第三章:触れたくて《エンブレイス》
触れたくて①
窓から差し込んだ朝陽が眩しくて夕姫は目を覚ました。
見慣れない部屋。見慣れない家具。自分が四人は横になれそうな大きなベッド。
「そっか、ここお城の中だっけ」
まだぼんやりとする頭で昨日のことを思い出した。パーティーの後、宿へは戻らずにこの城に泊めさせてもらったのだ。
そうすれば輝の近くに少しでも長くいることができると思ったから。
自覚するとなんだか恥ずかしい。
ふかふかな感触を少し名残惜しく思いながらベッドから這い出る。鏡を見るとまだ目は半開き。髪もぼさぼさだ。
こんな姿、とても彼には見せられない。
「顔、洗わないと……あれ?」
そういえばこの部屋には洗顔スペースがない。どこで身だしなみを整えればいいのだろう。昨日はお風呂にも入れなかったからできれば身体も綺麗にしたい。
そんなことを考えていると部屋のドアがノックされた。
「おはようございます。神楽様。お目覚めでしょうか」
「あ、はい、起きてますっ。おはようございます!」
ドア越しに聞こえた女性の声に反射的に返事をした。メイドさんかな。
「湯浴みのご用意がございます。朝食の前に如何でしょうか?」
「はい! 是非!」
即答した。ちょうど入りたいと思っていたときにこの提案。なんて準備がいいのだろう。
「それでは少々失礼させて頂きますね」
一言断りを入れてメイドさんが部屋に入ってきた。知っているメイド服とはまた異なるデザインの服を纏った金髪の女性。身体には神名の刻印がある。
「ご入浴に必要なものは私がお持ちしました。お着替えになるお召し物はどちらになりますか? そちらも私が運ばせて頂きます」
「えっと、あれです」
机の上に畳んで置いてあった服を指差す。昨日の日中にも着ていた服だけど、それ以外の着替えは宿だから仕方ないよね。
金髪メイドさんは頷くと畳まれていた衣服を丁寧に布に包んでくれた。
着替えが人目につかないようにという配慮。気配りが素晴らしい。自分の着替え――特に下着――を誰かに見られるのは恥ずかしいので、そういう心遣いは嬉しい。
「どうかされましたか?」
「あっ、いえ、何でも……」
夕姫の視線に気づいた金髪メイドさんに尋ねられて慌てて目を逸らした。
それをどう受け取ったのか――。
「ああ、申し訳ございません。一応、隠せる部分は隠しているのですが。顔ばかりはどうしても……ご不快でしたら別の者に代わりますが」
金髪メイドさんは頬の神名を片手で覆い隠しながら申し訳なさそうに顔を伏せる。
なんだか罪悪感が半端無い。夕姫は両手と顔を横に降った。
「そ、そんなことはありません! わ、私も転生体ですし、気にしませんよ! ただ転生体の人がメイドをしてるのって何でだろうって思っただけで……」
「そうでしたか」
心なしか安堵したように息をつき、金髪メイドさんは手慣れた手つきで荷物を纏めた。
「それでは大浴場にご案内致します」
歩き出した金髪メイドさんの後ろをついて行く。
廊下に出ると肌に触れる空気はひんやりと冷たかった。秋が終わってから朝の冷え込みは日々強くなっている。
昨日も思ったことだが王城の中は豪華だ。絵画や調度品が見たことないものばかりで、ただ歩いているだけで目移りしてしまう。
「私は元奴隷だったんです」
歩いていると金髪メイドさんがそんなことを言った。
「王族に買われ、この城で給仕をしておりました。と言っても給仕とは名ばかりで実際に行なっていたことはそれとは程遠いことばかりでしたが」
「それって、どんなことだったんですか……?」
「女性の神楽様は聞かれない方がよろしいかと」
儚げな微笑み。
それはつまり、そういうことなのだろうと察してしまった。
そして思う。
もし、自分がこの都市で生まれ育っていたら。
想像しただけで怖くなった。
「しかし黒神様が王族から私を解放して下さったのです。自らの危険を顧みず、絶望と苦痛に喘ぐ私たちに手を差し伸べて下さいました。それだけではなく衣食住を保証し、こうして働く場までもご用意して下さいました。それだけに受けたご恩は計り知れません。私は少しでもこの恩をお返しするために、こうして給仕を務めさせて頂いているのです」
今度は嬉しそうに金髪メイドさんは笑った。未来に希望を抱いて晴れやかに。
輝が救った人が浮かべた表情。それを見ているだけでなんだか誇らしい。
「黒神様に救われたのは私だけではありません。大勢の者が彼に救われました。そんな黒神様の力になりたいと思う者は少なくありません。もし彼が望むのなら私たちはこの力を使うことだって惜しみません」
忌まわしいとさえされる神の力。それを輝のためなら躊躇なく使えると。彼女は笑顔でそう口にする。
「ここが大浴場です。六十分程で朝食の準備が整います。私はここで待機しておりますので、どうぞごゆっくりお寛ぎ下さい」
着替えとタオルを手渡し、金髪メイドさんは深々とお辞儀をした。
言われるがまま脱衣所に足を運ぶと他の人の気配はない。まだ早い時間だからお風呂に入る人はいないのかな。
お城のお風呂ってどんなだろう? 広いかな? 大きいかな? お湯とかすごい効能とかありそう。
期待がムクムクと膨れ上がる。お城でお風呂などそうそう体験できることではない。
そんなことを考えながら服を脱いで、大浴場に入ると暖かな湯気が肌を包み込んだ。朝の冷気で少し冷えた身体にはとても心地よい。
湯煙の向こう側には大理石で形作られた大広間。
目の前に広がる
(しかも誰もいないから貸し切りだ。ラッキーだね)
ウォルシィラの言う通り大浴場の中には誰もいない。こんなすごいお風呂を独り占めできるとはなんて贅沢なことだろう。
うきうきと上機嫌に夕姫は浴室に足を踏み入れた。すぐにでも湯船に浸かりたいところだがそこは我慢。まずは身体を綺麗にしなければ。
手早く身体を清めて――さあ行こう。
より取り見取り。効能とかまではわからないので、とりあえず一番近くの湯船に浸かることにした。水桶で乳白色のお湯を掬い上げて身体にかけると、じんわりと身体が温かくなって肌がもちもちになった気がした。
十分に温められた肌がほんのりと桜色になる。
足先から湯に身体を浸す。ちょうどいい温度。壁に背をつけて足を伸ばしたいけど、ぺたんとお尻をつけると顔半分も浸かってしまうので仕方なく膝をついて半立ちになる。
うぅ、自分の低身長が恨めしい。
それでも至福の一時であることに変わりはない。長旅の疲れも気の疲れも、何もかもがお湯に溶けてなくなっていく感じがした。
目を閉じながら、考えることは輝のこと。
世界中で彼は悪者扱い。『アルカディア事件』や
けれど輝はこの都市を良くしていこうと王になった。輝が王位に着いたときの演説で、彼は転生体の居場所を作ることを宣言した。自分を糾弾する声にも負けず、迫害される転生体のために王になった。
遠くに行ってしまったように思う。近くまでやってきたけれど、やっぱり遠い気がしてならない。
彼はいま何をしているのだろう。まだ早いから眠っている? それとももう起きているのだろうか。王様は忙しそうだから、すでに政務に取り掛かっているのかもしれない。
やっぱり遠い。
なんの取り柄もない自分が彼に近づいてもいいのだろうか。彼の邪魔になるのではないだろうか。
このまま輝から距離を取るのが彼のためになるのではないだろうか。
「でもそれは、やだなぁ……」
「何がですか?」
「うひゃあぁっ!?」
意図せずして呟いた独り言に返事があったものだから、びっくりして変な声が出てしまった。
「すみません。驚かせるつもりはなかったんですが……」
振り返るとそこには新雪のように白い乙女がいた。髪も肌も白く、宝石のような翡翠の瞳が申し訳なさそうにこちらを見ている。
「ご、ごめんなさい。ちょっと考え事してたので……」
「そうでしたか。でものぼせないように気をつけてくださいね?」
柔らかい微笑みを浮かべるレイの姿に夕姫は同性でありながら見惚れてしまう。
一糸纏わぬその美体は
レイから漂うあまりの色香に夕姫は思わず息を呑む。
これが〝美神〟の転生体。
下腹部にある神名の核が、ことさら
見惚れた夕姫が何も言えずにいるとレイは身体を手で隠しながら身を
「あの……同性とは言えそんなに見つめられると……」
「へ? あっ、ご、ごめんなさい!」
慌てて身体ごと背を向ける。浴場の熱気以外の理由で顔が熱を持った。
同性の裸を見てドキドキするなんて。
「ご一緒させて頂きますね」
そう言ってレイは湯船に足を伸ばした。
視界の端に彼女の肢体が映り込むだけで心臓がバクバク鳴り止まない。唯一の救いは浸かってしまえば乳白色の湯で彼女の裸身が隠れることだった。
「答えは出ましたか?」
背後に感じるレイの気配にドギマギしていると彼女はそんなことを尋ねてきた。
何を尋ねているのかわかった夕姫は少し困った顔をする。
「ここに残るってことになったんじゃありませんでしたっけ?」
「それは貴女が宿す神の答えでしょう? 神楽さんはまだ答えを出していませんよ」
「…………」
輝の要請に対してウォルシィラはこの都市に残ると言った。けれど自分自身の言葉ではまだ誰にも伝えていない。
でも、もう決まったことだからそれでいいのではないだろうか。
「なんとなく、わかります。自分で何かを決めるのって怖いですよね」
何も言えずに黙り込んでいるとレイは呟くようにそう漏らした。
「それでも何もしなかったら流されるままになってしまいますよ。怖くても勇気を出して一歩踏み出してみるのです。踏み出してみると意外と何でもなかったりするものですよ」
「そーゆーものですか?」
「ええ、私はそうでした。ティアノラ博士や黒神さんに教えてもらったことです」
輝が彼女に教えたこと。彼女もまた輝に救われた一人ということなのだろうか。
「レイさんも、その……」
「レイで構いませんよ。敬語も不要です」
にっこりと母性に満ちた微笑み。
じゃあお言葉に甘えてと言えたら良かったが、まだ出会って間もない人を呼び捨てにするのはハードルが高かった。
「じゃあ、レイ……ちゃん」
だからこれが精一杯。こういうところが他のすごい人たちとの差なのかなぁ。
そう思うとちょっと落ち込む。
ちゃん付けで呼ばれたレイはそれでもやっぱり柔和に微笑んだ。
「はい。それで、先ほど言いかけたことはなんですか?」
「えっと、レイちゃんも輝くんに助けられたの?」
「ええ。その通りです」
「奴隷、だったの……?」
「そう、ですね。似たようなものでした」
レイの表情が暗く悲痛に歪む。
「あ、ご、ごめんなさい……」
己の失言に気づき慌てて頭を下げる。あまりにも無遠慮な質問だった。彼女も転生体なのだから、辛い過去を抱えている可能性は十分に予想できたはずなのに。
そんな夕姫にレイはふるふると首を横に振る。
「いいえ、お気になさらず。この都市では珍しくもなかったことです。思い出したくない過去ではありますが、黒神さんのおかげで苦しむことはもうなくなりました」
「輝くんのおかげ?」
「はい、黒神さんに出会う前の私はこの世で最も殿方が恐ろしかったんです。もちろん、そのときは黒神さんのことも怖かったです」
男が怖い。どうしてそう思うようになったのかは聞くことができなかった。だから黙って彼女の話に耳を傾ける。
輝は他の男性とは違った。
レイにとって男とは恐ろしい獣だった。しかし他の全ての男性が欲望を滾らせた目を向けるのに対し、輝はその欲望を抑えつけて理性的に彼女を案じて振る舞った。
そんな男性は輝が初めてだった。
「
そして、とレイは続ける。
「その結果、私は私を傷つけた王族を手にかけました。いま思えばそれが
言葉が出なかった。自分が辛い目に遭って、人を手にかけ、そしてそれを笑いながら語る。
夕姫の感性では、それは異常としか形容できない。
「私は黒神さんの力になりたいと思っています。私たちのような転生体が苦しまずに生きることができる世界となれば、誰もが幸せになることができます。そのために彼の力になれることがあるのなら、なんだってしますよ」
「じゃあもし、そのために誰かが傷つくことになったとしたら?」
「それはきっと黒神さんの目的を妨害する人間……すなわち転生体を排斥したいと考えている人間だと思います。害がなければ放置しますが、敵対するなら排除を躊躇うことはないでしょう」
「でもそれじゃ、
そんなのはおかしい。輝の目指している世界は人も神も共存できる世界のはずだ。輝は転生体も人間だと言っていた。それなのに人間が傷つくことを容認するなんて絶対に間違っている。
「もちろん、起こさないために私たちも力を尽くします。それでも起こってしまう可能性はあります。だって
そもそもの主張が対立しているのです、とレイは言う。
「まずは転生体の居場所を創ること。それが黒神さんの目下の目標です。そのために必要だと断じた犠牲は
レイは立ち上がった。
「朝食までに片付けたい仕事がありますので、これで失礼しますね。夕姫さんも、のぼせないように気をつけてください」
話はこれで終わりだとでも言うようにレイは湯船から出ていってしまう。
納得できないことは山程あり、言いたいことはたくさんあった。しかし口を開いても言葉にならない。
何も知らない世間知らずの自分が偉そうに意見を言っていいものか。どうしてもそう考えて歯止めがかかってしまう。
結局、何も言うことはできず、遠ざかるレイの背中を見送ることしかできなかった。
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