2015/08/08 オークニー諸島の宿屋

 史跡の案内を終えたフランは、他の宿泊客と一緒に夕食を食べ、そのまま柔らかい床に就いた。一日一日が、光のような速さで過ぎ去っていく。寝る前に将来のことを考えようと思っていた彼女だったが、あまりの眠気に耐えられず、いつの間にかすやすやと眠ってしまった。


 ……かなり疲れていたからだろうか、明朝の夢は実に不思議なものだった。ライラックの花々に囲まれた、見目麗しい女性。烏のように黒いドレスに身を包み、滑らかな茶色の髪を、頭の後ろできれいに纏めている。彼女は鮮やかな瞳を優しく細めて、じっとこちらを見つめていた。

「あなたは、一体……?」

 フランは弱々しく手を伸ばす。彼女の容姿を眺めていると、名前を尋ねずにはいられなかった。

「ねぇ、教えて……。あなたは、一体誰なの……?」

 夢とは輪郭の甘い雲のようで、自分の行動すらも把握することができない。フランも彼女に歩み寄りながら、何故自分が彼女のことを知りたがっているのか、全く分からずにいた。

「我は戦う者の妻。そして愛を選ぶ者」

 女性が唇を動かした途端、ライラックの花が風に乗って揺れる。彼女の髪についた黄金の飾りが、陽の光に反射して小さくきらめいた。

「真実を願い、全てを受け入れよ。さすれば幻想への扉は開かれ、大いなる蝶が舞うだろう」

 その言葉を最後に、女性の姿はすっと遠くなっていった。フランは呼び止めることもできずに、ただ放心したようにそれを眺めていた……。


「……なさい。起きなさい、フラン」

 ……母に何回か肩を揺すられ、フランはようやく目を覚ました。空はすでに朝の支度を始めており、その色で随分と寝坊してしまったことに気付く。

「ごっ、ごめんなさい! 朝食の準備、すぐにするから!」

「ご飯の準備は、母さんがしておいたわ。その代わり、廊下の掃除をお願いね」

 一階のキッチンからは、宿泊客の談笑が聞こえてくる。フランは何だか申し訳ない気分になりながら、不思議な夢のことなど頭の片隅に放り投げて、さっさと着替えを始めた。

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