触れたくて⑩


 唐突に目の前が真っ暗になったとき、アルフェリカには何が起こったのかわからなかった。


 聞こえたのはガラスが砕けた音。『妖犬』コボルトの群れに押し倒されたとき、ランタンが割れた音なのだと思い至った。


 どうして割れたのかはわからない。少なくとも眼前にいた魔獣ではないはずだ。では背後から? けれど後ろには夕姫しかいない。


 そんなわけがないと思った。しかしは遠ざかる足音を聞いて、その疑念が大きく膨らんだ。


 まさか本当に夕姫が?


 思考は一旦そこで打ち切られた。鼻先を掠める生臭い吐息に思わず顔をしかめる。


 獲物を逃すまいと、のしかかってきた『妖犬』コボルトに胸を押さえつけられた。大きな手で乳房が潰され、肺の空気が押し出されてしまう。胸に体重をかけられて息がしづらい。


 舌で頬を舐められた。臭い。気持ち悪い。


 しかしそれ以上のことはしてこない。押さえつけて動けないようにするだけで、噛みついたり爪で引っかいたり、こちらを傷つけようとする様子はない。


 何のつもりか。そう思った矢先、他の『妖犬』コボルトがアルフェリカの両足に割って入る。股関節部に走る痛みに苦悶が漏れる。



「まさか……」



 サーっと自分の血の気が引いていく音がはっきりと聞こえた。繁殖期という単語が脳裏をよぎる。



「じょ、冗談じゃないわよっ!?」



 悲鳴も同然に叫んで〝断罪の女神〟の力を全解放。全身を覆う神名の輝きによって坑道内が青白く照らされた。自分を取り囲む『妖犬』コボルトたちの姿を目で捉えることができるようになる。



「きゃああああっ!?」



 覆い被さる『妖犬』コボルトに下半身にあるモノを見て今度こそ悲鳴が堪えられなかった。無我夢中で【白銀の断罪弓刃】パルティラを振るう。魔力の乗った斬撃が『妖犬』コボルトの胸から上を消し飛ばし、残された胴体がアルフェリカの上に落ちてきた。



「w□せdr%&f△t#$gy◯h~~~~っ!?」



 なんかっ、なんか当たってる!?


 腹部から伝わる生々しい感触に発狂寸前の絶叫。


 身の毛もよだつ感覚に双剣が無尽に走り、取り残された胴体を微塵切りにした。闇雲に振り回される刃は他の『妖犬』コボルトも巻き添えにして、転がり落ちた魔力素マナ結晶が余波で粉々になっても止まらない。



「魔獣は全滅しましたよ。坑道が崩れてしまいますから、どうかその辺りで」



 かけられた声によってアルフェリカは即座に我に返った。輝とは違う男の声。


 青味がかった黒髪。貼りつけたような微笑みは仮面のようで気持ち悪い。



「アーガム……だったわよね?」


「貴女とはまだ面と向かってご挨拶していませんでしたね。アーガム=カロライナと申します。どうぞお見知り置きを、見目麗しき女神よ」


「あたしの名前はアルフェリカ=オリュンシアよ。ヘンな呼び方をしないで」


「おっと、これは失礼。アルフェリカ殿。貴女があまりにも美しかったので、ついそうお呼びしてしまったのです。お気に障ったのであれば謝罪致します」


「そういうお世辞は聞き慣れてるからいいわ。それで、こんなところでキミは何をしてるの?」


「鉱山から崩落音が聞こえため、魔獣退治に向かった御三方の安否を確認するために、及ばずながらお力添えをと思いまして」


「ふーん」



 にこにこと微笑むアーガムにアルフェリカは【白銀の断罪弓刃】パルティラを振り下ろす。アーガムは咄嗟に飛び退いて斬撃を躱し、振り抜いた刃は空を斬った。



「な、何のおつもりですか!?」


「何のつもり? それはこっちの台詞よ。どうしていま嘘をついたの?」



 崩落音を聞いたというのは嘘。安否を確認しに来たというのも嘘。力添えするというのも嘘。その驚いている素振りも嘘。


 この男は嘘しかついていない。


 アルフェリカにとってアーガムはいきなり輝の近くに現れた謎の魔術師という程度の認識でしかない。そんな男に嘘を並び立てられれば警戒するなという方が無理話だ。



「わかっていたことですが、やはり〝断罪の女神〟の力は健在のようですね」



 胡散臭い笑みを浮かべてアーガムはため息交じりに肩をすくめた。自分を前にして取り繕おうとしないことが、よりアルフェリカの警戒を強める。



「輝に近づいて、何が目的なの?」


「黒神殿が首輪を【解呪】ディスペルした仕組みを知ること。私が彼に近づいたのはそれが理由です」



 今度の答えには嘘はなかった。しかしそれだけでは警戒を緩めるには値しない。


 その判断は正しかった。



「ですが、今の目的は貴女を捕らえることです。誠に遺憾ながら、ね」



 これにも嘘はなかった。それによってアルフェリカは最大限アーガムを警戒し、大きく距離を取った。いつでも射ることができるよう弓を構える。


 アーガムの能力は未知数。最悪、坑道を崩して生き埋めにする。自分も崩落に巻き込まれる可能性があるが、〝断罪の女神〟の力を駆使して何としてでも生き延びる。



「坑道を崩して私の足止めを考えているのかもしれませんが、やめておいた方がいい。貴女を捕らえに赴いたのだ。当然それなりの準備をしている。これでも〝第零階級魔術師〟アインメイガスですからね。例えば、この鉱山の地盤を破壊して坑道を全て崩落させる、なんてこともやろうと思えばできるのです」



 〝断罪の女神〟の力がある故にハッタリではないとわかってしまう。方法はどうあれ、この男には山一つを崩す手段がある。



「それだとあたしも巻き込まれることになると思うけど? そうなったらあたしを捕まえるどころじゃなくなるでしょ」


「準備をしている、と申し上げたはずだが? 仮にそうなろうとも目的の達成には支障はないのですよ。それにその手段を用いれば、黒神殿や神楽殿、さらにはここで働く方々にも被害は及ぶでしょう。それを無視して抵抗や逃亡を押し通せる貴女ではありますまい」



 これにも嘘はない。これでは駆け引きにもならない。抵抗すれば崩落させる。逃亡すれば崩落させる。


 自己申告通り用意周到だ。こちらの逃げ道は全て封じられているらしい。


 ならば――



「その手段を使わせる前に私を討ちますか? もちろん対策済みです」



 見透かすようなアーガムの回答。これすらも嘘がない。


 だが知ったことではない。構わずアルフェリカは矢を放つ。


 アーガムは多重展開した【対物障壁】アンチ・マテリアル・シールドで防御に回る。しかしそれは失策。障壁に接触した矢は小爆発を起こし、舞い上がった土埃がアーガムの視界を奪った。


 この半年の間に鍛錬で身に付けた力。エクセキュアが使用していた炸裂する矢の【造形】。まだ連射はできないが、単発であれば射ることはできる。


 土埃の中にいるアーガムからはこちらは見えないはず。だが〝断罪の女神〟の力を持つアルフェリカにはアーガムから発せられる黒い靄によって居場所がわかる。


 力を全て解放。輝を脅かす罪人に女神の処刑が執行された。


 アーガムの首が飛ぶ。



「再度申し上げよう。対策済みです」


「っ!?」



 撥ねた首と胴体が消えている。何かの魔術か。見失ったアーガムの姿を探して周囲を見回す。



「どこを見ているのです? 私はここですよ」


「なっ……」



 アーガムは目と鼻の先にいた。こんなに近くにいて、どうして気がつけなかった!?


 想定外の事象と虚を突かれたことによる驚愕。それによって晒した隙は致命的に過ぎた。


 首に何かを押し当てられる。カシュン、と機械的な音。金属特有の冷たさがアルフェリカに悪寒を感じさせた。



「くっ!」



 腕を切り落とそうと剣を薙ぐ。確実に間合いに捉えたはずの剣筋はしかし空を切った。


 目の前にいたはずのアーガムがいつの間にか間合いの外にいる。


 何を取り付けられた? 敵に意識を向けたまま首元に手を添えた。


 首輪だ。


 血の気が引いていった。奴隷を縛るために取り付けていたものだ。あの首輪と異なり、つるつるとした丸いものが四つ付いているが、基本的な機能は同じに違いない。


 アルフェリカにこの首輪を取り外す術はない。輝なら取り外せるだろうが、いまはいない。


 このままでは本当に捕まってしまう。ならばせめて道連れに――



「再三申し上げよう。対策済みです」



 【白銀の断罪弓刃】パルティラが形状を保てずに霧散した。身体が鉛にでも変わったかのようなひどい倦怠感。全身を覆った神名からも輝きが失われ、坑道内が再び暗闇に飲み込まれた。


 いったい何が起こった?



「その首輪は対象者の魔力を根こそぎ奪います。魔力なければたとえ転生体であっても神の力は使えませんからね。神名の侵食を止めることはできないため、まだ未完もいいところですが」



 戦う力を奪われたことによって、不安、恐怖、焦燥が一挙に押し寄せてきた。身体が勝手に震えて腰が砕けてしまう。


 アルフェリカ=オリュンシアの強さは〝断罪の女神〟の力に支えられたもの。それが失われればただの無力な娘に過ぎない。



「さて、これで貴女を連れていけば任務完了ですね」


「……どこに、連れて行く気?」



 声が震えるのを必死に堪えて、魔術で光源を作り出したアーガムを睨みつけた。


 虚勢を張ることしかできない自分が酷く情けない。



「『魔導連合』ですよ」


「え……?」



 思い出したくもない記憶が頭の中を駆け巡る。痛くて辛くて苦しくて死すら望んだ暗い地獄の日々。陵辱と蹂躙が繰り返される実験の毎日。


 憎んでさえいたエクセキュアの手を借りて抜け出した場所。


 あそこに、また、連れ戻される。


 虚勢を張れなくなるにはそれで十分だった。



「い、いや……お願い……それだけは、やめて……」



 呼吸が上手くできない。指先が痺れる。足に力が入らない。ぼろぼろと大粒の涙が頬を伝う。恥も外聞もなく無様に懇願することしかできない。


 それでも、あそこに戻ることだけは嫌だ。


 アーガムが近づいてくる。


 アルフェリカは必死に逃げようとするが足腰が立たない。それでも距離を取ろうとして地面を這いずったが、やがて背中に壁が当たった。


 もうアルフェリカが逃げられないということを確認しているアーガムの歩調はゆっくりだった。それが返ってアルフェリカの恐怖を増長させた。



「いや……いや……こ、来ないで……」



 アルフェリカは目の前に立つアーガムを見上げることしかできなかった。自分の下半身に生暖かいものが広がっても、気づけるだけの余裕はない。


 その怯え様を目の当たりにしたアーガムから張りつけたような表情が剥がれ落ちた。


 浮かんでいるのは何かに押し潰されそうな悲痛な面持ち。



「恨んでくれて構わない。いや――」



 アルフェリカの額に手を伸ばしながら、アーガムは力なく首を振った。



「必ず恨んでください」



 まるで罰を望んでいるかのような言葉を最後に、アルフェリカの意識は深く閉ざされた。


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