血塗れ王の憂慮⑨
結局レイがゾルアを許すことはなかった。
もう二度とレイがこの教会を訪れることはなく、もう二度とゾルアがレイに関わることはない。例え都市のどこかで見かけたとしても赤の他人として振る舞うことになるだろう。
決別と言えばこれは間違いなく決別だったろう。しかして後味は悪く、喉に何かが詰まったような感覚が残った。
「みっともないところを見せてしまいましたね」
隣を歩くレイは弱々しく呟いた。散々泣いたために瞼は赤く腫れ上がっている。
「俺はそうは思ってないから気にするな」
「黒神さんはそうかもしれませんが、私はそう思ってしまうのですよ」
わかってもらえないことが不満らしくレイは口を尖らせた。主観などそれぞれ。他人は気にせずとも本人は気にするものということか。
けれどもレイの境遇を思えば、あの感情の発露は当然だろう。
それを恥ずかしいとも、みっともないとも思わない。
人間として当たり前の感情だ。
歩きながらぼんやりと空を見上げた。
青い空。白い雲。あの雲のように風に身を任せて漂うだけになれば、果たして世界は平穏になるのだろうか。
きっとなるだろう。争いとは無縁の空。何も考えず、何も行わず、何も為さず、誰もが流されるままに生きるのなら争いなどきっと起こらない。
自分が馬鹿なことを考えていることに気づき、ゆるゆると頭を横に振った。
流されるままに生きるなど、そんなモノはもう人間ではない。人間とは意志を持ってこその生物だ。
思考し、実践し、願いを為す。それができなくなってしまえばもう別の生物だ。
そういう生物だから他者と寄り添うことができる。反面、他者と対立することもある。
人間も、転生体も、神も、あまりに複雑だ。この世界は難解すぎる。
夢を叶えるためには乗り越えなければならない課題が多い。その課題がどれだけあるのかも漠然としてわからない。
だから考える。どうすれば皆が幸せに暮らしていけるのか。
だから試す。その考えが望む結果を手繰り寄せられるのか。
そして成し遂げる。人間も転生体も神も共存できる世界を。
ときおり不安になる。本当にこれでいいのか。このやり方で正しいのか。何か間違えていないか。致命的な間違いを見逃していないか。
何が正しくて何が間違っているのかなんてわからない。暗闇の中を歩いている。足を踏み外し、間違えて取り返しのつかないことになったらと思うと決断が鈍りそうになる。
それでも何かやらなければ何も変わらない。進まなければ何も変えられない。
一歩を踏み出すことはとても勇気がいる。分かりきっていたことではないか。
「怖がりながらそれでも一歩を踏み出した。みっともないだなんて思うはずがない」
「何度も言っていますが、それは黒神さんのおかげですよ」
隣を歩くレイは躊躇いがちに輝の手を取り、両手で優しく包み込んだ。
少しだけひんやりとした指先。すぐに互いの温もりが溶け合い、じんわりと暖かくなった。
「前の私では自分からこんなことはできませんでした。殿方の手を取るなんて考えただけで怯えてしまっていたでしょう。ですが、今はこうして貴方に触れることだってできます」
僅かに頬を染めてレイは熱っぽく輝を見上げた。
「貴方のおかげです。貴方が背中を押してくれたから私は一歩を踏み出せたんです。だから変わることができました」
握られた手から伝わる力が強くなる。応えるように輝も彼女の手を握り返した。
それだけのことで彼女の表情が華やぐ。
その反応を見て輝は老婆心ながら心配になった。いつか完全に男性恐怖症を克服したとき、異性の優しさを知らないこの少女が悪い男に捕まってしまわないかと。
――イリスがいるから大丈夫か。
根拠はなくとも、なんとなくそんな気がした。
「そこな恋人たちよ、少々よろしいかな?」
まさか自分たちのことではないだろうと思ったが、あまりに近くで声がしたので無意識に輝は声のした方へ視線を移した。
頭からつま先まで真っ黒な布で覆われた者が立っていた。深く被ったフードからは青味がかった黒髪が垂れ下がり、その奥から黒い瞳が覗き込んでいる。先に聞こえた声から、どうやら男ということだけはわかるが、その見てくれはあからさまに怪しい。
「そう警戒しないでくれたまえ。自慢に聞こえてしまうかも知れないが、これでも少々名の知れた魔術師でね。この格好は顔を隠すためのものだ。仲睦まじい君たちのことが気になってしまってね、つい声をかけてしまったのだよ」
「こ、恋人……ですか」
恋仲であるように見られたことが照れくさかったのか、レイはちらちらと何度も輝を見上げた。口にはしないが意識するところが違うと内心呆れる。
「下世話なことだな」
「おお、怖い怖い。そんなに睨まないでおくれ」
芝居がかった口調が余計に神経を逆撫でる。
「顔も見せないやつを警戒するなというのが無理な話だ」
「然り。名乗らぬは確かに無作法でしたな」
男はフードに手をかけてその相貌を白日の元に晒した。青味がかった黒髪は男にしては長く背まで伸びている。
見た目は人畜無害そうな優男。しかし人を食ったような笑みは仮面めいた無機質な印象を与えてくる。
輝は、その顔に見覚えがあった。
「私はアーガム=カロライナ。
世界に十二人しかいない世界最高峰の魔術師の一人の名だった。
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