おもしろおかしく生きて死にたい
中田満帆
おもしろおかしく生きて死にたい
地のレベル――犬の視点──から世界を見ると、どのように見えるのだろう。
イアン・ジェフリー「写真の読み方」
モリエールはおもしろくない。おかしくもない。少なくともおれをふるいたたせてはくれないから7階の窓から放った。「いやいやながら医者にされ」だ。あるいはシェリダンの「悪口学校」を。地上の小屋のうえをおれの投げた塵芥がみえる。チーズの包み、サーディンの罐、領収書、よごれきった下着、嘔きだしたもろもろたち。仕事はない。なにもなかった。やることといえば近所のどでかいスーパーマーケットで喰うものをかっぱらいにいくことだった。午に眼を醒ますと、いつも弁当はない。ひどい飯場だ。入って1ヶ月もまるまる食い扶ちをまわしてもらえない。新聞の求人があまりあてにならないことはわかってる。大阪駅前ビルの地下でそれをおもった。「アスホール・パワー」の人足寄場から多くのひとがでていった。ここに仕事なんかねえと。でもおれはしがみついてた。これ以上どっかにいくのに疲れてたし、金がなかったからだ。軽作業の名目で門真まで連れてかれた。せまい室のなかにマットレスのない寝台、テレビがある。扉には覗き窓があった。おれはいっぴきの、どでかい蠅を見つけた。そっと手をのばした。しかしそいつは地獄よりもすばやかった。まるきりついてない。おれは廊下へでて、その出口に立つ。頭上の扇風機がかすかにかぜを起してた、夏のさかりにはどうにもならない。ああ、しかたない。また店へいって商品を見てこようか? きょうあたりはジンが呑みたい。さてどこを狙おうか。
夕暮れ、食堂へ降りた。事務所にはおれの仕事が来てた。トラックの運転、それも相野まで。面接でいったはずだ。運転は不得意だと。ちゃちな耳輪をした男がほかにやれるのがいないといった。なんの保険もなしに他人の車を乗るほどおれもばかじゃない。朝になって断りにいった。それが恨みを買った。まったく仕事をもらえなくなった。おれは服を着て夏帽をかぶり、階下へと降りた。セメントづくりの小屋で老人夫がシャワーを浴びてる。窓ガラスもないからはっきりみえた。
あんたも仕事なしかい?
ええ、入ってひと月もね。
おれは3回だ。これじゃあ、どうにもならん。
そうですね。まったく。
とんこしようかとおもってるよ。
いちばんちかいショッピング・モールの防犯はずるぬけだった。おれは盗むことに馴れすぎてしまってた。監視カメラの死角を見つけ、棚の配列に注意する。そして手に取ったものを上着で隠した。気分に変わりはない。まずはスパゲッティをやって、障碍者用のひろく清潔な便所で喰う。つぎに酒屋へいってミニチュア壜を3本はいただく。そしてしまいにチーズを1袋。仕上げに本屋でブレヒトは「三文オペラ」をすっとばした。しかし、まだ午過ぎだ。おれはいったん引揚げる。そうしてオペラを甞めながら夜を待つ。とてもじゃないが、仕事のある連中といっしょに飯を喰う気にはなれなかった。わいわいがやがや、どこにだってそんなやからがいる。盗賊が乞食の娘とねんごろになったとき、おれは階下へ降り、事務所を覘く。どの釘にもおれのなまえはぶらさがってない。くそ色の髪をした、管理人は、ちゃちな耳環をゆらしてこちらをみた。こちらもやつをみた。
すみません、明日もありません。
ちびのことばに顎で応え、おれは狩りへでた。まずはいささか遠いスーパーマーケットで酒の肴を仕入れ、パンと鯨のベーコンを懐にし、ふたたびモールへ。酒のコーナーで唐辛子入りのジンを手にして寮に帰った。むしあつい夜だ。かっぱらいと読書にあけくれてるうちに1ヶ月は過ぎて、寮費の無料期間がなくなった。1日3千500円がおれにのしかかる、おれ用の水牛だ。こいつをどかすには、トンコするか、待つしかない。そんなときだった。ようやく仕事がお目見えしたのは。しかしあまりよいことにはおもえなかった。寮の無料期間がきりぎりに迫ったころ、ガラス工場の仕事が入った。機械の移転前に、手作業で材料を運ぶ。室内は暑く、休憩は20分ごとだ。分煙用の仕切りがある小屋のなかで休んだ。休憩室のテレビジョンは子殺しを報せてた。またか、とだれかがいった。おれにも憶えがある。公園で母親にやられたのがあったっけ。今度は雨のなかで少女が死んでたという。雨のなかのひと殺し、――レイモンド・チャンドラー。どうだっていい。
どうせ、また母親がやったんだろ。
ああ、そうに決まってる。
女ってやつは歯止めがきかねえんだよ、まったく。
しかし雨のなかってのは、あまりにも──。
水を呑みながら始業を待つ。飲みものを買う金もなかった。拾いものの、ペットボトルに水道水とくる。まあ、どうだっていい。とにかくガラス工場は機械を入れ替えるあいま、手作業で材料を運ぶやつらを欲してた。うなりながら熾き火を秘めた釜のまえに、天井からダクトが降りてる。材料のガラス片はそこから落ちてきた。はじめは少しづつだったのが、しだいに大きな流れになった。スコップではどうにもならなくなって、ベルトコンベアがおれたちの手で運び込まれた。流れてくる材料をスコップでさらに奥へと掻きだす。高熱のなか、ひとつきりの幸運は20分ごとの交代だった。おれはすぐにばててた。きらめくくず山を見つめ、呼吸を整えようとする。そのとき、老人が怒鳴る。――おまえも動けよ!――休憩室で声をかけられた。――きみ、いくつ?――24です。――若いってことがなにか罪悪のようにおもえた。男の顔は赤黒く、疣があった。ちいさな疣だ。
ほかに仕事なんていくらでもあるだろうに。
ないですよ、宿なしじゃ。
夢とかないの?
詩とか短歌とかでなんとかやっていきたいですね。
小説は書かないのか?
ながい文章は苦手なんですよ、書きたいのはやまやまですが。
その日のことが終わると、下着まで濡れてた。びたびたと皮膚にくっつき、歩きづらい。われわれのワゴンの隣には、ラリー仕様のミニ・クーパーが深緑して坐ってた。これみよがしの態度。女のいやみのようなやつだ。おれは水を呑み、べつの男が喋るのを聞いた。車は南にむかって走る。――おれがきみの齢のころはあぶくでな、どこにいっても大金で雇ってくれた。面接で「おまえ、いくら欲しいか?」訊かれて、「50万!」っていったら、むこうは「雇ってやる!」――そんな調子で毎晩、高級な酒場にいって味もわからねえたかい酒を呑んだ。家も2件建てたし、息子もできた。なにやってもうまくいく、いい時代だったな。かれはまるで今日の一切がないかのように話しつづけた。かれの家族がいまどうなってるのか、どうやって飯場に落ちたのかがおれのあたまに残っただけだ。
きみはまだ若いんだ、
パチンコ屋の棲みこみになればいい。
おれはほほ笑みで応え、眼をそらした。これ以上、我慢ならなかった。寮にもどるとふたたび狩りにでた。5つもまわって壜いっぽんと、パン1個しか得られなかった。そろそろ潮時らしい。おれは食堂にいってカレーライスを喰った。だれかが見てるような気がした。事務所へいっておれは前払いのぶんをとりにいった。2千が手に入るはずだった。
まだ1回めの出勤ですよね?
ええ、そうです。
それなら前払いは千円になります。
5回以上出勤すれば2千円だせますよ。
こんなわけで逃げだす金も得ることはできなかった。翌日もおなじところに派遣されたが、それきりだ。まだ何日もそこの仕事はあったが、おれだけはずされた。営業曰く苦情が来てるという。いくら力を使ったところで、ないものはどうしようもないことに気づいた。なんとかあたまをさげておれはうんと遠くの、廃棄物の処理にあてがわれた。飛び交う蠅たちのなかで塵芥を仕分けるのだ。まずは空き罐だ。とにかく臭かった。くさった液体がそこらじゅうを流れ。おれの顔に飛びかかる。そこへ蠅がおれの口や耳の穴にむかってくる。――さておつぎは家具や鞄や買取不可のおもちゃどもだ。材質ごとにでっかい箱にわけていく。ウィスキーを見つけた。でもだれかが持てってしまった。とにかくおれはのろくさかった。たった1日、北へむかっただけでお払い箱にされた。仕分けられたのはおれ自身だった。
おれは町へでた。図書館があった。万引き対策の本を見つけた。たしかこんなことが書かれてあったともう。――犯人は世間とはずれた、あるいは汚れた服装をしている、とあった。おれは便所へいって自身を鏡にみる。靴がそろそろお役ごめんだ。その夜さっそく靴屋にでむいた。手に入った。
昏い室に入り、とがった皮靴を磨きながらおもった。これは生きた気分じゃない。死んだものの気分だと。入寮以来はじめてテレビジョンをつけ、夕べのニュースを眺めた。自殺の話はない。靴屋の話しもない。そしておれの明日についての報せもなかった。よい気分ではないが、そうもわるくない。死体もわるかない。おれはズボンを降ろし、シャツを投げた。じっくりとまたぐらをつかみ、おもいうかべた。むなくそのわるくなるほど照明の効いた室で、まず装飾つきの木椅子がおかれる。2脚だ。いっぽうにおれが坐る。そこへ20歳過ぎの童顔の女が現れる。とにかくばかげた、幼稚なかっこうをしてる。お帽子つき。少女めかした、そのおもざしがおれをやさしく蔑む。ふいにかの女の御足がカッとひらめいた。ぬかるみを通ってきたかの女の白い運動靴がおれのまたぐらをしっかりとらえ、おさえつけてる。おれはそのまたたきに茎を温くさせられてしまい、──あとはかの女のされるがまんま、しかし仕返しはたっぷりとくれてやる。2回戦。引き分け。薄洋紙がなくなった。疲れているときに無理な射精はしてはならない。それを忘れてた。肛門から痛みだして便所へ駈けこんだ。いきんだ。なにもでない。いきんだ。なにもでない。でそうなさわりがある。この症状のなまえを教えてください。24歳、男性、当方無学。だが1時間ほどでそれはやんだ。手加減してくれたんだ、だれかが。
残ってた酒をきめ、もういちどかの女と姦りあおうとしたが、勃たなかった。身を横たえて深夜まで眠った。戸を叩く音で起きた。そとに中年が小男が立ってた。おれが黙ってるとやつはささやきはじめた。
きみ、仕事全然ないんだってね?――ええ。
おれら、会社に抗議しようとおもってんだ。
むだですよ、そんなの。
とにかく数でいきゃあいいんだ。
そんなものですかね?――そう。労基だってうまくいきゃあ、動くし、金だって入る。
それでぼくはどうすれば?――いま、会合やってる。とりあえずでて欲しい。
そのまんまおれはついていった。ふたりして階段を降り、4階の室に招かれた。そこでは男が4人、狭いなかで話し合ってた。みな中年のぎらついた男たちだ。そのすべてが憐れなる落伍者なのだ。おれだって? おれだってもちろんのこと、そのうちっかわさ。もういきようがなかった。
かれは?――首長らしいのがおれを指した。連れてきたやろうが早口に説き明し、さっそく話しが始まった。おれはできるだけ、加わらないように、加わってないようにみせた。
すでに追い立てを喰らってるやつもでてきてる。
はやくしないとこっちにまで来ちまう。はやくバックをつけないとな。
おれはほうぼうの非営利に電話して反応を待ってるところだ。
でも待ってるんじゃどうにもならねえよ。
あちこちでおなじようなことが起ってるからな、忙しいんだ。
いっそのこと、全員で生活保護受けにいけねえか?
ばかやろう。――いくらそういうのが多い、この土地だろうと、
宿なしは施設をたらいまわしにしておわりだ。
おい、若いの、おまえ、なんかいい案はねえか?
おれはくびをふった。ありませんです、だ。
やっぱり無理なんじゃないですかね。ここの全員が事務所や本社にぶつかっていかないかぎりは。
使えないやつだな。
もっとあたまを遣えよ。
こわいんじゃないのか、おまえは。
おれにはかれらに協力するつもりはなかった。ただ与太を飛ばす、5人の男にでくわしただけだとおもった。かれらは罵りあい、褒めあいながら時を過ごす。食堂や教室にいる手合いと、ほとんどなにもちがってはなかった。だから午前3時をまわったころ、おれはその場を無理くりに退け、じぶんの室にもどった。酒はなかったが、ありがたい孤立だけは健在だった。さっそくメッキー・メッサーの気分で本をひらいた。
そのあとの3日間、おれは会合を断った。ほかの口入れ屋にいって仕事を求めた。どこもくそったれな携帯電話を要としてた。そんなもの、持ったこともない。近所にパナソニックの工場があった。どこもくそったれな携帯電話を要としてた。そんなもの、持ったこともない。しかし面接のことをうっかり営業に話してしまった。
つまりここをでたいということだね?
いいえ、それではどこもやとってはくれないので、
あくまでここにいて金も貯めて寮費も清算したいのです。
でもきみは苦情がですぎてる。
都合よすぎるとは?
しかし生きていくには仕方ないですよ。
でもきみはまだ若い。
ほかにだって当てはあるじゃないか?
ぼくだって、広告に「軽作業」とあったからここに来たんです。
文なしでそとにでたら死んでしまいますよ。
でもこちらだって苦情のでる人材は欲しくない。
なら給与、払ってくださいよ。
もう寮費でなくなった。
死にやがれ。アスホール・パワーのばかどもよ。黙っておれは7階にひっこんだ。ふたたび温くなった、またぐらをもみしだき、勃たせようとした。しかしおれの内なる女らは、みなそっぽをむいてた。しかたなく、階下へでると、狩りにでかた。その日は白葡萄酒を呑んだ。贋キャビアもおまけだ。翌日になって営業の男がおれを訪ねた。色黒で髪を逆立てた、眼の鋭いのが、おれを見据えていった。――いま、何人ものひとにいってまわってる、――退去してくれるひとを。芝居がかった、癪な喋りだった。
でもぼくは文なしですよ。
男は財布をだして千円札をだした。――これはおれのポケットマネーだけど。おれは受け取ってしまい、おまけにやつのだした、自主退寮者のリストにもなまえを書いた。なんてこった!――その日のうちにでていかなければならない。しばらくして雨が降りだした。おれはまたでかけてウォトカを盗みだした。そしてしたたかに酔ったころ、その声々は聞えはじめた。
裏切りものがいる!
おれたちのことをたれこんだやつが!
そいつをつかまえろ!
いきなりにおれの室がひらかれ、中年男が飛び込んできた。――こいつ、酒呑んでる!――営業から金貰いやがって!
かれらはいっきに事務所へとなだれ込み、管理人をどやしつけた。やがて本社の連中が大慌てでやってきて、かれらに金1万円がだされた。おれはただみてるしかなかった。雨はさらに激しくなった。おれはでるしおを喪い、酒を呑んだが、いっこうに酔わせてもらえなかった。しかたなく鞄を手に入れにいった。5千円のがただになった。翌日の朝、月曜日に営業の、ほかの男が室をあけようとした。おれは鍵をかけてた。覘き窓から男が声をだす。――なんでいるんだ!――おれは寝台に横になってそれを眺めた。けっこうな眺望だ。まるい眼の男はわめく。
きのうまでだっていったろうが!
なんでいるんだ?
雨が降ってたんですよ。
そんなの関係ない。
でもあれじゃあ、でられない。
関係ない!
おれは金だってないんだからな。どうしようもないんだ。
とにかくここをでろよ。
おれは芥葛を冷蔵庫に隠しておもてへでた。1階の階段のうらへ立ってたら、やつは芥袋を持って降りてて来た。
よう、とおれはいった。
どういうつもりなんや、おどれは。
こんなことしやがって。
怒りたいのは、――とおれはいった。おれのほうだと。
きのうのやつらみたいに金がもらえると思ってんのか?
貰うんじゃねえ。対価を払えってんだよ、くそ。
あのな、寮費でおまえのはぜんぶ消えたんや。
おれは芥葛を冷蔵庫に隠しておもてへでた。1階の階段のうらへ立ってたら、やつは芥袋を持って降りてて来た。よう、とおれはいった。やつは怒って携帯電話を握った。――はよう、いねや!――イネ?――どういう意味だ?――田舎ものめ。
「とにかく失せろ、警察呼ぶぞ」――やつが携帯電話に手を展ばした。おれは逃げた。おれに千円をやった、営業にでくわした。やつのつらは涼しげだった。
いまからでるのか?――ええ、そうです。
なんとかなりそうか?
さあ、わかりません。
でも若いんだからな。大丈夫だ。
おれは終始笑顔で答えた。やつはきっとおなじような科白を携えて、また千円で追いたてにいくところなんだろう。けちくさいくそやろうどもだ。そのうち、やつらの本社がみえ、女子社員がでていくのがみえた。なかなかわるくない。おれは声をかけた。――おい!――女は蔑みきった眼でおれをみた。
おれはさっきまであんたんところの飯場にいたんだ。
それがなにか?――なにかだって?――おれは金も貰えずに追いだされたんだぞ!――なるほど。きのうの騒ぎに喰いっぱぐれたひとね。――おれにも1万くれよ。――ばかね、終わったの、ぜんぶ。――でもおれのなかでは終わっちゃいねえんだ。――どうしろっていうの?――いまさらうえに掛け合ってももむだ。あんただって若いんだからすぐに仕事なんて見つかるって。――宿なしでもか。もう小銭しかないんだ。――あら、そう。──おれは次第に距離をちぢめ、かの女の横になった。――どうしてくれるんだ、おれの人生を。生活を。日常を。
お似合いじゃないの?――あんたのようなひとはどこへいったっておなじ。
流れもののくせに口だけは達者、死ねばいい。
おれはかの女を社屋の脇にある、くらがりに誘い込んだ。急に劣情を催した。いや、欲望に優劣をつけるべきではない。聖なる欲望でかの女に懇願した。
あんたみたいなきれいな、
若い女にくそみそにされたい。
実際、かの女はそう若くもなかったし、きれいでもなかった。しかし、それのほか科白はおもいつかなかった。少しばかり喜んだようだった。――だめだって!――こんなところじゃあ。
でもおれはとまらないんだ、お願いだ。
ふたりの顔が火照っててる。勝ったもおなじだ。おれはかの女のストックキングから、かの女の女陰を味わった。いいいお味だ。つぎに上半身をまさぐり、胸に顔をうずめる。おれたちは服を皺だらけにしながら息を荒くした。上出来だ!
抱き合ってしばらくかの女が顔をそむけた。
はなして。
やっぱりだめ。
その顔はもとどおり、冷たい。ああ、まただめなんだ。
あんたとじゃできない。
かの女の両手がおれを突き飛ばした。うしろには側溝がある。浅い流れを眺めながらおれをそこへ背中から落ちてた。かの女のあざけりが聞える。なにをいってるのか、ほとんど聞えてこなかった。やがてさいごの笑い声がながくひびき、かの女はいなくなった。汚濁が背中や足へ染む。おれは10分間、そのままにしてた。うごけなくなってたのだ。
日の光りがいまいましかった。公園の便所にいってシャツを洗い、ズボンをタオルで拭った。そして作業服に着替え、夜を待つ。腹のぐあいがわるくなってた。上腹部が脹れてるようなさわりがある。残った金でポカリスエットを買い、呑んだ。なんにもよくならなかった。夜になって、おれは量販店へでむいた。酒は呑めそうになから、ダンボールをもらうことにした。
やや混み気味の列に、空身のまんまくわわる。店員のけげんな両の眼にさらされながら、おれは順番を待ってた。するとおれの手前の客が店員に突っ込み始めた。対応に問題があるらしい。客は食器片手に相手をどやつける。みんな、怒るのが好きなんだ。ほんとうはどこかでだれかをやっつけたいとおもってる、おれだってそうだ。やがて憎悪が客へとふくらみはじめたとき、助け舟がきた。ボスらしいのがやろうを別室に連れ込んでいった。
おもてのダンボールをひとつ欲しいんですが。
それは購入されたお客さまのためのものでして。
お願いします。どうしてもいまいるんで。
ちょっと聞いてきます。
店員は去って、うしろの列がおれを見つめてる。しばらくしてもどってきた店員は、いちまいかぎりを条件に赦してくれた。さっそくおれは持にいっていちまい、しかしでかそうなやつを撰んだ。公園のベンチに腰をおろす。さいわい仕切りはない。「三文オペラ」をひらく、盗賊は釈放された。物語は終わった。そのつづきは現実のなかで探すとしよう。おれは陸をひき、作業着をかぶった。
明けてすぐおれはスポニチを買った。求人欄のためだ。ちかくに3軒の飯場を見つけた。そのひとつにむかった。しかし1日でくびになった。事務所へ自己紹介する時間をまちがえてしまった。おれはもうひとつのやつにひっかかった。場所はアスホールから、まったくはなれてなかった。おれは水を呑んだ。はらわたが温くてしかたがない。そして息も苦しい。寮夫妻はやさしいひとたちだ。食堂でラーメンを喰いながら話しをする。
きみはまだ若いんだ。こんな仕事はさっさとやめたほうがいい。
金ができたらまともな職に就くんだ。
そうよ、まだいくらだって可能性はあるわよ。
そのとき、妙な生きものが床を走るのをみた。なんだこれは? そいつはくそ忙しく走り回ってじぶんの餌場を見つけた。齧歯類の1種らしい。おれはむかつきを憶え、寮母にいった。――すみません、胃薬ありませんか?
散薬をもらい、すぐに流し込む。まだ夕方だったが、横になりにいった。よくないことばかりだ。はらわたが温い。水を机においた。テレビジョンは病院から払い下げられたものでつくりが変わってた。画面が異様に小さく、音を聞くのに手間がかかる。しばらくして眠ることができた。しかし夜中になってそれはまわってきた。痛みだ。鳩尾と背中がいっぺんに痛み、締めあげられたかのようだ。どっちにからだをむけても痛みはやわらがない。それでどころか、どんどんふくれていった。慌てておれはノートを破くと、簡単な遺書を書いた。このままでは死ぬとおもったのだ。――《父、母へ、葬式はやらないでください。書きものはみな棄ててください》。
死を待つにしても苦しみは過大すぎた。おれは階下へ降り、おもてへでる。病院をさがしはじめた。幸いにしてちかくそれを見つけた。夜間救急窓口、そいつが開くのを待った。老婦人がふたり、おれをけげんにみた。おれは見返さなかった。ただなにもかもが過ぎ去って消えてしまえることのみが望みのように感じられてしかたがない。何時分かが過ぎて、ようやくなかへ通された。おれは免許証をだし、文なしと告げた。ロビーには灯りがなかった。おれの顔には脂汗がしたたり、坐っているのもむずかしかった。
あの子、ぜったい盲腸よ。――あんなに脂汗流して。
老婦人たちがささやく。さらに1時間待ってようやくおれの診察になった。血やレントゲンなんかをこなしてついた病名は、急性膵臓炎といった。まるではじめて聞く代物だ。1ヶ月の絶飲絶食。すぐに寝台が用意され、点滴がはじまった。痛み止めがよく効いた。ふたたび眠りに落ち、明日がやってきた。痛みは2日めがいちばんひどい。さらに機械へとつながれ、全身コードだらけになった。夜、意識が混濁するなか、父がやってきた。そとづらだけはいい男だ。
遺書があったって聞いてるから、どうせ妙な薬でも呑んだんでしょう。
勝手なことをいいやがって。浮浪者として入ればよかった。7、8日経って一般病棟に移された。痛みはまだひどい。しかし1日じゅう、なんども痛み止めを求めるほどではない。コードもはずされて身軽になったおれは毎日、障碍用の、ひろくてきれいな便所で、灯りもつけないまんまみずからをなぐさめた。喰ってなくともでるものはでたし、あいかわらず空想のなかの女らはいかしてた。つらいのは空腹だった。おれは病室にもどると、すぐに料理を喰い、女らと語らう光景を思う浮かべた。1ヶ月経って外出がゆるされるようになった。おれは本を手に入れ、読み始めた。「燃えつきた地図」はいまひとつだ。「ライ麦パンのうえのハム」はまあまあだ。「ありきたりの狂気の物語」は最高だ。ある夜、医者がおれを呼びだした。若い看護婦をひきつれて、別室で横にならせた。
これから股の毛を剃ろうとおもう。
医者も若かった。こんなことしたくないだろう?
ズボンとパンツを降ろして欲しいんだ。
ここでですか?
おれは看護婦をみた。両方を降ろしておれの陰部があらわになった。看護婦が陰毛の1部をそぎ、そこへ点滴針を突き刺した。――これで1日に何度も刺したりせずに済むだろう。――陰部、そして仮性包茎をみられた恥ずかしさで便所に駈けこんだ。あたらしいネタで2発抜いた。もう退院だというころになって飯が来るようになった。質素なものだった。米と汁と漬物。それでもおれには豪勢だった。毎日の楽しみが飯だけになった。ある夜、またしても親父がやってきた。
「おまえ、これからどうするつもりなんだ?」――どうって?――ここの入院費だ!――払えないよ、またべつのところにいって稼ぐまでだ。――おまえなんか、いったいどこが使うんだ?――求人欄をみて、ぶっつくだけさ。――それでどうやって生きていくんだ?――姉は大学院までいってIBMだっていうのにおまえには野心がないんだ。――だからどこにいったって首になる!
黙ってやつが叫び、なじるのを聞いてた。おれは病院からどう逃げだすかを考えてた。また数日経って、ようやくまたぐらの点滴がはずされた。おれは荷物を整理しだした。飯場へもいっておいてきぼりの鞄をとりにいった。――若いのに死のうだとおもうな!――そう叱られた。そしてまたモールで酒をくすねた。もうなんともなかった。翌日、置手紙を書いて病院をでた。なけなしの金で電車に乗り、中心街をめざした。そこではじめて盗みがばれてしまった。おれは監視員の中年女にひきずりこまれ、警官どもを呼ばれた。
この鮨泥棒め!
警官たちは威嚇したが、それは連行されず終わった。かれらはおれをおきざりにした。鮨を買い取ったからだ。おれは商店街の入口に腰を据え、眠りに入った。作業着入りの手提げ鞄を枕に、本やなんかの入った鞄をそのままにして。夜明けまえに起きると鞄はなかった。おれはどっかに落ちてないか、棄てられてないかを探った。どこにもない。バーボンを手に入れ、そいつを呑んだ。朝がやってきた。またしても求人をめくった。ひとつ、よさそうなのがあった。公衆電話にかけ、手配師を呼ぶ。公衆電話を切る。金がほんとうになくなった。
ほんとうに若いな。――こういう仕事は? 経験は?――まえにアシスト・パワーという飯場にいましてね。――おれんとこもその系列だよ。営業とでもけんかしたのかい?――ええ、そうです。そんなところです。――どうやら大阪で軽作業を仕切ってるのはアシスト・パワーらしかった。なまえはちがってどれもがやつらの系列ということだ。これじゃあ、どうにもならない。──いちど訊いてみるよ。男は電話をかけ、おれのことを照会しはじめた。しずまりはすぐにやんだ。
わるいな、兄ちゃん。――だめだとさ。
たったそれきりで車はでてしまい、おれにはもう頼るものがない。おれは知っていた。それだけだ。世間で通じるひとびとはみな、どちらかの椅子に坐っていて、物事を色分けしたり、なまえをつけたり、指をさしてあざ笑える人種だということをだ。セオドアとかいう詩人のいってたとおり、おれも《行列をする犬を笑えない》のだ。みじめさを味わい、それを掴みとったものは、どんな犬もどんなきちがいも、それを視とめるのみだ。さもなくば怒ってそのか腕(かいな)をふるだけだ。そんなときには上も下も、右も左も、醜美も突き破られる。ひとを虚仮しているやつらには一生、わかりようなどあるまい。歩いているうちに日は天井に来た。おれはどや街にむかって歩いている。そこならいくらだって手配師はいるだろうからだ。とにかく居場所が要る。寝食と職が要る。そうしてなにがしかのもの、あるいはあらかじめ喪われているものを手に、おもしろおかしく生きて死にたい。だれかおれにいってくれ、まだ間に合うと。もう正后過ぎだ。
おもしろおかしく生きて死にたい 中田満帆 @mitzho84
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