第10話 そして、サメは自由を得る。
サメは走っていた。
比喩でも誇張表現でもなく、サメは人気のない廊下を高笑いしながら疾走していた。
「うわははっははっははっ」
すれ違う徹夜明けの研究者が「あれは一体なんだろう」と首を傾げ、目を擦り、幻覚ではないことに気が付き、腰を抜かす。悲鳴とも驚嘆ともつかない叫び声をあげる研究者Aには目もくれず、物凄い速度でサメは廊下を走り抜ける。
それは自由を得た者のみに許された正義の凱旋。
それは移動手段を得たサメによる自由と愛を謳う疾走。
時間も風景も驚く人々も置き去りにしてサメは百メートル弱のストレートを走り去る!
目の前は壁!
となれば、とれる手段は一つきり!
取舵一杯!
左へ曲がれ!
自由のサメ号は勢いよくカーブに進入。大きく膨らんだ軌道を描きながらも、なんとか廊下を曲がりき──。
──れるわけもなく、サメは壁に勢いよく激突した。
痛い。壁にぶつかって、ひっくり返って、もう上下も左右も分からない。ただ全身が痛くて、目が回っていることだけ分かった。ぐるぐる回る視界に人影が映り込む。
一つ……三つ……いや、二つ、だろうか。
「大丈夫?」
「あははっはっ、凄い勢いだったねぇ。絶対曲がれないと思ってみてたらほんとに壁にぶつかるんだもん、あははは」
ようやく天地が整った視界で見上げると、爆笑する死神と眉を下げてサメに手を差し出す柏木の姿があった。
「いやー、初めて自転車に乗った五歳児って感じで良かったよ」
「五歳児が乗ってんのは三輪車でしょ」
サメを助け起こしながら、柏木が半目で死神を見やる。
「えー? 君は五歳の時から自転車乗ってたでしょ? 補助輪つけて。可愛かったなぁ、ゴロゴロ鳴らしながら廊下を爆走して怒られてる柏木クン」
死神が両手を顎の辺りで組んで小首を傾げる。柏木は深くため息を吐いて、死神を見た。
「五歳児の世話を七くんに任せるからそういう事になるんでしょ、上の人選ミス」
どうでも良さそうに言葉を返しながら、柏木の手がサメの背中を撫でる。ビクリ、と体を強張らせたサメに柏木は「埃取ってるだけだよ」と小さく笑った。
他意のない触れ合いに安心するべきなのに、どういう訳だかサメの心は勝手にざわついた。ヒレをにぎにぎと動かしてみても、ざわめきは消えない。
一人首をひねってみても、答えはサメの中には無いようだった。
「それで? その、馬鹿っぽい乗り物はどうしたの?」
「七夕さんにもらいました!」
サメは短い手でビシッと敬礼しながら答える。
「あぁ……やっぱり」
「なるほどねぇ……趣味って子供の時から変わらないものなんだねぇ」
死神と柏木は揃って遠い目で、自由のサメ号を見た。
黒いプラスチック製の正方形の台車に、サメを固定するための筒が取り付けられた自慢の愛車を見てサメは首を傾げる。筒の前にはヒレの高さに合わせたハンドルが付いており、これのおかげで、サメは自身の興味が向くまま好きなだけ走ることが出来る。ちなみに台車の後輪二つにはモーターまで付いている。ハンドルの右側に付いたボタンでどこまでも加速が可能だ。ちなみにブレーキはない。一度走り出したら止まれない仕様だ。猪突猛進な感じで大変良い。自由を得たサメというのはやはり勇敢でなくては。筒の前方にはサメの絵が描いてあるから、一目でサメの愛車だと分かる所もポイントが高い。まさに天才がサメのためだけに作った一台だ。
サメはふふん、とどや顔で二人を見上げた。
「そんなに羨ましがっても、これにはサメしか乗れませんからね」
二人は顔を見合わせて、小さくため息を吐くとそのままサメの言葉を無視した。そんなに乗りたかったんだろうか。
「あーぁ、これモーター付いてるよ、柏木クン」
「子供の工作じゃないんだから、もう」
いつの間にか後ろに回った田中が自由号の後輪をつつく。柏木は深くため息を吐いて、項垂れた。これは、どちらかと言うと呆れている反応なのでは?
「え、これのカッコよさが分かんないんですか!?!?」
サメは叫んだ。全力で遺憾の意を表明した。
「多分、それを格好いいと思うのは世界で君と七くんだけだよ」
「うーん。七夕は車輪に動力付けて遊びたいだけじゃない……? あいつ多分カッコよさとか感知するセンサー死んでるよ? 毎日おんなじ種類のシャツとスラックス着てるし、それにおんなじ白衣合わせてるし。髪は面倒だから半年に一回くらいしか切んないし、その癖前髪は邪魔だからって鏡も見ずに自分で切るし。まあ、器用だからそれでもそれなりの出来になっちゃうところが腹立たしいけど」
田中は顎に手を当てて考え込みながら言った。その言葉でサメは自分の体がさらさらと風に吹かれて消えていく砂になったような気がした。同士に出会ったと思っていたのに、まさかただの子供のお遊びに付き合わされていただけだったとは。
「君のセンスも大分子供よりだと思うけどねぇ。ほら、小石のカッコよさで一日中喧嘩できる小学生みたいな」
思考をよまれてサメはハッと口元をヒレで抑えた。「声に出てたよ」と言われ、恥ずかしくて死にそうになる。
「田中さんには彼女が小学生に見えてるんです?」
「ん? サメに見えてるけど」
「そういう話じゃないんですけど」
柏木は胡乱な目で死神を見た。
「じゃあ、どういう話かな? オオカミ少年くん」
田中はクスリ、と微笑んで柏木の視線を受け止めた。
「俺、やっぱ貴方のこと嫌いです」
「知ってる。ついでに言うと私も君のこと好きじゃないよ。死にかけてたら助けるけどね」
頭上を飛び交う二人の言葉を一言も気に留めず、サメは思考が声に出ていた恥ずかしさやら、同士に裏切られた悲しさやらで、ペソペソと泣いていた。
「はは、死んでも、俺はどうせ消えられませんよ」
上半身を折り曲げてヒレで目元を拭う。ちなみに涙は一滴も流れていない。
「知ってる、知ってるよ。そんなこと。私が一番よく知ってる」
折り曲げられたサメの頭がハンドルの右側にぶつかった。
「私が君を死なせたくないのは」
カチリ、とスイッチの入る音がする。
「君と」
モーターが静かに唸る。自由号の後輪が床の上で勢いよく回る。風景があっという間に後ろに流れていく。風圧で体が後ろに倒れる。背中がちょうど真ん中で半分に折れた。人間だったら即死だっただろう。サメは自分がサメであることに初めて感謝した。
操作を失った自由号はサメの興味関心に赴くままではなく、ただ真っすぐに走り続ける。後ろの方で柏木の叫び声が聞こえた気がした。綿の体は筋力とは無縁で、体勢を立て直すことが出来ない。これは、また壁に激突するまで止まれないのではなかろうか。
サメの顔が青ざめた。
ような気がした。
実際にはサメは青ざめる間もなく、宙を舞っていた。後ろに傾いてグラグラと揺れる頭の重みに下半身が浮いて筒から飛び出し、その間にも自由号は自由に進み。
主であるはずのサメが一人、車外に放りだされたのだ。
「わーぁお」
間延びした悲鳴をあげた。時間が引き延ばされたかのように感じる刹那。床に落ちる衝撃に耐えるべく、サメはぎゅっと体を縮めた。
「馬鹿ッ! 飛べ!!!」
サメに向かって手を伸ばす柏木の顔が焦りに歪んでいる。サメは飛べませんよ、と返そうとしたけれど、口を開く前に視界が闇に閉ざされてしまった。
そして、サメは目を閉じる。
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