第一章:血塗れ王の憂慮《メランコリー》
血塗れ王の憂慮①
地上から深いところに広がる地下空間。日の光を遮断する空間は、されども文明の利器から発せられる陽光に似た明かりに満ちている。
適度な弾力を持つマットが敷き詰められた部屋は四方二百メートルと広い。
部屋の一角には訓練用の近接武器が集められている。剣や槍に始まり、多節棍や鞭といった変わり種まで。近接武器と分類されるおよそ全ての武器がそこに並んでいた。
それらは全てゴム製。人体に当たっても怪我を負いにくいように考慮された訓練用の武具。
だがあくまで怪我を負いにくいというだけで怪我をするときはする。例えば槍の穂先が眼球に当たれば、ゴムと言えどもどうなるかは想像に難くない。
他には全身を映せる大鏡や様々な形状のサンドバックにミット。体術関連を磨くには十分な設備が揃っている。
『ティル・ナ・ノーグ』本部の地下訓練施設。
神楽夕姫はそこで鍛錬を積んでいた。型の練習。身体の動きに淀みはない。拳、蹴り、踏み込み、転身、切り返し。その全ての動きが流れる水のように継ぎ目がない。
彼女の師は
(常に次のことを意識するんだ。一つの動きが次の動きの予備動作になるように。技後硬直は減るし、動きに迷いがなくなる。身体に染み込ませれば考える前に動くことができるようになる。だけど癖にしちゃダメだ。それを利用されるからね。一つの動きは二パターン以上の動きの呼び動作になるように心がけて。そしてその中から最適な動きを無意識に選択して動けるように)
頭に響く声の要求はあまりにも難しい。それが難しいということ自体を最近になってようやく理解したくらい。
初めは何を言っているのかもわからなかった。身体が動くようになってきて、次の動作に繋げることの難しさを実感した。それを二パターン以上。さらには考えずに最適解を出す。そして動く。その一連の流れをコンマにも満たない一瞬の中で実行する。
はっきり言って無理。それができればまさしく達人の領域だ。
武術の武の字も知らなかった自分が到達にするには果たして何年の時が必要となるのか。
(今のペースだと短く見積もって四十年かな)
空中三段回し蹴りを繰り出しながら目眩を覚えた。今の自分がこんな曲芸じみた動きをできるも、努力ではなくウォルシィラの力があるからだ。おかげで大した努力もせずにここまで動けるようになったのに、その才を持ってしても四十年。
その頃にはお婆ちゃんと呼ばれてしまう。
そんな自分が今のように飛び跳ねる? 想像できない。寄る年波に勝てるとは思えない。
(なに言ってるのさ。覚醒してるんだから夕姫はもう老いないよ。ずっと若くてピチピチのままさ。よかったね。君は永遠の若さを手に入れたんだ)
喜んで良いのか複雑な気分だった。
ずっと若く在りたいと願うのは女性なら誰しも一度は考えること。自分はそれを手に入れた。
嬉しいと言えば嬉しいけど、それは周りの人たちに置き去りにされるということ。
みんな自分を残していなくなってしまう。
お母さんも、お父さんも、友達も。
違う。もういなくなってしまった人もいる。
輝、アルフェリカ。
(ならなおのこと力をつけなくちゃいけないよ。もう置いていかれないようにね。置いていかれそうになったら首根っこ掴んで引きずり戻せるように)
そうだ。自分は輝に置いていかれた。外に連れていけないから。安全な場所で暮らしていけるようにと理想郷に取り残された。
輝は優しい。危険な目に遭わせたくないから。自分を置いていった輝の気持ちがわからないほど浅い付き合いではない。
しかし神楽夕姫にとって輝のそれは優しさではなかった。
置いていった。置いていかれた。平和に穏やかに暮らせることは大切だ。何物にも代えがたい。それがどれだけ幸せであるかも知識ではなく実感として理解している。
でも、やっぱり――。
四肢に力が込められる。柔らかくも力強く。全身の筋肉を流動的に駆動させ、生み出されたトルクを損失なく右の拳に伝達させて撃ち放つ。
撃ち出された拳は空気を破裂させた。
伸ばしきった右腕の肌が鞭で打たれたような痛みを訴える。炸裂した暴風に髪がなびき、それは衝撃波で少しばかり床に散らばった。
頭の中から叱責が飛んでくる。
(あーもうっ、だから音速を超えて動いたらダメだって言ってるでしょ。服は破けるし肌にも髪にもダメージいくんだから。ハゲるよ?)
「うっ……ごめん、つい」
(夕姫の身体だし、夕姫がハゲたいなら別にボクは構わないんだけどね)
「私だって別にハゲたいわけじゃないよ。ちょっと力が入っちゃっただけなのっ」
『アルカディア事件』。そう呼ばれる事件で輝のことを考えるとどうしても平静でいられなくなる。
(まあこれだけ動けて考え事する余裕あるなら、もうしばらくは加速度的にレベルアップできそうだけどねー。壁にぶつかるのはあと二、三年先って感じかな。ボクの力があるからとはいえ人間とは思えない習熟速度だよね)
これは将来が楽しみだ、と呟く声に夕姫は沈黙した。
夕姫が生まれた時からずっと共に在った友人であり相談役でもある〝戦女神〟ウォルシィラは、そっと尋ねた。
(やっぱり輝には傍に居て欲しかった?)
運動で熱を持った身体がさらに熱を持った気がした。
「そりゃ、いままでいた人がいなくなったらやっぱり寂しいよ」
(輝にも同じこと言ってたね)
そう、同じことを言った。学校を辞めてしまった彼に。
それでも今までは会うことが出来た。傍に行けば傍にいることが出来た。
だけど今は会えない。会いたくても会えない。半年間もこの寂しさを拭えずにいる。
不安で仕方がないのだ。
惨劇を引き起こしたのが黒神輝とアルフェリカ=オリュンシアだという。
輝がどんどん自分が知っている黒神輝ではなくなっていく気がして不安でたまらない。
「くちゅん」
ぶるりと身体が寒気に震える。運動で火照った身体はいつの間にか、肌を伝う汗に熱を奪われていた。
(とりあえずシャワーでも浴びて流してきなよ。身体を冷やして良いことはないからね)
「うん、そうする」
床に散らばった毛髪を軽く掃除して夕姫は訓練場の出口へと向かった。
ドアノブに手を伸ばそうとしたとき扉が勝手に開いた。
姿を見せたのは複数人の男たち。年齢は様々。夕姫よりも年下もいれば三十を超える人もいる。
歳に違いがあれども共通して全員が引き締まった体躯をしていた。訓練着の上からでもわかる鍛え上げられた肉体は、弛まぬ努力の賜物であると窺える。
『ティル・ナ・ノーグ』に所属する戦闘部隊。魔獣相手に白兵戦すら仕掛けることができる鋼の戦士たち。
「おっと、夕姫ちゃんじゃないかっ」
先頭に立っていた男が夕姫に気がつくとニカッと快活に笑った。
歳も身体も自分より一回り以上にある男に見下ろされた夕姫は若干の威圧感を覚えながら、それをおくびにも出さず愛想よく挨拶した。
「おはようございますっ。今日も皆さん早いですねっ」
ニッコリと花が咲くような笑顔。
元気のある声を耳にした男たちも夕姫の存在に気づき――
「お、夕姫ちゃんだ」「今日も元気だな」「おはよう夕姫ちゃん」「相変わらず可愛いな」「毎朝鍛錬を欠かさないのは偉いな」「熱心なのは良いことだ」
順番に訓練室に入ってくる男たちからの思い思いの挨拶に夕姫も笑顔で応じた。
「どうだ? もうここには慣れたか?」
「はいっ、皆さんよくしてくれるのでだいぶ馴染めたと思いますっ」
あの日以来、夕姫は守護者として『ティル・ナ・ノーグ』に所属することになった。
そもそも守護者とは何なのか。
狩人だけでは対応しきれない高ランクの魔獣が都市近郊に現れたとき、これを討伐する覚醒体の人。
それくらいの認識だった。
しかし聞くところによると要請があった各地方や組織の要人警護。敵性転生体・敵性覚醒体の捕縛・討伐も行なっているという。
討伐。つまり殺すということ。
そう聞かされたとき、背筋が冷たくなったのを今でも覚えている。
守護者の肩書きを背負う以上、戦いとは無縁ではいられない。事が起こったとき都市の人々を守るために前にでなければならないときが必ず来る。
正直、怖い。
いくらウォルシィラの力があったとしても、ただの学生として過ごしてきた自分に戦いの心構えはない。
せめて自衛ができる程度には、と『ティル・ナ・ノーグ』の隊員の訓練に参加することを義務付けられて早半年。慣れない場所で慣れない訓練。今までの生活からは想像もしなかったことをこなしながら、それだけの時間が流れた。
何か変わったのか、変われたのかは自分ではわからない。
ただあっという間だった気がする。
「あの、夕姫さん」
思い悩むように感慨に耽っていると最後に入ってきた茶髪の少年に声をかけられた。
「あ、
少年を見て夕姫はにっこりと朝の挨拶をした。
『ティル・ナ・ノーグ』の訓練に参加し始めたばかりの頃、一度ペアを組んだことがあるのをきっかけに、よく話しかけてくれるようになった十七歳の男の子。
『ティル・ナ・ノーグ』では先輩だけど、後輩が慕ってくれているようで何だか嬉しい。
夕姫に挨拶をされると
「おはようございます。今日の訓練は終わりですか?」
「うん。だって今から『皇地部隊』の皆さんの訓練でしょ? 私は邪魔になっちゃうから切り上げるつもりだよ」
「そんな邪魔だなんて。訓練と言っても自主的なものですから、もし余裕があればご一緒にどうですか。夕姫さんと俺は戦闘スタイルも同じですし、お互いに良い練習相手になると思うんです」
「私なんてまだまだだよ。ウォルシィラの力に頼りっきりだもん。とてもじゃないけど久路土くんの練習相手は務まらないよ。格闘技って難しいよねっ。自力で強くなった久路土くんって凄いと思うよ」
「でしたら俺が夕姫さんに教えるというのはどうでしょう。俺もまだまだ未熟者ですが、それでも教えられることはあると思います。それに人に教えることで自分の力にもなりますし」
ずいっ、と京也は力強く一歩前に踏み出す。夕姫の足が無意識に後ろに下がった。
「あはは、ありがたいけど今回は遠慮しておくね。このあとシールさんに呼ばれてるんだ」
「そう、ですか」
少し残念そうだったが、幹部からの招集と聞いて京也は身を引いた。
「ではまたお誘いしますのでお時間があるときには是非お願いします」
「うん、また今度ね」
見送る京也に笑顔で手を降りながら夕姫は訓練室の扉を閉めた。
「ふぅーっ」
思いがけず大きなため息が出てしまう。角が立たないように断るというのは思いの外神経をすり減らすものだ。
「うーん、これきっとアプローチされてるんだよね」
(はは、夕姫も隅に置けないねっ)
ウォルシィラがカラカラと同意した。やっぱりそうだよね。
今のようなやりとりは何も今日が初めてではない。顔を合わせると彼からお茶や訓練のお誘いを受けることが割と頻繁にある。
経験豊富とは口が裂けても言えないが、何も知らない無垢な乙女というわけでもない。彼が自分に少なからず好意を持っているということくらいは感じ取れる。
嬉しくないと言えば嘘だ。悪い子じゃないからお誘いを受けること自体は別にいいかなと思わなくもない。
しかし胸中に渦巻く言いようの無い感覚が、彼の誘い受けることを躊躇わせるのだ。
(まあ、雄にモテることは悪いことじゃないから良いと思うよ。夕姫から行けば念願の彼氏ができるかもよ?)
「私は別に彼氏が欲しいわけじゃなくて……」
本当に欲しいのは輝との――
そこまで考えて意識的に思考を打ち切る。
(ごめん、ちょっと軽率だったね)
夕姫の思考を読み取ったウォルシィラが申し訳なさそうにした。
「気にしないで。ウォルシィラが支えてくれるから自棄を起こさずに済んでいるんだから」
そう。自分が今もこうして笑顔を作れるのはウォルシィラが居てくれたおかげ。
ウォルシィラに身体を返してもらったとき、輝はもういなくなった後だった。
本当はすぐにでも輝のことを探しに行きたかった。しかし〝断罪の女神〟との戦闘で深手を負った身体は全然言うことを聞いてくれず、治療カプセルの中で数日を過ごすことを強いられた。
その数日で輝の消息は途絶えてしまった。GPS機能で『アルカディア』近郊に輝の端末の反応があると聞いたときは歓喜で胸が満たされたが、その場所にあったのは輝が使っていた端末だけ。
探している姿はどこにもなかった。
輝との繋がりさえ絶たれ、足元が崩れ去るように錯覚した。輝の携帯端末を渡された途端、涙が溢れて止まらなかった。
泣いて。泣いて。ずっと泣いて。涙が枯れることなんて全然なくて。泣き疲れるまで泣いて。眠りから覚めるとまた泣いた。
どうして輝を止めてくれなかったのか。あのとき身体を返してくれなかったのか。
悲しくて、腹立たしくて、辛くて、痛くて。頭も心もぐちゃぐちゃになって、ウォルシィラには心無いことまで口走ってしまった。
輝に会いたい。
ただそれだけを思い続けた。会えないことが苦しくて窒息しそうだった。
そんなときに、ウォルシィラは言ったのだ。
――じゃあ会いに行こう。
会いたいなら会いに行けばいい。それだけのことだと戦女神は言ってのけた。
居場所がわからない? なら探せばいい。
見つからないかもしれない? 見つかるまで探せばいい。
会ってくれないかもしれない? 輝の都合なんて関係ない。
ウォルシィラの考えはシンプルだった。
会いたいから会う。それだけ。それ以上の理由なんていらない。
散々酷いことを言ったのに、それでもウォルシィラは寄り添ってくれる。
だからこそ、夕姫は悩むことをやめられた。
輝に会いに行くため、何をすればいいのか、何を身につけなければならないのか。
勢いに任せて外の世界に飛び出すなど論外。もう一度輝に会うためには外の世界でも生き残れる力が必要不可欠。
(幸いなことに、居場所はもうわかってるからね)
「うん」
黄金郷『オフィール』――今は『ファブロス・エウケー』と呼ばれる都市。
黒神輝はそこにいる。
奴隷にされていた転生体の暴動を煽動し、大勢の死者を出した
どうしてそんなことをしたのか、夕姫にはなんとなく理解できる。
そしてその結果が輝にどれだけのものを背負わせるかも。
「……うんっ。やっぱり早く力をつけないと。力を貸してね、ウォルシィラ」
(もちろんさ。早くあのバカを一発ぶん殴ってあげようよ)
「あはっ、そだね」
こんなにも自分を振り回しているのだから、それくらいの報いは受けて当然だろう。
胸に抱く悲しみを希望で包み込み、夕姫は汗を流しに向かった。
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