第9話

 厭なアラーム音が無いだけで、休日の朝の景色は彩りを帯びる。

 今日は兄と、プロの打楽器奏者の演奏を観に行くという、僕にとって一大イベントが待っている。

 僕は期待に胸を躍らせ、朝食を食べていた兄に、明朗と朝の挨拶をした。

 「昨日の合奏はどうだった」と、食パンを齧りながら兄が訊いてきた。

 僕は「まあ、ぼちぼちかな」と曖昧な返事をしながら、昨日の合奏を振り返る。何故か、管楽器の誰かが筆記用具を落として顧問に叱責されたり、トランペットが高音で派手に音を外して笑いが起こったりといった、他愛の無い事ばかりが想起された。

 「辻君はどうだった。スネアドラムも巧かった?」

 兄が辻の名前を知っている事に困惑し、その理由を訊いたら「健二がこの前名前を出していたんじゃないか」と言われた。その時の僕は無自覚であった。

 辻のスネアドラムにどう感じたか答える代わりに、「アニキは、ドラムを叩くとき何を考えてる?」と訊いた。

 「そうだな、あまり何も考えてないかもしれない。ただ楽しんでるよ」

 ただ楽しんで叩く。昨日の僕は果たして、音楽を素直に楽しめていただろうか。音楽を聴く時のように、演奏できていただろうか。

 僕の思考は自然と辻の事に移っていた。彼が楽器を叩くときの表情や体の動きと、彼の奏でる音は、何となくミスマッチしている気がした。

 

 僕と兄は電車でコンサートホールへ向かった。

 休日の電車は、隣に兄がいることも相まって、全く違う様相を呈していた。電車内の人々の表情は、心なしか明るく見えた。

 コンサートホールは満員であった。席に座って待つ僕と兄の会話は、出演する三人の打楽器奏者の事に終始した。

 ホール内が暗くなった。視界からあらゆる情報が消え、ステージのみが煌々と輝くこの瞬間が、堪らなく心地良い。

 ステージの裾から三人の打楽器奏者が現れた。彼らの足音だけが会場内に鳴り響く。遅れてさざ波のような拍手が起こる。

 打楽器奏者が腕を振り上げたかと思うと、ティンパニの音から演奏が始まった。

 スネアドラムの細かいリズムと、マリンバの優しく暖かい響き。それにティンパニがメリハリをつける。

 音の一つひとつが細胞となり、ひとつの生命体が産まれる。それは現実には存在しえない、理性を一切兼ね備えない生き物だった。

 打楽器奏者はお互いの呼吸を感じながら躍動していた。

 僕はそれを見ながら、自分も一人の打楽器奏者なんだと、自分自身に言い聞かせた。しかし理性がそれを邪魔した。僕は考えることを放棄しようとしたが、言葉は執拗に僕を追ってきた。

 ふいにスネアドラムが刻んでいたビートが止まった。間髪入れずにピアノのメロディーが聞こえてきた。その優美な音は、僕の傍に寄り添うように、心を解きほぐした。

 もう一度ステージを見ると、ピアノの前で鍵盤に手を置き、緩やかに動くピアニストがそこにいた。

 僕は目を閉じた。また言葉が浮かんできたが、不思議と今度は、音と調和した。

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