じゃ、彼から何も聞きだす事は不可能だろう。今日は出直すしかないって思って俺は帰る事にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る