私のための物語

 なぜ小説を書いているのか。自分のためである。小説に限らず映画や漫画など、古今の名作に心打たれる経験はあれど、この作品は私のために書かれたものであるとか、これこそは私の生きる指標だとか、そういう記念碑的な物語と出会う機会にはついぞ恵まれなかった。きっとこれからも出会うことはない。

 他人の創造物は他人を中心として流れ出るものだ。それが自分の型とぴったり一致するなど、ほとんどあり得ない。基本的に読書体験、物語体験は妥協の連続である。どんな物語も自分とのシンクロ率は一〇〇パーセントを切る。我々は妥協した物語の中で、シンクロ率の高い順に物語を選択していき、それを自分にとってのオールタイムベストだとしているに過ぎない。

 無論、偶然一致することはある。自分の好みと一〇〇パーセント合致する創作物に、偶然出会う可能性もなくはない。人は偶然勝つこともあるし、負けることもある。それらの結果を否定しない。偶々おのれとシンクロする作品に出会えたというのは、極めて幸運な結果である。微笑ましいし、羨ましい。しかし、それはそれとして、偶然に身を委ねるのは馬鹿である。愚の骨頂。少しでも理性があるのなら、再現性のある方法を考えるのが人間だ。

 私はその方法として、小説を書くことを選んだ。自分のための物語と出会うために、自分が主体となって生産するのが一番確率が高い。もっとも、確率が高いだけで百発百中、おのれの魂に合致した作品が書けるわけではない。『時限爆弾と日食』も『闘う中学生』もまだ私の理想には届いていない。

 自分の小説によって満たされる瞬間は二つある。一つは完成させたとき、いま一つは時間を措いて再読したときである。消えてしまいたくなるような恥ずかしさも過去の自分に新たな一面を見つけた感動も、すべて貴重な財産である。

 私はまず自分自身を満足させたい。そのために理想の小説を目指す。ついでに、読んでくれた人も満足してくれたらと思う。無論、自分にしか伝わらない作品を書いても物語とは呼べない。物語は常に観客席に向けて発表されるべきだ。だから、自分を観客席に持っていく必要がある。非常に難儀なことだが、この作業をやらねば物語は成立しない。自分というたった一人の観客に向けて披露する。これが私の物語観だ。

 私はゲーテが好きだ。ゲーテの天変地異を突き動かし、宇宙全体を巻き込むような才能が好きだ。ゲーテは天才で、それでいて究極のエゴイストであるから好きだ。彼の数多の傑作は彼自身のために書かれた。社会のためとか世界への問題提起とかいった理由づけは二次的なものに過ぎない。世界中の読者は、ゲーテの自己救済の余りでもって、勝手に救済されているのである。彼は自分を殺して書くことを決してしなかった作家である。

 こう書くと、「ゲーテはエゴイストではなくインディビジュアリストだ」と反論する人がいるかもしれない。私はそうは思わない。エッカーマンとの対話を読んでも、彼は「良い人」ではなく「したたかな」人だったと見受けられる。そういう人でなければ『ウェルテル』を書けなかったし、その後に物語を作ろうなどと思えるはずがない。

 なんだか当たり前のことを書いてしまった。しかし、当たり前のことこそ、繰り返し声を大にして言い聞かせなければならない。肝に銘じると言うが、肝は摂取した物質をすぐにまた別の物質へ変化させてしまう器官なのである。

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