アンビバレンツ

街田侑

第1話

 熱い。

 それは燃えるような熱さじゃなかった。凍傷による突き刺すような熱さとも違う。それはどろどろとした真っ白な熱さだ。

 手の甲に滴るその液を僕はティッシュペーパーで丁寧に拭き取った。拭き残しがないように丁寧に。

 どれだけ証拠を隠蔽しても、拭いた後には言いようもないザラザラとした「痕跡」が残る。僕が出したという事実、言い逃れできないような証拠。

 誰のためにその熱が放たれたのかを考えるとゾッとした。罪悪感と自己嫌悪で満たされた心を水に流すために僕は洗面所へ向かった。

 蛇口を捻り、勢いよく流れてきた水道水に手を当てる。何回も何回も手を擦って、石鹸を泡立てて、何も残らないように洗い流す。その行為に用いた妄想も、その行為をしたという記憶も、何もかもを洗い流す。でも少し目線を上げて鏡を見ると、何をしても洗い流せないものを見つけた。少しずつ丸みを失ってきている輪郭、思春期ニキビで汚れた肌、くねくねした癖のある髪の毛。顔を洗っても、髪の毛を洗っても落ちない自分の存在。僕は嫌気が差した。こんな自分に生まれてきたことに。

 

「よう明石!」

 学校に行くと友人の瀬戸に背中を強く叩かれた。しかも、おそらく教科書が入った鞄で。挨拶代わりの硬い感触に苛立ちを覚えたが、友人の顔が視界に入ると、その苛立ちはすっとどこかへ消えていった。

「おはよう」とそっけなく返す。なるべく淑やかに、そして彼が持っている僕のイメージが損なわれないように。

「貸した本読んでくれたか?」

「うん、もちろん。面白かったよ。でもなんだか小難しいよね。こことかさ——」

 僕たちはその本についてあれこれ話した。瀬戸とはこういうきっかけが無ければ話をすることができない。僕たちは生きている世界が違うから。

 彼はわが校のサッカー部のエースだ。ルックスも良くてなんだか声も聞き心地がいい。僕は帰宅部で平々凡々。多くの人間は僕ら二人を同じようには扱わない。でも僕ら二人だけの会話は互いに平等を保って行われる。歪なく均衡のとれた閉じた関係性。ここには外的な影響や要因といったものは流れ込んでこない。

 瀬戸と話をしていると横から隣のクラスの女子が割り込んできた。

「瀬戸君、ちょっといいかな」

「うん大丈夫だよ」彼は僕に目配せしてから教室を出ていった。

 何分かして、彼が帰ってきた。なんだか少し不機嫌というか、「やれやれ」と言いたげな表情で。

「なんか言われたの?」

「いやぁ実はさぁ——」

 彼が話を始めようとしたとき、校内にチャイムが鳴り響いた。クラス内のざわめきは静まり、チャイムが鳴り終わるころに教師が教室に入ってきた。

「また後で話すよ」

「うん」そう小声で返すと、僕の至福の時間は終わった。


 プールサイドに足を踏み入れると、コンクリートに反射された太陽の熱を足裏にひりひりと感じた。他の男子は水の中に飛び込んでいく。僕はそれを尻目に少し錆びついた白くてみすぼらしい屋根の陰に入った。そこから見える太陽の光に照らされた煌びやかな水面が肌色に塗りつぶされていく。

 僕はその肌色の中から瀬戸を見つけた。ぴっちりとした水泳帽で頭を包み、オレンジ色に光るゴーグルをつけた彼の肉体は、上半分は硬質な仕上がりだけど、下半分は華奢で力強く叩いたら砕けてしまいそうな作りをしていた。

 僕の隣には三人の女子が一塊でいた。彼女らはそこに座り込むと談笑を始めた。内容の大半はつまらない世間話に過ぎなかったが、一人が瀬戸についての話を始めた。

 話によると、彼女は今朝に瀬戸を呼んだ女子の友人らしい。その人はホームルーム前に瀬戸に手紙を渡したらしいが、彼はそれを受け取ることを拒否したという。その理由が不明瞭であることが彼女らの議題だった。

「瀬戸って彼女いるの?」

「いないらしいよ。でも好きな人はいるんじゃないかな」

「瀬戸君かっこいいからねぇ。私もあんな彼氏が欲しい」

 彼女らの言葉は宙に舞っては消えていく煙草の煙のように軽薄だった。そして、僕は彼女たちの顔にのっぺりと張られた仮面(ペルソナ)の気配を感じ取った。他者を気遣い、内面を固く閉ざしたその仮面の存在を各々は知ることはないのだろう。その輪の外側でそれを眺める僕の視線には、その仮面が色濃く刻まれている。

 他者から身を守るための仮面は存在感を発揮してはならない。何故なら、人間は嘘を極端に嫌うものだから。


 昼休みを告げるチャイムが鳴ると僕から瀬戸に話しかけた。

「瀬戸、そういえばあの後どうなったんだよ」

「あのあとって?」

「ホームルームの時だよ。手紙貰ったんだろ」僕は早く聞きたかった。彼が何故、その手紙を拒んだのかを。その理由の真相を。

「ああ、それなんだけどさ——」

 彼が言葉を繋げようとした瞬間、教室の扉が力強く開かれ、男たちの群れがぞろぞろと入ってきた。

「おい瀬戸、昼飯終わったか。昼連に遅れるぞ」

 瀬戸に声をかけてきたのは三年生の先輩だった。僕は驚いて顔を下に向ける。向かい合って座っていた瀬戸はすぐに立ち上がって、先輩に頭を下げながら勢いよくお疲れ様ですと言った。

「飯は三限で食ったんで大丈夫です。すぐに行きます」

 彼はまた僕との会話を切り上げて、教室から出ていってしまった。

 僕は危惧した。このまま僕たちの会話は立ち消えになってしまうのではないかと。僕たちの時間が形にならない安っぽい何かになって、日常の中に埋没してしまうことを強く恐れた。きっと彼は明日になったら、この話なんて忘れてしまうだろう。僕に何かを話そうとした意志すらも忘れて。僕たちの共通認識になるはずだった話題、僕たちの関係性の中にあった「流れ」が途切れてしまう。その前に僕はこの会話を完結させなければならないと思った。


 ひどく蒸した昼間は過ぎて、夕暮は夜に移り変わろうとしていた。その中でも蝉の音だけは延々と鳴り続けて、籠った熱が闇夜にまで伝ってしまうかのようだった。

 僕は校門の外壁に背中を付けて、空を眺めていた。太陽は既に姿を隠し、その光だけが漏れ出ている。東側から迫る闇は西に行けば行くほどに弱まり、間には色鮮やかな青がまだ少し残っており、空の端には暖かなオレンジが差していた。

 部活帰りの瀬戸が校門を通り抜けていった。僕はまるで、今さっき校舎を出たかのように装い、彼に話しかけた。

「瀬戸も今帰りか」

「ああ、そうだよ。今日もしごかれたわ」彼がニカッと笑うと、真っ白な歯が爽やかさを演出した。僕は眼の保養としてそれを頭の奥深くに刻み付けてから、声を発した。

「今朝、隣のクラスの女子に手紙渡されたんでしょ?」

「ああ、それなんだけど、断ったよ。ちゃんと相手を傷つけないようにね」

「なんで断ったの?彼女いるんだっけ?」

「いや、お前には先に言っておきたかったんだけどさ——」

 彼が何かを言いかけたその時に、彼の後ろ側の夜闇から溌溂とした明るい声が響いてきた。「瀬戸くーん、こっちだよー」

 僕はまたもや会話が途切れてしまったことに落胆した。でも、この声の主がこの話題を完結に導いてくれていることは明白だった。

「隣の女子高の子なんだけどさ、最近付き合い始めたんだよ。でも部活が恋愛禁止だから、隠してたんだ。これ、俺とお前だけの秘密な」

 僕たちの間にできた共通の話題は共通の秘密になった。僕は瀬戸が女の子と共に闇夜に消えていくのを見送った。彼らが視界からいなくなってから後ろを向くと、亜美が立っていた。

「こんなところにいたの? 早く帰ろうよ」僕の彼女、僕のペルソナの一部が、僕を迎えに来てくれた。

 彼女は僕の手を握り引っ張りながら歩き始めた。その手には洗っても取れない痕跡が残っていた。彼のために出した僕の情欲の跡を、彼女の手は優しく温かく包み込んだ。そして、その手から伝わる彼女の熱が静謐で薄暗い僕の内側の熱を刺激する。双方の熱に当てられて、僕の感情はどろどろとした真っ白なものに溶けていった。

 

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