第8話 君は何も知らない
サメが七夕の元を訪れたのは、前回から数えてちょうど三日後のことだった。
今回はひび希ではなく、部長代理に抱えられている。顔が後ろを向いているから、柏木が進むたびに景色が後ろから迫ってきて少し楽しい。
けれども、中学一年生がサメの人形を抱えているよりも、高二が抱きしめている方が絵面的に問題なのか、すれ違う人の視線が痛かった。楽しさよりも居たたまれなさが勝る。
「あのー、別におろしてくれても良いですよ」
柏木はにっこり笑って、サメを横に抱きなおした。お姫様抱っこはやっぱりそんなにときめかない。無駄に近くなった目元に浮かぶクマがやけに気になった。
「嫌だよ。それに俺が下ろしたら、君は廊下に捨てられていた不運なサメとして焼却炉行きになるよ? 君だって死ぬのは嫌でしょ?」
サメは半目になる。
「サメ、どうやら死んでるらしいんですけど」
「知ってる」
柏木は短くそれだけ言って、遠くを見た。その整った顔の半分は、今日も白いマスクに覆われている。風邪予防のそれが、本性を隠す仮面のように思えてサメの存在しない心臓がずきりと痛んだ。同時に柏木を見かけるたび痛そうに顔を歪める航平が頭に浮かぶ。どうやら喧嘩したらしい、とひび希から聞いた。
「仲直り、しないんです?」
よいしょ、と大して重くもないサメを抱えなおしてから柏木は答える。
「誰と?」
白々しい笑みだ。
「航平くんと」
長いまつ毛がゆっくりと上下した。
「航平くん」
サメの言葉を部長代理がなぞる。オウム返しは双子の専売特許ではないらしい。天井が動かくなって、サメは柏木が足を止めたことに気が付く。ヒレでパシパシと胸板を叩いた。結構硬い。
「航平くんって呼ぶんだね」
柏木の低い声が耳朶をくすぐる。
「航平くんって、名前で呼ぶんだね」
柏木が低い声で繰り返した。
「俺のことは一度も呼んでくれないのに」
綺麗な顔に上から覗き込まれて、サメは思わず柏木の顔に両ヒレを押し付けた。イケメンの顔は近過ぎると凶器になる。
「いてて」
サメの攻撃から逃れるように、柏木が姿勢を元に戻した。ようやくサメは真面な思考と呼吸を取り戻す。柏木がまた歩き出したのか、天井もゆっくりと動き出した。
「ほら、リピートアフターミー。柏木くん」
「サメ、英語ワカラナイ」
柏木はぱちぱちとわざとらしく瞬きをした後で「繰り返してってことだよ」と笑った。天然ぶらないで欲しい。
「サメ、サメだから喋れないカナ」
「今喋ってるように思うけどなぁ」
サメは誤魔化すように口笛を吹いたけれど、サメの口は大きく開いたまま動かないのでただ息を吐いただけになった。次はどうやって躱そうかと頭をひねっていると、柏木がまた足を止めた。
「着いたよ」
その言葉で体を傾けて前を向くと、三日前にくぐった白い扉が目の前にあった。ごくりと生唾を飲み込む。この扉の向こう側に、サメが一体誰なのかを示す答えがある。
緊張で手が震えた。
サメはゆっくりと息を吸って、吐いて、震えるヒレで扉に手を伸ばす。
と、その手を柏木が握りこんだ。ひどく冷たい手だった。
「ねえ、やっぱり今日はこのまま二人で公園とか行こうよ」
柔らかく細めた目で柏木がサメを見る。
「海とかさ。遠いとこまで、二人で行こうよ」
サメのヒレを握る柏木の手は小さく震えていた。目の前の人は確かに笑っているのに、全身で泣いているように見えた。サメは言葉を失くして、ただ、その黒い目を見返す。
「君の中身なんて、どうだっていいでしょ」
金属バットでぶん殴られたような気がした。サメの大事な何かを粉々に壊されて、土足で踏みつぶされたような気分になる。
「君が誰かなんて、どうだっていいよ。そうでしょ?」
柏木が薄ら笑いで並べる言葉がサメの内側を喰いちぎって、バラバラにして、無遠慮に踏み荒らしていく。
「どうでもいい事なん」
「どうでも良いことかどうかを、貴方が勝手に決めないで」
サメは柏木の手を振り払って、腕の中から飛び出した。扉に寄り掛かって、どうにか体勢を維持しながら柏木を睨みつける。
「貴方にサメの何が分かるって言うの?」
止まれ、と頭のどこかが叫んだ。
「貴方がサメの何を知ってるの?」
止まれない、と体のどこかが叫んだ。
「なんにも知らないくせに、勝手に考え押し付けないでよ!」
柏木が目を見開いてサメを見ていた。母親に手を振り払われた子供みたいな顔だった。驚きのすぐ傍に絶望と悲しみがある。
サメは肩で息をしながら柏木を睨んだ。『仕返しだ、ざまあみろ』と思いながら傷つけた事に自分が一番傷ついていた。体と頭が別物になってしまったようにちぐはぐで。
ちぐはぐだから、言葉が出てこない。
柏木がマスクを強く鼻に押し当てて、にっこりと笑った。
「そうだね、俺は、君の事を何も知らない」
嘲笑が混じった声だった。その嘲りはサメよりも彼の内側に向いているように思えた。
「なんにも、知らないんだな」
出会って三日足らずの相手を熟知している方が恐ろしいのに、柏木は無知であることを恥じるように乾いた笑いを落とす。ガラスが割れるみたいに、柏木の何かが笑いと一緒に床に落っこちて壊れてしまった気がした。
何かを言わなくてはと思うのに、言葉は頭の中で回転するだけで、ひとつも声にならない。
二人しか居ない静かな廊下に、窓の外で鳴く蝉の声が一際大きく響いた。
航平と仲直りしないのか、と聞いた答えをまだ貰っていないことを今更思い出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます