第11話 前回は同行者に散々笑われた

 伸ばした手の僅か先、サメを飲み込んで闇が閉じていく。鼻先を掠めた微かな水の匂いに柏木は顔をしかめる。この両手はいつだって大切なものに届かない。

「川面だね」

 後ろからやってきた死神がのんびりと言う。

「どうするの? 助けに行く? それとも見捨てる?」

 柏木は短く息を吐いてから、睨むように鋭く死神を振り返った。

「助けに行くって顔だね。でもいいの? 君、死ぬかもしれないよ? あれの中身は君が命を懸ける程の価値があるものなの? 君、幽霊嫌いでしょ? それとも、あの子は特別って言う?」

 サメが消えていった虚空を顎で示して、死神は首を傾げた。何もかも知ったうえで覚悟を試すように問いかけるこの人が本当に嫌いだ。

「死んだら同僚ですね。優しくしてくださいよ? 先輩」

 柏木は田中の問いを鼻で笑うと、霊力で小刀を作り出した。黒く、鋭い刀。命を切り裂き、彼岸へと渡すための橋。柏木は何の躊躇いもなく、自分の手首に刀を滑らせた。赤黒い鮮血が床の上に落ちる。鈍ってしまった感覚では、痛みがあるのかもわからなかった。

「私は君と同僚になるなんてごめんだよ」

 一滴、二滴、と血が滴る隙間に死神は静かにそう言った。柏木はその言葉には答えずに、歪み始めた床を見つめる。普通の人間には見えない小さな歪。

 柏木の血を欲して、彼岸がぽっかりと口を開く。

 彼らはいつだって、生ぬるくて赤い物に惹かれている。血を舐めるために開いた穴に柏木は勢いよく霊力の太刀を差し込んだ。柏木の霊力を持ってしても微かにしか聞こえない悲鳴を上げて、穴が勢いよく閉じていく。

 彼岸の力に抗わず、柏木は刀を離さないことだけを考えてそっと目を閉じた。刀と一緒に彼岸へと引きずりこまれていく。ケタケタと何者かが笑った。グスグスと何者かが泣いた。悲鳴と静寂と産声とすすり泣き。全部がくぐもって聞こえた。引きずり込まれるような感覚が止まって、代わりに遠く懐かしい水の匂いに包まれる。柏木はそこでようやく目を開けた。

 広い、青緑色の世界だった。

 どこまでも深く果てのない水。悠然と泳いでいく骨だけの魚。下に行くほど色は暗く、深い緑色になっていく。吐いた息が気泡になって頭上へと消えていった。きゃらきゃらと笑いながら、人とも魚とも付かない生き物が柏木の脇を通り過ぎる。深く息を吐いて、柏木は体の力を抜いた。

 このまま、この水に溶けてしまうのも、案外悪くないかもしれない。

 肺の中の空気を吐き切ろうとしたら、真顔でこちらを見る七夕が浮かんで、泣きそうな航平が見えて、射抜くように強く双子に睨まれた気がして。

 柏木は結局小さく息を吐いただけで、死にきれずに川面を目指した。現実世界の水よりもずっと柔らかくて、はっきりとした輪郭を持つ川の水をかき分けて、水面の上に顔を出す。遠く、蓮の花が向こう側に向かって川を渡っていくのが見えた。柏木はほんの少しの羨望を込めて、それを見送った後、水面に手をついて水から上がった。

 ここは、彼岸と此岸の狭間。

 あの世であり、この世であり、どこでもない場所。

 霊力の使い方次第では空も飛べるし、水の上を走れるし、竜にも魚にも人間にもなれる、そんな場所だ。柏木は呼吸をするように霊力を操って、固めた水の上になんなく立つ。髪や服もぐっしょりと濡れていたが、霊力で刀を作るのと同じ要領で集めて川に捨てた。

「さてと」

 すっかり調子を整えて、柏木は広い川面を見渡した。このだだっ広い世界のどこかに、サメが居る。敵に襲われる心配はないが、何せ規模が大きい場所だから人間の足で探すには骨が折れるだろう。柏木は短く息を吐いて、ガシガシと頭を掻いた。

「羽……やっぱ羽だよなぁ」

 ふらふらと水面の上を歩きながら、柏木は首に手を当てて深くため息を吐く。ぐるぐると同じところを何度も周り、ぶつぶつと何かを呟いていた柏木だったが、ようやく覚悟を決めたのか、鋭く息を吐いて足を止めた。

 目を閉じ、細く息を吐きながら、羽をイメージする。ドラゴンの翼は人間の構造的に合わないのか痛みが強いので使えない。大きく、力強く、少しの力で飛んでいられる軽い羽。明確に、鮮明にイメージを固めていく。

 と、柏木の肩甲骨の間が不自然に盛り上がった。柏木がぐっと背中を丸めた。瞬き一回分ほどの僅かな間。次の瞬間には、柏木の背から羽が生えていた。

 白く、大きく、軽くて力強い、天使の羽。軽さを羽毛でイメージしたせいか、無駄にフワフワしている。柏木は水面に映った自分の姿を見て、深くため息を吐き、目を閉じた。

 ここは川面。

 あの世とこの世の狭間であり、霊力の使い方次第では空も飛べるし水の上を走れるし竜にも魚にもなれる場所である。

 で、あるけれども、使い手の想像力の外には出られないのが、唯一にして最大の欠点だった。

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