第3話

「えっと」

「たぶん、私が経験したここ10年間で一番つまらない瞬間だったね」

「滅菌方法はいくつかあるけど、まずは加熱すること」

「うん?さっき菌って熱に強いやつもいるって言わなかった?」

「だから、そいつらが耐えられないほどの熱を加えるんだよ。具体的には121℃、2気圧、20分」

「何その数字」

「熱に強い菌でも死ぬ条件がそれなんだよ。この条件で熱をかけるのをオートクレーブっていうんだ」

「それってなに、鍋でも使うの?」

「まあ、でっかい圧力なべみたいなもんだとおもって」

「にしてもさ、空中を飛んでる菌だっているんでしょ?それは防ぎようないよね?」


 須藤君はにやりとした。


「アルコールランプがずっとついてるの、気が付いた?」

「そりゃ気が付くでしょ。危ないなと思ってたよ」

「これ、実は空中の菌が落ちてくるのを防いでるんだよ」

「はあ?」

「無知な片山さんでも熱せられた空気が上に行くことは知ってるよね?」


 私は彼を再び蹴った。


「いたい」

「熱せられた空気が上にいって上昇気流をおこすってやつね。さすがに知ってるよ」

「上昇気流が起こっているところに菌は落ちてこない。当然だよね、下から風が吹いているところには埃も落ちない。菌は埃よりもっと軽いし」


「とりあえず道具や空中から雑菌が入らないってのは分かったけどさ……」


 私は最初の問題を思い出した。今調べたいのは食中毒菌がいるかどうかだ。じゃあ他の雑菌とどう見分けるのだろう?


「ちょっとまって。いまはさ、そのバシ…何とかが」

「バシラス・セレウスね」

「そのバシラス・セレウスがごはんの中にいるかどうかを調べるんだよね?」

「そうだよ」

「でも、ごはんの中にもセレウス菌じゃないやつがたくさんいるんだよね?どうしてその増えてきた奴がセレウス菌だって分かるの?」


 なんとなく、須藤君がしかめっ面をしたような気がした。


「さっき片山さんが中二病って言って流した部分が大事だったんだけどな」

「え?」

「だから、卵黄加NGKG寒天培地っていう培地でセレウス菌を見分けられるんだよ」

「どういう事?」

「卵黄加NGKG寒天培地は選択培地の一種だよ」

「センタク?」

「選ぶのセンタクね」

「何を選んでるの?」

「もちろんターゲットにする菌を選んで増やすんだ」

「今回で言えばセレウス菌ね」

「そう。で、仕組みはターゲットの菌、セレウス菌が増えてきやすくて、他の菌が増えないような環境を培地の中に作る」

「そんなうまくいくの?だってみんな菌なんでしょ。似たようなものじゃん」

「またいっしょくたにする……。あのさ、例えば、片山さんとクラゲ……」

「なんで私を無脊椎動物と比べたがる!?」

「いや、身近な例だと思って……。まあいいや。じゃあ、片山さんがハツカネズミと熱帯魚を飼ってるとしようか。で、どっちもオスとメスそろってる」

「飼ってないけど」

「飼ってる。で、片山さんはがめついから……いてっ……商魂たくましいから、ハツカネズミと熱帯魚を繁殖させて一儲けしようと考える」

「私を何だとおもってるのよ……」

「それでさ、質問なんだけど、そんな時ハツカネズミを水入れた水槽で飼う?」

「飼うわけないじゃん!溺れちゃうでしょ」

「そうだよね。じゃあ、熱帯魚も木屑がたっぷりのケージで飼わないよね?」


 なるほど、少し理解してきた。


「生物には適した環境があるんだ。水中で息ができないハツカネズミは水中に入れたら溺れるし、熱帯魚は地上じゃ生きていけない。生きていけなきゃ増えることももちろんできない。じゃあ、もしもハツカネズミと熱帯魚が目に見えないくらい小っちゃくて、熱帯魚だけ増やしたいとしたらどうする?おが屑たっぷりのケージに入れる?」

「……」

「今回で言うとセレウス菌が熱帯魚で他の菌がハツカネズミなんだ。水中ではハツカネズミは生きられないけど、熱帯魚は生きられるでしょ?それと一緒」

「じゃあ、そのハツカネズミにとっての水って雑菌にとって何になるの?」

「グリシンとポリミキシンBだね」

「‥‥‥」

「うん、わかってるよ、わかんないよね、だって片山さ……」

「おい」

「……目がマジすぎる」

「で、その呪文みたいなのは?」

「グリシンはなんとなくわかるでしょ?アミノ酸だっていうのは生物の授業で教えてたけど」

「わかるけど、それが何で……」

「グリシンとポリミキシンBはハツカネズミにとっての水中だよ。グリシンとポリミキシンBがあると他の菌は生きることができないんだ。そしてセレウス菌だけは生き残って、増えることができる」


 ふと私は思った。


「いや、それにしてもだよ?そりゃ世界にハツカネズミと熱帯魚しかいなければそれでもいいけど、現実には犬も猫いればクラゲもタイもいるじゃん。水中に居れたらクラゲもタイも熱帯魚と一緒に増えてきちゃうんじゃないの」

「おお、まじか」

「え、なに?」

「いや、いい質問すぎてびびった。そうなんだよ。同じ条件をそろえてもターゲット以外の菌が増えることは全然あるんだ。だからターゲット以外が増えてきても見分けられるようにする」

「ん?今までも見分けるためにやってたんじゃないの?」

「今までの説明は特定の菌だけ増やすこで見分ける方法だったんだけど、目で見て判断できるように色を付けることができるんだ」

「いろ?」

「えっとさ、フェノールフタレインは分かる?」

「わかるよ、小学校の頃、理科の実験でやった。アルカリ性になると色が赤くなるやつね」

「そう!そしてセレウス菌は培地をアルカリ性にする」

「じゃあ、そのラン…」

「卵黄加NGKG寒天培地」

「その寒天培地はセレウス以外の菌をできるだけ増やさないようにして、セレウス菌が増えたら色で見分けられるようにしているってことね」

「そのとおり。まあ実はNGKGに限っても卵黄反応とか他の目印も併用してたり、培養温度の条件を決めてたりするんだけどね。それに」

「それに?」

「色々ターゲットを絞ろうとしても実は完璧にはセレウス菌どうか判定できないんだ。だからこの検査をした後も確定試験ってまた他の検査をしたりする。まあ、そこまでやる道具がないからやらないけれど」

「いや、そもそも検査しようって思わないから……」


 私はあきれた顔をしていたと思うが、それでも一方、不思議な感慨を覚えていた。もし趣味だとしても、こんなに詳しくなれるものだろうか?

そんな風に考えていると、須藤君が静かに言った。

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