触れたくて⑤
王城に戻った夕姫はメイドさんに作ってもらった昼食を持って輝の執務室に向かっていた。
イリスに言われた通り、まずは輝とちゃんと話してみようと思う。昼食を口実に彼と話す時間を作ろうという算段だ。彼がまだ理想郷にいたとき、いつも使っていた手口。
昨日は何を話していいのかわからず、結局言えたのはお礼一つ。もっともっと話したいことがたくさんあった。言ってやりたいことがいっぱいあった。
彼は秘密主義だ。何でもかんでも隠してしまう。きっといまでも変わっていない。
だから聞く。聞き出す。相手を思って隠しているということはわかっているけど、やっぱり隠し事はしてほしくない。
もっといろんなことを話してほしい。もっと自分を頼ってほしい。
それは自分のわがままだろうか。
ふとそんな思考がよぎり執務室の扉の前に立って二の足を踏んでしまう。
そんなことは確認しなければわからない。聞いてみなければわからない。
わがままだと、鬱陶しいと、そう言われてから考えればいいのだ。
……絶対に、へこんでしまうだろうけど。
扉の向こうに輝がいる。
深呼吸を一つ。意を決してノックしようとしたとき扉の向こうから声が聞こえた。
扉に耳を当ててみる。アルフェリカの声が聞こえた。
「輝は、夕姫のことをどう思っているの?」
心臓が飛び跳ねた。なんて質問をしてくれるのか。危うく手を滑らせて昼食を落としてしまうところだった。
気になる。聞きたい。聞いてみたい。輝が自分のことをどう思っているのか。
同時に聞くのがちょっぴり怖い気もするけれど、扉から耳を離すことはできなかった。
そしてすぐに聞かなければよかったと後悔した。
「ただの友人。それだけだ」
多少は覚悟していたことなのに想像以上の衝撃を伴った。景色が揺らぎ、手にしていた昼食を今度こそ落としてしまう。
大きな音を立てて食器が割れ、料理が散乱する。だけどそんなことに夕姫自身は気づきもしなかった。
悲しいのか、虚しいのか、悔しいのか、自分でもわからない感情が頭をぐるぐると掻き回し、胸を締めつける。
心のどこかで自分は輝にとって特別だと思っていた。
家に行ったり、手料理を作ったり、一緒に遊んだりしたことがある。
センター街を歩くときは手を握ってくれたことがある。
わがまま言って彼の家の鍵を貸してもらったことがある。
血だらけになりながら狩人の人たちから庇ってくれたことがある。
たった一度だけだったけど――力強く抱き締めてくれたことがある。
それらは自分が特別だからだと思っていた。
けれど違った。輝にとって自分は特別ではなかった。
ただの友人。それ以上でもそれ以下でもなかった。
胸が痛い。胸が痛い。胸が痛い。
逃げるように走り出した。いや、逃げた。
人のいない場所に向かって無心で走る。輝のいる場所からできるだけ遠くへ。
走る。走る。走る。
やがて人気のない路地裏で夕姫は足を止めた。その場でしゃがみ込んで膝を抱える。暗い谷底に突き落とされたかのように地面の感覚がなかった。
(夕姫……)
ウォルシィラが何かを言おうとして、しかし言葉を見つけられずにいた。
わかっている。自分が勝手に勘違いしていただけ。自分が勝手に期待していて、それが輝の気持ちと違っていただけ。
よくあることだ。特別な悲劇ではない。世の中にありふれたごくごく普通のすれ違い。大したことではない。
なのに痛くて苦しい。息がうまくできなくてまるで陸で溺れているよう。
瞳に溜まるものが溢れ出さないように堪えるので精一杯だった。
「おや、うら若き乙女がこのようなところでどうなされた?」
「アーガム、さん……」
「覚えて頂いており光栄だ。神楽殿」
魔術師然とした黒いローブを身に纏った優男は人畜無害そうな微笑みを浮かべる。
夕姫はすぐに立ち上がってなんとか笑顔を取り繕う。うまく誤魔化せているか不安でしかたなかった。
「何か辛いことでもあったのですかな?」
「え?」
「そのような顔をされていては誰もがそう思うでしょう。まるで恋が叶わなかった乙女の表情だ」
核心を突かれて虚勢が揺らぐ。じわりと目尻が滲んだ。言葉にされるだけで耐え難いものがある。
「このままで良いのですか?」
片手で十字架のようなものを弄びながらアーガムは夕姫に問いかけた。
「その想いを諦めて良いのですか? 神楽殿は黒神殿を慕っているのでしょう? しかしその想いは彼には届いていない。ここで諦めてしまえば貴女の想いは永遠に彼へ届かない」
知らないはずのことを、確信的に、断定的に、アーガムは指摘して夕姫の想いを暴き立てる。
「そうなればきっと、いずれは別の誰かが彼の隣にいることになるでしょう。それは彼が救った転生体の誰かかもしれない。王城の女給の誰かかもしれない。
アーガムの一言一句が胸に刺さる。強い人、綺麗な人、優秀な人。『ファブロス・エウケー』に来てからも色々な凄い人に出会った。
そんな人たちを比べると自分はなんて矮小なんだろう。何も決められないで流されるままの人間。
昨日、輝に再会できたのだってそうだ。
輝が『ティル・ナ・ノーグ』に働きかけた。シールがそれに応じ、『ファブロス・エウケー』に来ることを決めた。輝の要請に応えて『ファブロス・エウケー』に残ることを決めたのだってウォルシィラだ。
自分は何もしていない。輝に向き合うどころかろくに話もできず、逃げていま此処にいる。
アーガムは指先で十字架を弄ぶ。
「貴女が身を引けばきっと黒神殿はアルフェリカ殿を選ぶだろう。なにせ彼女のために『アルカディア事件』を引き起こしたほど。そうまでして黒神殿は彼女を守ろうとしている。それにアルフェリカ殿も黒神殿に尽くそうとしていることが傍目にわかる。あの二人は互いのために本気になれるのだ」
言葉の棘はじわじわと心を蝕む。想像するだけで痛くて苦しくて泣き出しそうになる。
耐えられない。耐えられない。耐えられない。
輝がどこか遠くに行ってしまう。輝が自分を見てくれなくなる。輝が自分のことを忘れてしまう。
そして自分以外の誰かと笑い合う。幸せそうに。
その誰かとは――きっとアルフェリカなのだろう。
「嗚呼、なんという悲劇だろうか。こんなにも貴女は彼を想っているというのに、あの二人の間には貴女が割り込む余地がない。守護者となってまで遠く離れたこの地に辿り着き、ようやく再会できても、貴女の居場所はすでに別の者に取られてしまっている」
芝居がかった口調でアーガムは夕姫の気持ちを代弁する。彼が自分の経緯を知っている理由がどうでもよくなるくらいに頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「諦めて身を引くのも選択だ。失恋とは苦く悲しいものだが、それも一つの恋。乗り越えることで貴女の魅力はさらに増すことになるのでしょう」
失恋という単語が重くのしかかってきた。
そっか。自分はもうフラれていたんだ。輝がアルフェリカを守り、そして理想郷を去ったあの日に。
とうとう涙が堪えられなくなった。大粒の雫がぼろぼろと頬を伝って石畳を濡らす。
それでも――
「や、だよ……」
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
輝と離れたくない。輝を取られたくない。輝と一緒に居たい。輝とまだまだ話したい。やりたいこともいっぱいある。いろんなモノを見て、いろんな場所に行って、見て触れて感じたことを彼と共有したい。
輝と過ごしたあの幸せな時間がもう戻ってこないなんて絶対に嫌だ。
「泣かないでおくれ、神楽殿。貴女の想いがどれほどのものか、その流れる涙を見れば
そうだ。輝を諦めたくない。誰にも取られたくない。
「ならば話は簡単だ。貴女がアルフェリカ殿の代わりとなればいい。彼女よりも貴女の方が優れていることを証明すれば良いのだ。そうすれば黒神殿は貴女を頼る。貴女を見るようになる。彼の役に立つことができるようになる」
転生体を敵性神から救うために輝が『ティル・ナ・ノーグ』に要請を出してきたことを思い出す。
それは紛れもなく輝が自分を頼ってくれたということ。
他の誰でもなく神楽夕姫を。
その上でアルフェリカよりもこの都市に貢献をすればどうなるだろうか。
アーガムの言う通り、きっともっと輝は自分を頼ってくれる。それを励みにもっと頑張って彼の役に立てる。
そうなれば輝は神楽夕姫を見続けてくれる。
アーガムは指先で十字架を弄ぶ。
「さあ、後は貴女の選択次第だ」
考えてみればアルフェリカはずるい。
出会って間もないはずなのに輝に全てを捨てさせた。輝が世界の敵なる決意をさせた。『アルカディア』で殺戮を行ったのはアルフェリカなのに、その片棒を輝に担がせた。
長い時間をかけて手に入れた輝との時間を彼女が奪った。輝との日常を彼女が過酷なものに変えてしまった。
なのに輝の隣にいるのはアルフェリカ。輝が見ているのもアルフェリカ。
ずるい。ずるい。ずるい。
これが嫉妬であることはわかっている。それでも嫉妬せずにはいられない。
自分が二年間もかけて築き上げたモノを彼女は二日で壊し、横から
そして自分が輝に焦がれている間、彼女はずっと彼の側にいた。
考えれば考えるほどにアルフェリカ=オリュンシアはずるい。
アルフェリカさえいなければ。アルフェリカが『アルカディア』に来なければ。
いまも輝の家で手料理を振る舞っていたのに。守護者になんてならなくて済んだのに。
自分にないものをたくさん持っているくせに輝まで持っていこうとするのか。
アーガムは指先で十字架を弄ぶ。
(夕姫! その思考はダメだ! くっ、何かの干渉を受けている!?)
ウォルシィラが叫んでいるが取るに足らないモノのように思えた。
受け身でいたら何も進展しない。自分が取り残され、置いていかれて、失うだけ。
なら積極的にいくしかないだろう。
「アーガムさん、ありがとうございます」
涙はいつの間にか止まっていた。目元は少し腫れて頬に落涙の跡が残っているが、決意した心は晴れやかだった。
「なに、私のような者の言葉が何かの役に立ったのなら嬉しい限りだ。貴女の恋路だ。貴女の思うようにするのが良いでしょう。そうそう、彼はこれからあちらの狩人のギルドに行くらしい。すぐに会いに行くのなら、向かうのが良いだろう」
「はい、そうします」
ギルドの方角を指差すアーガムに一礼して神名の輝きを纏った夕姫は、風のように駆け出した。
――――☆★☆★☆★――――
アーガムは小さくなっていく夕姫の後ろ姿を目で追う。その表情は沈んでいた。
「乙女の恋心を利用するだけではなく、あまつさえ術式兵装で想いを捻じ曲げるとは。我ながら落ちぶれたものだな」
手に持った十字架を見ながらアーガムは自嘲した。
いずれ自分は地獄に堕ちるのだろう。致し方ない。このような非道、どのような理由があろうとも許されていいはずがない。
それでも守りたいものがあるのだ。大切なものがあるのだ。
それを成すまでは悪魔にでも魂を売ろう。無関係な他人を使ってその大切が守れるのならいくらでも使い潰そう。
犯した罪は地獄の業火で焼かれ続けることで償えば良い。
「たった一人の家族なのだ。私が守らねばならぬのだ。だからどうか――」
紡がれた言葉は許しを請うモノか。それとも別の何かか。
どちらにせよ――その言葉は風にさらわれて誰の耳にも届くことはなかった。
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