伸ばした手②
地上に出ると大勢の者たちが集まっていた。
大空洞の崩落は都市全体に揺れとして伝わっていたらしい。輝たちが鉱山に潜ったという話を聞いて集まってきたようだ。
そこにはティアノラやレイはもちろん、シール、シェア、ゼロス、
輝はすぐに主要メンバーを集めて事の経緯を説明。アルフェリカを救出すべく、
輝も自身の装備を補充するために一度王城に戻った。不測の事態に備え、シリンジはいつもの倍の五十本。これだけあれば魔術が使用できないという状況に陥ることはまずないだろう。
あとは機械鎌を点検しておく。万が一これが機能しなくなったら、魔術を使用する度にシリンジを砕かなくてはならなくなる。そうなると魔術の使用回数が激減してしまう。
機械鎌を分解して各部品の点検をしていると部屋のドアがノックされた。
「構わない。入ってくれ」
応じると夕姫が部屋に入ってきた。いまの間に身を清めてきていたらしく、土や泥で汚れていた肌はすっかりと綺麗になっていた。
「準備できた?」
「分解した機械鎌を組み立てたら終わりだ。少し待っててくれ」
夕姫が迎えにきたということはもうすぐ出発の時間ということだ。輝は組み立て作業を開始した。
慣れた手つきで機械鎌を組み立てる輝の背中に、覚えのある柔らかな感触。
夕姫が後ろから抱きついて肩越しに手元を覗き込んでいた。すぐ横にある彼女から石鹸の香りが漂ってくる。
「ねぇ、輝くんはアルちゃんのことどう思ってるの?」
「どうって、頼りになる仲間だけど」
なぜそんなことを聞いてくるのかは気になったが、輝は作業の手を止めずにそう答えた。
「それだけじゃないでしょ? だって輝くん、『アルカディア事件』まで起こしてアルちゃんを助けようとしたんだもん。あれだけのことをする理由が、そんなことだけのわけないよ」
――ガチン。
手元が狂い、部品の歯車が床を転がった。夕姫はそれを摘み上げて輝の手に置く。
「……俺が『アルカディア事件』を起こしたのは、アルフェリカと約束をしたからだ」
受け取った歯車をはめ直し、輝は作業を再開した。先ほどよりも手の動きは少し遅い。
「約束?」
「俺はアルフェリカを傷つけない。俺はアルフェリカを裏切らない。アルフェリカを傷つけようとする奴らから、俺はアルフェリカを守る……そういう約束だ」
何故そんな約束をしたのかは、そのときの感情を覚えていないからわからない。しかしアルフェリカがその約束を拠り所としていることだけはわかる。
自分で交わした約束なのだから、どんなことをしてでも守らなければならない。
「なに、それ……」
耳元で囁く夕姫の声に怒りが滲み出ている。その異変に気づいたと同時、輝は夕姫に押し倒された。
馬乗りになり、両肩を押さえつけ、蒼眼を覗き込む紫の瞳は、童顔の彼女に似つかわしくないほどに怒りの炎を灯していた。
「そんなっ、ことで……そんな約束一つで、輝くんは何もかも捨てちゃったの!?」
掴まれた肩がギシギシと痛みを訴える。夕姫を押しのけようにも、恐ろしいほどの力でびくともしない。
「私は、輝くんと過ごせる時間が大好きだった! だから輝くんが学校を辞めちゃったときはすごく悲しかったんだよ!? でも都市にはいるからっ、一緒にセンター街を歩いたり、ご飯を作りに行ったり、そーゆー時間が変わらず続けられるならって、自分を納得させてた! でもアルちゃんと出会って、『アルカディア事件』が起きて、輝くんは『アルカディア』からもいなくなった! 輝くんは世の中の敵になっちゃって、本当にもう会えなくなって、辛くて、悲しくて、毎日毎日泣いてた!」
その叫びは何よりも輝の胸を抉った。ゼロスに問われたとき、その意味を微塵も理解していなかったことを思い知る。
「私が危険な目に遭っていたら、守ってくれるってゆってくれたこと、輝くんは覚えてる?」
覚えている。しかし他人事のようでまるで実感が湧かない。
もしいま「守ってほしい」と言われて同じ約束ができるかと問われれば……。
口には出さずとも、それは彼女に伝わってしまい――
「……そうだよね。輝くんとって、私はただの友達だもんね。アルちゃんとの約束に比べたら、覚えてる価値もないものだよね」
彼女の瞳に涙が溢れた。
「輝くんは私のことなんとも思ってないんだもんね。約束しても何回もドタキャンしたし、ひどいときは一緒にいても、なんの説明もなく私をほっぽって狩人のお仕事に行っちゃってた。作った料理がダメになっちゃったこともたくさんある。出会ってから二年も一緒にいたのに、出会って二日のアルちゃんのために、輝くんは私との時間をあっさり捨てた」
「そ、れは……」
何か言わなければならない。しかし言うべき言葉が出てこない。夕姫が泣いていたとゼロスに言われた。その言葉の重みを全く理解できていなかった。
「なんでアルちゃんだったの? なんで私じゃダメだったの? 輝くん、私の気持ちに気づいてたよね? どうして無視するの? 無視するなら、どうして優しくしたの? 期待してる私が、ばかみたいじゃん」
彼女が胸に抱くのは恋心。そうとわかって、輝は自分でも理解不能な葛藤に苛まれた。
彼女の想いに応えたい、応えなければならない。
彼女の想いに応えてはいけない、許されない。
相反する感情が頭の中で渦を巻いて、口を開こうにも言葉にならない。
「ねぇ、どうしたら輝くんは私を見てくれるの? アルちゃんじゃなくて私を見てくれるの? どんなことでも頑張るから教えてよ。輝くんが望んだこと何でもするから。私があげられるものは全部輝くんにあげるから」
夕姫は両手で輝の顔を包み込むと唇を重ねた。
少しだけ湿った唇。触れた唇から伝わる感触は柔らかく、すぐそばにある彼女の香りが脳髄を溶かしにかかる。思考は緩やかに停止へと向かい、このまま彼女の熱に溺れたいという、失ったはずの欲求さえ生まれた。思考が漂白され、理性がひび割れていくのがわかる。
輝の理性が崩壊するより先に夕姫が唇を離した。
「ゆっとくけど、初めてなんだよ? 輝くんだからあげたの」
口元を手で隠し、頬を染めて恥じらう夕姫の姿は、目にしているだけで輝を駆り立てる。
「キスだけじゃないよ? 全部あげる。心も、身体も、未来も、命も。それで輝くんの傍にいられるなら、なんでもあげるよ? なんだってするよ? ちょっと恥ずかしいけど、キスよりも先のことだって……」
躊躇いがちに夕姫は衣服を脱ぎ始めた。ただそれだけのことなのに肌を露わにしていく彼女の肢体から目を離すことができない。
だが混乱しつつも、かろうじて残っている理性がこの状況を冷静に分析していた。
【魅了】? しかしレイの力も効かなくなった自分が、どうして彼女に魅せられる? それに彼女は
ならば魔術か? 〝美神〟を凌ぐ【魅了】を魔術で実現させるなど並大抵のことではないが、不可能ではない。
そう考えた方がまだ納得できる。
故に――
「
シリンジを一つ砕き、
自己と世界の境界線を破壊して、世界の井戸から知識の水を汲み上げる。
知識の奔流に飲まれながら、理解できないまま認識したのは、神楽夕姫を歪める何かの術式。
なぜそんなものが、という疑問よりも先に怒りが湧き上がった。
彼女の想いを、彼女の心を、
許さない。許せない。許せるはずがない。
術式が加速する。夕姫を歪めるモノを解析し、解読し、分解し、無効化し、それだけではまだ足りない。
こんなモノは認めない。こんな存在は許さない。
一片の欠片も残さず、この世界から消え失せろ!
拒絶の意志は知識の海を走り抜け、加速した術式が世界へと広がっていく。
パキィン、と何かが砕ける音がした。
頭が痛い。頭蓋を砕いて楽になりたい。もう何度も使用した魔術ではあるが、そう思わずにはいられないほどの痛み。
だからと言ってそんなことができるはずなく、輝は痛みを堪えながら夕姫を見る。
下着姿の夕姫と目が合うと、彼女は耳まで赤くなるほどに赤面した。
「あ、えっ、ち、違うのっ! こ、これは、その……そーゆーこと、じゃ、なくて……」
慌てて脱ぎ捨てた衣服を拾い上げ、逃げるように輝の上から退く。瞳からはぼろぼろと涙が零れ落ちていた。
「……夕姫」
「ちがっ、違うのっ……そーじゃなくて、そーゆーんじゃなくて……ただ、私……」
夕姫はしゃくりを上げながら、弁解しようとするが、言いたいことがうまく纏まらない。
違う違うと、繰り返し何度も口にする。
彼女の泣き顔を見ているのが、とても辛い。
「わかっている。わかっているから。だから、泣かないでくれ」
夕姫の顔がくしゃりと歪む。
「だって、だって……私、いますっごく卑怯なことしたんだよ? 輝くんの、優しさにつけ込むような……け、軽蔑したでしょ? 輝くんのこと何も考えないで、私、無理やり迫ろうとした……」
夕姫は自分が及んだ行為をひどく後悔していた。
「軽蔑するものか。軽蔑なんてしない。軽蔑されるなら、それは俺だ」
夕姫の優しさに甘えていた自分。夕姫を傷つけていた自分。傷つけていたことすら自覚していない自分。その記憶すら他人事のように感じている自分。
軽蔑されるべきはこの自分に他ならず、そんな男をなお気遣うことができる夕姫をどうして軽蔑できようか。
黒神輝はずっと神楽夕姫を蔑ろにしてきた。実感ができないからといって許されることではない。
「俺は、記憶に障害を持っている」
正直に話すことが贖罪になるとは思えない。しかしこんな自分を想ってくれる彼女に隠し事をすることこそが不誠実であると思った。
きっとそれは独りよがりで利己的で醜悪な自己満足でしかないだろう。
けれど自分には夕姫に示せるものがそれしかなかった。
だから輝は覚えている限りの事を話した。
原因はおそらく
夕姫と交わしたという約束も、もう思い出すことができないことを。
話すほどに彼女の頬に涙が伝う。
それを見る度に息が苦しくなる。
全てを話したとき、輝はもう夕姫の顔を見ていることができなかった。
「なん、で……」
夕姫の手が輝の胸に触れる。ぎゅっと強く握り締められ、シャツに皺を作る。
「なんでいっつも、黙ってるの……? どうして隠し事、するの……? いっつもいっつも、黙って隠して……全部一人で勝手に決めちゃう……」
額を押しつけ、肩を震わせる。
「学校を辞めるとき、相談くらいして欲しかった! 狩人のお仕事に行くとき、理由くらいゆって欲しかった! 『アルカディア』を出るときだって――」
彼女の叫びが輝を責めたてる。シャツを掴む力が強くなって生地が破れる音が聞こえた。
「一緒に……一緒に連れていって欲しかった!」
それが彼女の本心。ここまで言われなければ理解できない己の愚鈍さが嘆かわしかった。
「ねぇ、戻ってきてよ。戻ってこれないなら、せめて一緒にいさせてよ。ちょっとくらい、私のことを見てよ」
「ああ」
頷くことしかできない。しかし夕姫は悲しそうに笑って。
「またそうやって軽くゆっちゃう。輝くん誠実って言葉知ってる?」
「知って、いる」
知識としては。自分が誠実であるかと問われれば否と答えるしかないだろう。
「覚えてないだろうけど、前も輝くんはそうゆったよ。だから輝くんのゆーことはもう信じない」
自分でも信じられないくらいに、その言葉は堪えた。しかし夕姫がそう言うのは当然だ。自分はそれだけ彼女の信頼を裏切ってきたのだから。
「でも、私が見て感じた輝くんのことは信じる」
湖面に雫が落ちるように、憂いとは別の感情が波紋となって広がった。
「輝くんの優しさを私は知ってるよ? 輝くんが頑張り屋さんなのを私は知ってるよ? 人のために身体を張れるってことを私は知ってるよ? 輝くんは否定するだろうけど、それは全部、私が輝くんを見て、感じて、知ったことだもん。だから輝くんの言葉はもう信じない。輝くんの言葉にもう振り回されない」
だって、と夕姫は続ける。
「私は輝くんのことが好きだから」
はにかんで、しかし確固たる意思を持って、夕姫は輝に想いをぶつける。
何が「だって」なのか輝には理解できない。けれど理解はできなくとも、答えは出さなければならないのだと思った。
「夕姫」
名前を呼ぶだけでひどく努力を必要とした。これから口にしようとしていること。それを彼女に伝えることが怖い。
そう感じている自分がいることに輝は困惑した。この感情の正体に心当たりがあっても、これがそうだと確証を持って言うことができない。
それでも夕姫の気持ちに答えを出さなければならない。
輝は意を決して口を開き――
「おいこら輝!」
ドアを壊す勢いで部屋に乗り込んできたティアノラによって遮られた。
「いつまで待たせるんだい! もうとっくに時間過ぎてんだ……ぞ」
張り上げた声が尻すぼみになっていく。
互いに身を寄せて抱き合っている輝と夕姫。輝は衣服が破れて着衣が乱れており、夕姫に至っては下着姿。おまけにシリンジが砕けて飛び散った血が床に斑点を作っている。
それらを見て何を連想するか。ティアノラはわなわなと肩を震わせて拳を振りかぶった。
「この非常時に何やっとんじゃああっ!」
「ごふっ!?」
輝はティアノラに顔面を殴打された。
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